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第七章 生気移しの術

 横穴の中に一平を横たえてから、身を起こしたパールは初めて気がついた。ここまで連れてくる間、パールの顔の真横にずっと、差し渡し一メートルもある大剣の刃が剥き出しであったことに。

 刃先を見れば、すうっと身体が冷たくなり、気分が悪くなって卒倒するのが常だった。にもかかわらず、今回はずっと傍らに、パールにとっては恐ろしくてたまらないはずの刃の切っ先が存在していたのだ。

 改めてパールはびくっとなる。無我夢中でここまで来て、そのことにはまるっきり気がつかなかったが、逃れてきた今では触るのも怖い。

 だが、パールはなけなしの勇気を振り絞り、まずは短剣を鞘に戻した。一平の背から剣帯を下ろした。恐る恐る一平の指を大剣の柄から剥がし、大剣を掴んで相棒の鞘に差し込んだのである。

 大きく息を吐いて一平を見る。露出している肌のほとんどが膨れ上がっていた。手も足も顔も首も頬も瞼も唇も。吸血花の吸盤の持つ無数の針は、刺激物を獲物の身体に注入して痺れさせてから、栄養である血液を吸うのだ。程度は違うが、蚊と同じ方法である。そのくせ、太陽光の届かないせいで赤味は差さず、どす黒い。

 身体は大きいが筋肉で締まり、決して厳つくはない一平の体型もぶくぶくと太って見え、形相も重症のおたふく風邪のように変わっていた。

 一平は身動き一つしない。

 パールは胸に耳を当ててみる。

 心臓は動いていた。

 だがその音は、血流の少ないか弱い音でしかない。

(いやだよう…)

 張り詰めていた緊張が途切れ、パールは目に涙を溜めて、一平の上に突っ伏した。

(一平ちゃん。一平ちゃん、一平ちゃん。一平ちゃん、起きてよう。パール、どうすればいいの…)

 歌を歌えばいいのだろうか。普段なら迷わずそうした。でも、今はなぜか歌いたくない。歌えない。

 ―まずは状況をよく見ることだ。冷静にね。慌ててはいけない。患者に意識があればなおのことだ。狼狽えて余計な不安を感じさせてはならない。患者自身が誰よりも一番恐れ、不安になっているのだから―

 メーヴェの教えが蘇る。

(はい。お師匠様…)

 冷静にならなければいけないのだとはわかる。泣いていては、治るものも治らないのだ。

 パールは手の甲でぐいっと涙を拭き取った。

 一平の状態を診なければ。


 ―深呼吸をして静かに目を閉じる。心の波が穏やかになったらそっと患部に手を翳す。触れる必要はない。水を隔てて伝わってくる痛みや熱や痺れなどの感覚こそが、今まさに患者が味わっている苦しみなのだよ。触れれば誰でも熱ぐらいは感じることはできるだろう?それは心眼ではない。身体の中の状態は心の目でこそ見ないといけない。目を閉じるのは見た目に惑わされないためでもあるんだよ―

 メーヴェの教えに従い、パールは目を閉じる。瞑想に入り、何かに操られているかのようにゆっくりと手を動かす。

 熱とともに冷たさが伝わってきた。痛みはない。痺れが振動として伝わってくるのは身体が麻痺しているせいだ。腫れている表面は熱いが中は冷たい。血が足りないのだ。

 そうではないかと思っていたが、思った以上に足りていない。

 生き物の血―特に海蛇がよい―を飲ませるのが一番効果的で効き目も早いのだが、この深度と寒さでは見つけるのは難しい。

 今ひとつ取るべき手段としては、身体を休ませ温めて、血行を良くすることだった。日の光に当たるか、

温度の少しでも高いところに連れて行くのが一番よい。

 だが、そんな体力も今のパールにはもうない。一平を運んだだけで疲れきっていた。

 己の非力さが恨めしい。

 もっと丈夫であったなら。もっと身体が大きければ。体力も少しはあって役に立つのに。これほどに、一平の足手纏いにならずに済むのに。

 考えあぐねた末、パールは一平の上に身体を広げる。自分の体温だけでもないよりはましだろうとの思いから。胸の上に胸を、手の上に手を、足の上に足はないので尾を乗せて熱が伝わるように念じる。とても一平を覆えるような体格ではないので、甚だ効力が心許ない。

 念じながらパールは思い出す。 

 一平が、このようにしてくれたことがあったことを。


 ムラーラで、無理をして倒れた翌日、さらに施術に赴こうとしたパールを止めるために、一平はこうした。体全体でパールに触れ、心から心配していることを伝えようとした。

 そう言えば、あの後もパールは人事不省になったのではなかったか。あまり頻繁に倒れるものだから、心配したメーヴェが秘術を施してくれたと言う。それを行うと、施術者の体力が極端に消耗されると言う『生気移しの術』だ。

 それでなくとも、施術は気力と体力を使う。病弱なパールはそれでよく寝込む。それでも、それを承知の上で、メーヴェ医師はその術をパールに施してくれたのだ。

 元気になってから、パールはそのやり方をメーヴェに問い質した。

 今はできなくとも、もしもの時には使えるかもしれないので、手順だけでも教わっておこうと思ったのだった。

(そうだ。…それがあった…)

