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第八章 ミナミゾウアザラシの島(ハーレム)

 点繋道は暗かった。

 しばらく休んで気力を取り戻したパールを連れて、一平は、横穴を奥へ奥へと進んだ。

 暗い割には何事も起こらない。彼ら海人にとって危険な生き物は、この横穴には存在していないようだった。

 時折、小さな生き物の動く気配がする。このような所に生息する動物は極力エネルギーの消費を抑えるために動かないものだから、動いたとすれば餌を見つけた時だろう。もしくは交尾の時だ。

 発光体を持つ生き物が、ちらり、ゆらりと揺れて、地上の蛍を連想させる。

「きれいだねぇ」

 闇は得意ではないはずのパールでさえ、うっとりと感想を口にする。

 キャプターの言った通り、小一時間もたたないうちに突如景色が変わった。この明るさは深海ではない。太陽の光が届く場所に出て、二人は胸を撫で下ろした。

 やはり光はいい。

 微かな光でも、海人の彼らは増幅して感じることができるが、海上の明かりが一番好きだった。太陽の光を近く感じていると気持ちが明るくなる。いつ終わるともしれないこの果てしない旅の行く末も明るく見えてくる。だから一平は出来る限り波間の旅を楽しみ、イルカやトビウオの気持ちに共感した。島で自分たちの位置を確認していたので、陸地をいち早く見つけられると言う点でも必要だったのだ。

 最近は、太陽や星の動きでずいぶん時や場所がわかるようにもなった。これは理屈ではなく、経験らしい。海上へ出たことのないパールも知らないことだったから、二人で驚いたり感心したりしあった。

 光は近かった。海上に近い明るさだ。

 深海と海上付近とでは水圧もまるきり違う。普通の人間ならとっくに肺が潰れている高圧も海人たちには影響がない。だから身体が不調を訴える事はないが、違いは感じ取れる。徐々にではなく一気に、一瞬のうちに移動したというのは身体でわかる。

 水深に加えて、出口の目印も大きく異なっていた。いや、そもそも目印というものがなかった。四次元ポケットかに嵌まり込んだかのように唐突に、何もない海水だけの場所に出たのだ。これでは、ウェッデル海からスコシア海に来れてもスコシア海からウェッデル海には跳ぶことは不可能だ。

「一方通行…。後戻りはできない、ということか…」 一平ごひとりごちるとパールが言った。

「その方がいいじゃん。パール、もうあんなとこ行くのやだ」

 南極のことではない。吸血花たちの住処のことだ。

 一平とて、同感だった。

 海水以外何もない場所ではどちらへ行ったらいいのかもわからない。視界の利かない水中よりも、海上だ。天気さえよければ、多分目的のサウスジョージア島が見えるはずだ。

 海上を目指して泳ぎ始めた一平に、パールが声を掛ける。

「一平ちゃん、その前に海蛇探そうよ。もっと元気つけなきゃ」

 充分回復したと思っている一平は、心配性だな、と言うように笑う。

「パールの言ったことちゃんと聞いてたの?」

 パールはちょっとむくれている。

「大丈夫だって。ほら、元通り大剣だって振るえる」

 そう言って、一平は剣の型をさらって見せた。

「だめだって‼︎栄養取らないと、またすぐへなっちゃうよ!」

 パールは真剣だ。 

 勢いに気圧されて一平は眉尻を下げた。

「…そうは言ってもなぁ…。こんな寒冷地じゃどこを探したっていないだろ?蛇なんか…」

「だって…」

 言い募りかけたパールは口を噤んだ。一平の言う事はもっともなのだ。

 しかし、不服そうなしょげ顔も一平の恋心を刺激する。彼はパールのいる所まで戻り、優しく手を引いた。

「わかったよ。無理はしないさ。無駄かもしれないけど道々探してみる。でもその前に、ともかく一度方向を確かめたいんだ。いいだろ?」

 諭されてパールもコクンと頷く。これ以上言い張るのは無意味と知る。

「さぁ。行こう。おいで」

 一平においでと言われて拒否する理由があろうはずもない。パールのしょげ顔は一転して笑顔と化した。


 幸い天気は良かった。波は高いが、どうにか小さく島影がが見える。

「きっと、あれだ。サウスジョージア島。キャプターさんの言ってた島だよ」

 サウスジョージア島には、春になるとミナミゾウアザラシが繁殖のために大挙してやってくる。ミナミゾウアザラシはこの辺りの海に生息する海獣だ。成長した雄は、体重六百キロにもなり、周りにたくさんの雌を従える。雄同士で激しい戦いを繰り広げ、より強い者がより多くの雌と交尾できるのだ。

