茜色の空
長年勤めあげた会社へ来るのも、今日で最後か――。
正門の前に立ち、ビルを見上げて小さく息を吐く
思えばこの会社も、小さな雑居ビルの一室から始まった
社員は自分を含めて数人
今では百人を超えるまでになり、当時から残っているのはもう自分だけだ
「おはようございます」
背後から声をかけられて振り向く
少し前まで疲れ切った顔をしていた部下が、今日はどこか晴れやかな表情をしていた
「おはよう」
いつものように返すと、部下はにこやかに笑って横を通り抜けていった
――最終日。
とはいえ、特別なことは何もない
違うことといえば、デスクの上が少しずつ空っぽになっていくことくらいだ
最後の書類を片づけ、挨拶を終えて外に出ると、
空は淡い橙色に染まり、街の風が少し冷たくなっていた
「ニャー」
突然、足もとから声がして見下ろすと黒猫がいた
『この猫… どこかで見たような…』
思い出す間もなく、猫は歩き出し、思わずあとを追う
小さな路地に入ると、チリン――と鈴の音がした
黒猫の首輪についた鈴の音だろう
その音に導かれるように進むと、古びた木の看板が目に入った
「……確か、この店」
呟いた瞬間、懐かしい記憶が蘇る
――大学を出て、夢いっぱいで入社したあの頃
ミスをしては上司に叱られ、自分には向いていないのではと落ち込んでいた日
あの時も、黒猫が現れて、この店へと導いてくれた
扉を開けると、
店主が、あの頃と変わらぬ穏やかな笑みで迎えてくれた。
「お疲れさまでした。今日は、とっておきの一杯を用意してますよ。どうぞ、ごゆっくり。」
促されるまま席に座り、差し出されたカップを口にする
香ばしい香りと、ほのかな甘みが身体に沁み渡っていく。
思えば会社のため、家族のため、誰かのために走り続けてきた年月だった
その重さが、ゆっくりとほどけていく
「……これからは、誰かのためじゃなく、自分のために生きてもいいのかもしれないな」
チリン――。
店の外で、再び鈴の音が鳴った
「あの子も、これからのあなたを楽しみにしているみたいですね」
店主が、柔らかく微笑んだ。
「楽しみ、か」
店を出ると、黒猫が待っていた
そっと撫でると、黒猫は気持ちよさそうに喉を鳴らす。
街の灯りがともる中、家路に向かう足取りは軽く、
入社式のあの日のように、少しだけ、胸が高鳴っていたー。