 パールは迷わなかった。再び身を起こし、一平の身体を横向きにした。

 髪を掻き分けて、項の中央の凹んだ部分を露わにした。

 自分の唇を押し当てて、息を吐く。ゆっくりと、念じながら。

 盆の窪と呼ばれる凹みから一平の中へ、パールの生気が送り込まれてゆく。

 一度もしたことがないのに一発で成功するというのは、さすがに天性の癒しの力の主である。習得するのに一年もの歳月を費やしたメーヴェが知ったら地団駄踏んで悔しがるか、尊敬と驚きで呆然となるか。おそらく後者だ。

 ゆっくりと時は流れていった。

 パールの意識も、やがて途切れる。

 気力も体力も尽きて眠りにつく。一平に寄り添ったままで。


 どのくらいの時が過ぎ去ったのかわからない。

 意識を取り戻した一平は、上体に少女の重みを感じて、目を開けた。

 夜毎一平の懐に潜り込んでくるパールは、朝起きるまでそのままの姿勢でいる事はまずない。寝返りも打つし、悪夢を見ればかじりつくし、ゴロゴロ転がって海藻の茂みに姿を隠してしまうこともある。一平の腹の上に大の字よろしく尾を乗り上げていることもあった。

 だから取り立てて珍しい感覚だったわけではない。

 少女は一平の肩の上に乗りかかっている。

 疲れきった様子で、ぐったりしている。目の下に隈があった。

「パール⁈…」

 身体を支えながら身を起こし、そっと抱いて覗き込む。

「ん…」

 身体を動かされて、パールは身動きした。

 おぼろに瞼が上がり、青い瞳を覗かせる。

「大丈夫か?」

 何がどうなったのかわからないが、とりあえず尋ねた。

「一平…ちゃん⁈」

 パールは寝ぼけている。

 だが、突如、はっきりした。

「一平ちゃん‼︎」

 愛らしい手を一平の頬に差し伸べてくる。

 変わらぬ優しい眼差しを注がれて、パールは涙ぐむ。

「パール⁈」

 少女の手は一平の首の後ろに回される。

 しっかと首っ玉にしがみつかれて一平は狼狽えた。

「…どうした?…」

 言葉が出てこなかった。だが、気持ちは充分に伝わっている。

「また…世話になったらしいな。おまえに…」

 察して一平が礼を言った。

 パールは身を離して、ただ微笑んだ。

「どう…やったんだ?」

 一平は吸血花のことを言ったのだが、パールは違う意味にとった。

「生気移しの術をしたの」

「え⁈」

 その名は知っていた。実際の施術を見たこともある。施術者に大きな負担がかかることも知っている。一平はメーヴェがパールに術を施すのをすぐ間近で見ていたのだ。

「あ…」

「よかった。…やったことなかったけど、成功したんだね」

 安堵して笑うパールが眩しい。

 顔が火照ってきて、パールの顔をまともに見ていられなくなった。

 ここに光がなくてよかったと思った。今の一平は赤い顔をしているに違いないからだ。

 でもそれよりも、首の後ろの方が熱かった。


 盆の窪。

 かつてパールのそこにメーヴェが触れた時、一平は嫉妬に悶えた。

 まだボクでさえそんなところに触れたことないのにと。それを止めることもできない、ただ見ているしかない自分が歯痒かった。自分にその術ができるのなら、他の誰にもやらせはしないのに。

 その一平の切望した行為を、今度はパールが自分にした。

 想像しただけで身体が燃えるようだ。

 どのくらいの時間、パールはそうしていたのだろう?

 メーヴェよりも実績がない分時間がかかったかもしれないし、計り知れないパールの神秘の力を考えれば、難なくやってのけたのかもしれなかった。いずれにしろ、一平に尋ねる勇気はなかった。

 だが、待てよと思う。

 あの術は、施術者の気力や体力を奪うはずだ。パールは消耗していないのか?

「おまえ…まだ寝てた方が…」

 いいんじゃないか、と言うつもりが遮られた。

「一平ちゃんが元気になったんだもん。平気だよ」

 隈のある目で無邪気に笑う。

「早く行こう、近道に」

 少しでも暖かいところで、海蛇の生き血を飲ませたい。

 パールの目には見えていた。一平は仮の元気を取り戻しただけなのだ。

「パールは平気だよ」

「嘘をつけ、隈を作ってるくせに」

 一平が半ば真剣に、半ばおちゃらけてパールの額を小突く。

 小突かれるままに、パールは後ろへひっくり返った。

「わっ」

 思った以上の効果に驚いて、一平は慌てて手を伸ばす。

 倒れたとて危険はないが、条件反射だ。パールを抱き止めてほっとする。

「…そら見ろ…」

「…うん…」

 一平の腕に抱き止められて、パールは気持ちよくなる。心地好い眠気が襲ってきて目を開けていられない。

「一平ちゃん…へび…見つけて食べて…」

 うとうとしながら呟いて、パールは睡魔に引きずり込まれていった。

 パールの意図するところを理解し、一平は頷いた。

 髪を撫でつけ、額に唇を寄せる。少女が起きている時には滅多にしたことのない感謝の印を、パールの額に刻みつけた。

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