 雌も、よりよい子孫を産むためにより強い雄の傘下に入る。昨年の夏に身ごもった子をこの繁殖地で出産し、すぐまた次の出産準備に入るのだ。子どもが育つ間、広い砂浜で雄の力に見合った大小のハーレムを共に形作る。

 雄は雌を守るため、体当たりで侵入者とぶつかり合い、噛み付き合い、血だらけ、傷だらけの死闘を繰り返す。大きく垂れ下がった袂のような鼻を震わせて咆哮を上げ、力を誇示するさまは圧巻だ。丈夫そうな皺だらけの体は正しく陸上の象を連想させる。その分厚そうな皮膚の下には豊富な脂肪が蓄えられている。

 断熱材のような分厚い皮下脂肪を持ったゾウアザラシでも、この寒さの中で生まれたばかりの子どもを育てるには陸の上が適しているらしい。冬は空っぽのこの浜も、繁殖期の今は六千頭のゾウアザラシで埋め尽くされていた。

「すごい数…」

 パールがぽかんと口を開けて呟いた。サウスジョージア島の白っぽい砂浜に、黒っぽい塊が無数に見える。そのほとんどは、子育て中の雌であり、小粒なのがその子どもだ。ひとつのハーレムに雄はただ一頭。体も大人の雌とは比べ物にならないくらい大きい。一目でそれとわかる。

「ドードーっていうのはどこにいるんだろう?」

 ドードーはミナミゾウアザラシの長だとキャプターから聞いている。と言う事は実力者であり、ハーレムも一際大きいのに違いない。

 一平はパールを連れて島を一周してみることにした。

 そんなことをせずとも、手近な群れに近づいて尋ねれば済むような気もするが、繁殖期の動物は一般的に言って気が荒く、神経質になっている。実際、自分のハーレムに一歩でも他の雄が侵入すれば、地響きを轟かせて追い払おうと挑みかかるのだ。その過程で、生まれて間もない赤ん坊が巻き添えになって死ぬことも珍しいことではないくらいに。

 一平たちはミナミゾウアザラシではないが、用心に越した事はない。下手に刺激してあの巨体に圧し掛かられでもしたらひとたまりもない。海の中よりも陸上の方が逃げ道は少ないので海人には不利だ。

 幸い一周するのに何日も掛かることなく、二人は一番大きそうなハーレムに目星をつけることができた。

「大丈夫?」

 そばへ近づくにつれ、迫力満点の巨体が実感として感じられ、パールは怖気づいている。

「おまえは来なくてもいいぞ。陸の上だから動きにくいだろ」

 一平の服の袖を引くパールを背後に従え、陸地を睨みつけたまま一平は言った。

「やだ」

 言われてパールは即、逆らう。

「空いている地面がほとんどない。アザラシたちを乗り越えていかなきゃならないぞ」

 確かにその通りだった。でも置いて行かれるのはパールはいやだった。少々膨れっ面で、パールは恨めしげに一平を見上げる。

「…パールが一緒に行っちゃ、邪魔?」

「…そんなこと、言ってないだろ」

「だって…」

 もうパールは泣きべそをかき始めている。

 泣くほどのことか⁈と、一平も呆れる。

 だが、結局はパールの言うことを聞き入れてやる。

「わかった。来いよ。一緒に行こう」

 そう言って、背中を屈めた。

「?」

 パールの泣きべそ顔が疑問のそれになる。

「早くおぶされ」

 一平の意図を理解すると、パールは嬉しげに飛びついた。


 浜はミナミゾウアザラシで埋め尽くされている。一際大きいハーレムの主は一目でどこにいるかわかったが、そこへ辿り着くまでが結構大変だった。

 何しろミナミゾウアザラシにとってふたりは見たこともないような生き物の組み合わせなのだ。危害が加えられることはないと本能的には悟っているようだが、近寄りすぎれば威嚇はされる。授乳中の雌などは特にそうだ。

