真夜中のオトモダチ〜うちの日本人形は、ちょっと面倒くさい〜
『ウラ……メシイ……』
筆で描かれただけの細く紅い唇から、かすれた声が、静けさの中に響く。
肩下で揃えられた漆黒の髪。
闇に浮かび上がる白い顔。
ガラス玉の瞳。
座敷のガラスケースの中にいるはずの古い日本人形が――確かに、美保子を見ていた。
『ウラ……メシイ……』
再び、ささやく。
今度はほんの少しだけ、唇の端が動いた気がした。
背筋に冷たいものが走る。
「ちょっと、お千代ちゃん。そのささやき声止めてよ。怖いじゃない。電気つけていい?」
『ダメ……マブ……シイ……』
「だから、その声止めてって。も〜分かったわよ。部屋が乾燥してるって言いたいんでしょ?濡れタオル持ってくるから」
日本人形の遠回しすぎる要求に、美保子は深くため息をつき、体を起こした。
常夜灯だけの部屋は、相変わらず薄暗い。
日本人形のお千代は、美保子が怖がることを分かって、闇の中で『水……ヲ、クレ……』と呟いたり、シクシクと泣き声を響かせてくるのだ。
「一応、タオル二枚干しとくね。これでいい?」
濡らしたタオルを部屋に干しながら、お千代に声をかけた。
「ああ……やっと話せそう。湿度は50%くらいが私のお肌にいいって、前から言ってるでしょう?早くハイブリッド加湿器買ってよね」
「無理だって。そんなのお小遣いじゃ買えないし」
美保子の返した言葉に、お千代が小さくため息をつく。
お千代は、座敷に飾られている日本人形だ。
美保子の家に代々伝わるそれは、長い年月を経て、付喪神になったという。
子どものころ、お千代が仏壇の饅頭に触れようとしているのを見てしまったのが最初だった。
それからだ。
夜になると、お千代はガラスケースを抜け出して、美保子の部屋に遊びに来るときがある。
日本人形も、色々と言いたいことがあるらしい。
「ねえ、聞いてよ。フミさんのとこのお孫さん、クマのぬいぐるみが大好きで、いっつも一緒に持ち歩いてるんだって」
フミさんは、近所に住む、美保子のおばあちゃんのお茶飲み友達だ。
お昼になると、よく家に来ては座敷で長話をしている。
「フミさん、今日も遊びに来てたんだ」
お千代は、そこで新しい情報を仕入れては、美保子に話しにやってくる。
「そうなの。私もう、恨めしくって。フミさんのお孫さん、ぬいぐるみをいっつも一緒に持ち歩くくらい大事にされてるのに……。それに比べて、私はどう?って思うのよね……」
「どう」と言われても困る。
なんて答えればいいのだ。
「美保子ちゃんは、私を散歩にだって連れて行ってくれたことないのに……。学校だって、一度も連れて行ってくれたこともないし……」
お千代がそこで口をつぐんだ。
『ウラ……メシ……イ……』
「ちょっと、その声止めてって。なんで掠れ声にするのよ。学校にお千代ちゃんを連れて行けるわけないでしょう?先生に見つかったら、絶対怒られるって」
「じゃあ、今度の休みに行く映画、一緒に連れてってよ。今流行りの『深夜の鏡部屋』、観に行くんでしょう?」
「も〜おばあちゃん、そんなことまでフミさんに話してたの?」
座敷で余計なことを話さないでほしい。
この前の夕食時に、『今度、友達とホラー映画観に行くんだ。全米が泣いちゃうくらい、すっごく怖いんだって』と言ったことを話題にしたのだろう。
「いいな……私も観たいな……」
「お千代ちゃんを一緒に映画に連れてったら、それこそ周りが怖がっちゃうでしょう?主役の日本人形が、お千代ちゃんに似てるな、って思って観に行く映画だもん。お土産に、パンフレット買ってくるからさ」
「まあ……それなら」
渋々ながらもお千代が頷いてくれて、ホッとする。
「フミさん、今度お孫さんを連れて来るんだって。お孫さんはいいけど……きっと、そのクマのぬいぐるみも一緒に来るよね?私、ぬいぐるみなんて、きらーい。ちょっとモフモフしてるからって、かわい子ぶってるもん。あざといと思わない?」
「あざとい……かな」
「も〜女子って、単純なんだから。モフモフしてるってだけで、すぐ騙されるよね。それに女子ってさぁ、フランス人形みたいに、目がパッチリしてる子にも甘いよね。あの子たち、レースの付いたドレスなんか着ちゃって、気取ってるのに。私、フランス人形もきらーい」
「あ〜うん。フランス人形はまつ毛も長いし、目も大きくて、ドレス着てるね」
『……ウ……ラメ……シイ……』
「ちょっと!ほんと止めよ!私はフランス人形持ってないし!欲しがったこともないでしょう?」
「そうだけど……」
お千代が薄い唇を尖らせる。
日本人形のお千代は――本当に面倒くさい性格だ。
お千代が続ける。
「フミさんのお孫さんさあ、髪が結べるくらいに伸びたんだって。ついこの間生まれたと思ったのに……月日が経つのは早いもんだねえ……」
声が寂しそうだった。
フミさんのお孫さんはもうすぐ2歳になるはずだ。
古道具は、100年経つと付喪神になるという。
付喪神になって長いお千代は、2年など流れるように過ぎ去るのだろう。
お千代は、美保子のおばあちゃんのおばあちゃんのおばあちゃんも、子供のころから知っていると話していた。
『みんなに置いていかれるのは寂しいねえ……』
そうポツリと話していたこともある。
「お千代ちゃん……」
なんて声をかければいいか、美保子は口ごもる。
自分の髪先をすっすっと触るお千代が、とても寂しそうに見えた。
「私も、もっと髪伸ばそうかな〜」
(……違った)
お千代が、付喪神のその先へ行こうとしている。
髪を伸ばす日本人形。
――それは呪いの髪人形だ。
「お千代ちゃんは、そのままの方がいいよ。今は茶髪より、黒髪の子の方が増えてるし。パッツン前髪も、流行りだよ?今どき女子じゃん」
「え〜そうかな?えへへ。美保子ちゃんがそう言うなら、髪型は変えないでおこうかな」
髪を伸ばすのは止めてくれたようだ。
美保子は内心ほっとする。
お千代がこうして話せることは、美保子しか知らない秘密だ。
髪が伸びるお千代を見たら、家族が驚いて、どこかに供養に出してしまうかもしれない。
常夜灯の灯る薄暗闇の中に浮かぶお千代は、いつだってちょっとホラーだが、子供のころからの友達なのだ。
このまま変わらずに側にいてほしい。
「あ、もうこんな時間。日が変わっちゃう。お肌に悪いし、もう寝ようっと。お休みなさい、美保子ちゃん」
「あ、うん。お休み、お千代ちゃん」
ふと気がついたように時計を見たお千代が、キィと小さな音を立てて、部屋の扉を開く。
そして、シュッ……シュッ……と、小さな足袋の音を廊下に響かせながら、お千代は座敷へと戻って行った。
また何もなかったように、ガラスケースに収まるお千代は――たまに本気で怖いけど、子供のころからの大事なオトモダチだ。




