靴下が濡れた。とても嫌な気持ち。
物語の拒絶。
『死ぬのは怖くない。』
『……なんで?』
『なんでかな?……そんなもんだろって感じ。』
タバコを鍋でぐつぐつと煮詰めて、
ニコチンを抽出している。
『それを、オレに飲ませるの?』
『うん。』
『考えただけで、吐き気がする。』
『うん。』
『……笑えるけどな。』
『……そうだね。』
———
ありふれた光景。
特別な事は何も無い。
普通の古びたアパートの
普通の錆びだらけの鉄の階段を登って、
3つ目の普通の部屋。
そこに人間が、ふたりいて、
名前も必要ない。
『死ぬのは怖くない。』
誰か。
『ニコチン』
の僕。
どこにでもある、
ありふれた普通の光景。
『なあ。退屈なんだけど。』
『鍋、もう少し時間かかるから、待ってて。』
『お前の事とか、話してくんない?』
『え?いやだよ。』
『いやなの?』
『うん。』
『じゃあいいや……』
鍋の湯気は、耐え難い悪臭で、
汚れた台所の不快さを、致命的にする。
シミだらけの床。湿気とニコチンが
僕の足の裏にベタベタと纏わりつく。
『……駅がみえる。』
『駅?』
『こっからさ。ほら』
『ふうん。』
『みんな、これから仕事なのかな?』
『わかんない。』
『毎日、働いて……みんな大変だなあ。』
『そうだね。』
『オレはさ、働いた事がないんだよ』
『ふうん。』
『聞きたい?』
『別に。』
『だよな。どーでもいっか。』
『うん。』
『鍋、そろそろなのか?』
『たぶん……もう少し。』
『死ぬのは怖くないけどさ、
なんていうか……薄いなあ。』
『何?』
『薄いんだよ。』
『薄いって?』
『もっと、ロマンチックなものだと思ってたよ』
『死ぬのが?』
『死ぬのは。』
『そうなんだ?』
『涙も出ねえ。』
僕はガスコンロの火を止めた。
『できた?』
『うん。』
『じゃあ、口を開けていればいい?』
『うん。』
『他には?』
『それだけ。』
『わかった。』
死ぬのが怖くない誰かは、
その口に、漏斗を咥えた。
『オ〝ー。ゲー。』
潰れた声で、オーケーと言って、
目を閉じた。
ニコチンの鍋。
ゴボゴボ。
ゲエゲエ。
———
部屋からの帰り、傘も持っていないのに、
雨が降った。
靴を通り抜けた雨が、靴下を濡らした。
とても、嫌な気持ち。