 しかも、そういう時に限ってパールは興味を示し、可愛いだの、いいなぁだの、もうちょっと見たいだの、余計なことを言って一平を足止めする。

「いい加減にしろよ。ドードーのところへ行きたくないのか?」

 さすがの一平も、業を煮やして顔を顰めた。

 嗜められて一旦はおとなしくなったものの、しばらくすると、何を思いついたか、熱弁を奮い始めた。

「ねぇ、一平ちゃん、ゾウアザラシってすぐに大きくなるんでしょう?寒いから急いで大きくなって、丈夫な皮膚を作るんだよね」

 どこで仕入れたのかパールの知識は正しい。生まれた赤ん坊は三週間ほどで薄皮ばかりの体から脂肪の大きな塊へと変身する。

「よく、そんなこと知ってるな」

 意外な、と思わず首を曲げた一平の背中で、パールがエヘヘと笑った。

「栄養のお勉強もしたの。ムラーラで」

「メーヴェさんか?」

「うん、お師匠様はすごく物知りだもん。でも、それだけじゃないの。ミラ姉さんに聞いたの。ゾウアザラシのことは」

「へえ…」

 お医師のメーヴェが博学なのは頷けるとしても、あのミラと栄養学、というのがどうにも一平には結びつかない。

 口調にそのことが表れていたのだろう。パールのお喋りに一層熱が入った。

「ミラ姉さんて、ずっと長いこと諸海を旅してたって言ってたでしょ」

 そういえばそうだった。十四歳で出奔したミラがムラーラに戻ったのは、二十歳になってからだと聞いている。その間どこをどう旅していたのか詳しくは知らないが、六年は半端でなく長い年月だ。不案内な自分とは違って、あのミラなら世界一周くらいはしていてもおかしくないと一平は思った。

「さすがは、ミラだな」

 一平の相槌に、パールは嬉しそうに微笑み返す。

「だからね。きっとお乳がすごく濃いんだと思うの」

「ああ…。なるほど…」

「栄養がいっぱいあって、飲んだらすごく元気になるんじゃないかな⁈」

「……」

 

 パールの言いたいことがわかった。一平を復調させるための海蛇の生き血。その代替品をパールは見つけたのだ。

「ね⁈」

 パールはまっすぐに自案をどう思うか訊いてくる。

 説得力のある内容には一平も感心する。しかし…。

「けど…。飲ませてくれるかな?」

 ここのミナミゾウアザラシたちは、乳飲み子を抱えた母親ばかりだ。皆、自分の子を育てるのに精一杯で、余分な乳など持ち合わせているとは思えない。それにもし(うべな)ってくれたとしても、一体どうやってアザラシの乳なんか飲めと言うんだ?

 かつては自分も赤ん坊で、母親の乳房に齧り付いていたはずだが、とっくにそんな記憶は消え去っている。どうやったら湧き出るのかなんて知りもしないし、動物とは言え、女性の乳首を咥えて、どうこうするさまは考えるだに恥ずかしい。

 パールはそういう配慮にまで気が回らないらしい。赤ん坊に毛の生えたような部分も持ち合わせているからなのか、そういうことも日常的にあり得た生活をしてきたのかもしれなかった。

「パールが頼んでみる。大丈夫だよ、きっと。誰かひとりぐらいはいいって言ってくれるよ。あんなにいっぱいいるんだもの」

 すでにこの提案から身を引きたくなっていた一平は、眼前に累々と横たわるアザラシの肢体を眺めて独白した。

「…マジかよ…」

 早速に一平の背中から降りようとするパールを、一平は焦って引き止める。

「待て。まずはドードーに会ってからだ。奥さんたちに勝手に手を出したら、ただじゃ済まなくなるぞ」

「…あ、そっか…」

「まだ気づかれちゃいないが…。それにしても、遠いな。なんて広さなんだ。信じられないくらい大きなハーレムだよ…」

 いっそのこと、さっさとこちらに気付いて跳んできてほしい。

 そう思ったのが通じたのだろうか。不意に、遠方の大きな塊が身動きした。

 ため息をつく二人に向かってドスドスと、雌たちを掻き分けて進んでくる。

「あ…」

 一平が考えていたよりも、ずっと素早く敏捷に、ミナミゾウアザラシの長はやってきた。雌たちが気づいて道を開けた。

 十メートルほど手前で長は立ち止まり、ブルブルと袂のような鼻を震わせた。長と二人の間には砂浜しかない。いつの間にやらミナミゾウアザラシでひしめき合っていた海辺には小さな広場が出来上がっていた。

「何者じゃ?おぬしは?」

 鼻息は意味を伴って海人の二人に届いてきた。

 一平はあることに気づき、さっと腰を屈めた。

 目の前の巨体はいわば一国一城のの主だ。礼を尽くさねば得られる情報も得られない、と。

「珍しいの。海人の訪問者とは」

 ミナミゾウアザラシは二の句を継ぐ。膝をつき、頭を垂れた一平の姿勢に、害意のないことを見てとったのだ。

「一平と申します。連れの名はパール。トリトニアの者です。ミナミゾウアザラシの長、ドードーどのとお見受けしますが」

「いかにも。わしがドードーじゃ」

「ジーのキャプターと言う兵士にあなたのことを伺いました。この辺りに公道の点繋道があり、あなたがその場所をご存知だと。教えて頂きたくて訪ねて参りました」

 一平の礼儀正しい態度に心を開いたのか、はたまたこういうことには

慣れているのか、ドードーは即答を返してくる。

「あいわかった。頂くものさえ頂ければ、すぐにも案内しよう…で、何を持参した?」

「え?…」

 沈黙が流れた。


 一平の頭の中が混乱する。

(どういうことだ?何を、頂くって⁈)

 だがすぐに、付け届けを要求されているのだとわかった。意外すぎて、すぐに対応を思いつけない。

「どうした?まさか、何もないと言うのではあるまいな?」

「え…その…」一平は口ごもる。「あの…すみません。通行料がいるとは聞いていなかったので…。必要なら、出直してきます…」

 その程度の言い訳しか出てこない。

「なんじゃ、てっきりその娘っ子かと思うたぞ。ちと

異形だが、若くてピチピチしている。この先長く子を生めそうじゃ」

 冗談じゃない。パールをこのごまんといる後宮の女たちのひとりにしようと言うのか。一平は自分が口から火を噴くのではないかと思った。

「パール、美味しくないよ。それに小さいし丈夫でもないの」

 食べられると思ったのだろうか。憤死寸前の一平に代わって、一生懸命辞退の意を表している。

「出直します!出直しますから‼︎」

 頭に血を昇らせている場合ではない。一平は迷わずパールを引き寄せ、背後に庇うと喚き立てた。

 とにかく、一旦退散だ。作戦を練り直し、慎重に当たらねば。

 まさか、大ハーレムの長ともあろうものが、こんな要求をしてくるとは思わなかった。まるで時代劇に出てくる悪徳代官か強つく張りの高利貸しじゃないか。人身売買を生業とするなんて。

 この場から逃げ出すことしか、今の一平の頭には浮かんでこなかった。


 ドードーには追ってきてまでパールをどうこうしようと言う気はないようだった。

 なのに慌てているせいか、一平はこけつまろびつしながら戻る羽目になる。

 我ながら情けないと思いつつ、一平は今躓いた一頭のアザラシに失礼を詫びた。

「…すいません。大丈夫…ですか?」

 思いっきり蹴飛ばしたように感じたので気が咎めた。

「うう…うぉ…」

 アザラシは唸っている。

 怒っているのか、とも思ったが、違った。苦しんでいるのだ。

(ボ…ボクのせいか⁈)

 パールも異常に気づいて背から降りた。

「くっ…苦しいんですか⁈どう…」

 おろおろする一平に、近くにいたアザラシが声をかけてきた。

「その()はね、この間初めての子を亡くしたせいで乳を腫らして苦しいのさ。かわいそうだが仕方がない。しばらく痛むだろうが、運がよきゃ、じきに自然に収まる。あんたのせいじゃないよ」

 口振りからは、年配のベテラン母だと伺える。

 対するに、呻いているアザラシはまだ成熟したての若い雌なのだ。

「赤ちゃん、死んじゃったの?」

 パールが悲しげに訊く。

「よくあることさ。これだけ子どもがいても、無事大きくなるのは一握りに過ぎない。だから長と言えど、ドードーにもどうしようもない」

「そんなに…苦しいものなんですか?赤ちゃんがいなくなると」

 自分の子を亡くして苦しくない親などいまい。それは一平にもわかる。不思議だったのは、それに伴う母親の体の不調の方だった。

 子どもを育てるために、女は乳を出す。子を産むと自動的に乳が製造され、乳房に溜められる。子どもが飲むことで、母親の体の中から外へ、赤ん坊の体の中へと摂り込まれる母乳は生き物だとも言えた。

 母体も生きている。赤ん坊が飲まなくなったからといって、ぴたりと製造を止めることなど母体にはできない。機械ではないのだから。

 後から後から作られる母乳は出所を失って乳房に溜まり続ける。容量を超えれば溢れ出そうともがく。乳房は腫れ、硬くなって熱を持つ。当然、痛く、苦しい。

 人間ならば手技で絞り出せもしようが、アザラシではそうはいかない。他の個体に吸い取ってもらう知恵も思いつかない。

 

 女体の神秘に一平が呆然としている間に、いつの間にやらパールは施術を始めていた。異様に膨らんだアザラシの腹―胸だろうか?―に手を翳して診察し、何やら優しく話しかけている。そして徐にアザラシの乳首を咥えた。

(え⁈)

 乳を吸う赤ん坊のようなパールを口を開けて見ていると、いきなり呼びつけられた。

「一平ちゃん。ここへ来て。横になって口を開けて」

「な⁈…」

「早く」

「……」

 こういうパールには従うしかない。一平はのろのろと身を動かした。

 パールが指定したのは、アザラシの腹のすぐ横である。横になるとすぐ目の前にアザラシの乳があった。

「目、瞠って。口だけ開けてて」

「⁈」

 不審ながらも言われた通りにすると、ほどもなく、何か温かい液体が口の中に飛び込んできた。

「なにっ⁈」

「じっとしてて!お乳入ったら、飲み込んで」

 喋る間もなく、次々と口の中に水鉄砲のように飛んでくる。パールは、アザラシの腫らした乳を絞って、一平の口の中に送り込んでいるのだった。乳搾りの手つきが妙に手際よい。

 後で聞いたところでは、トリトニアではイルカの乳を母乳代わりに絞って飲ませることがあるのだそうだ。病弱なパールは、母親の勧めにより度々こうして飲んでいたらしい。

 

 十分ほど続けた後、パールは祈りを込めて歌を歌った。今は空になり、痛みも熱も引いているが、またいずれは張ってくるはずだ。それが少しでも少なく、軽くて済むように、との施術の一環であるようだった。 そして周りにいた雌たちが驚く中、情報が伝わったのか、ドードーがそばに来ていた。

「このようなことは初めてじゃ。間近に海人の『癒しの力』を見るなど…」

「ドードーさん…」

「私にはどうしてやることもできなんだ。……よかったな、ワスメ」

「あい…」

施術をされた雌アザラシは、ワスメという名らしい。丸く大きな目をうるうると潤ませ、パールのことを伏し拝んでいる。

「ついてこられるがよい。海人どもよ」

「え…」

「公道へ、案内しよう」

「でも…」

 まだ、通行料は払っていなかった。なのになぜ?…。

「メスを一頭もらうのと同じくらいの価値がある。あのままでは、子を作る気にもなれんかった」

 パールの施術を料金として受け取ってくれたようだが、どうにも複雑だった。ドードーの口にする言葉にも気恥ずかしい一面がある。一平は即座に受け答えができない。

「どうした?行かないのかね?」

 喜んでついてくる様子が見られないので、ドードーは不審に思っているようだ。

「参ります!…ありがとうございます」

 一平は居住まいを正して、ドードーの後を追った。


 


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