第四章 南氷洋
南極大陸。
地球上で最も極寒の地、六大大陸のひとつである南極の広さは日本のほぼ三十六倍。アメリカ合衆国とメキシコを合わせたくらいだ。
その九十九パーセントが分厚い氷床に覆われた広大な無人境である。氷の大陸と言われる所以であり、厳しい気候の下では沿岸部を除き、草一本、動物一匹生きられないと言う。
自然を征服しつつある人間であっても然り。念の入った重装備なしにはひとたまりもない。低い雲や氷混じりの霧、乾燥雪の風、そしてマイナス三十度以下に下がる気温が、戸外での作業を耐え難いものにしている。
気温が生命を維持できる最低温度以下に下がってきても、人体は熱を失っていくことにほとんど気づかない。まず手と足が凍る。それでも脳や心臓、肺といった生命維持に絶対必要な器官は通常体温の三十七度にしばらく止まっているが、ついには身体の内部も冷えてしまう。心地好い疲労感が襲ってきて、思考能力や視力に悪影響が表れ、身体が揺れ、眩暈を感じ、最後には完全に倒れてしまう。この厳しい環境に適応して南極を生息地としている動植物が極めて少ないことを、容易く納得できる環境だ。
そんな南極であっても、好んでやってくる動物もいるし、そこでしか繁殖できない動植物もいるのはどうしたことだろう。
例えば南半球が夏の時には、食物を求めて南極大陸周辺の海に鯨が集まってくる。氷で覆われた南極の海であっても、二十種類もの鯨が入り込んでくる。
そして、海人のパールと一平も。
ふたりは南アメリカ大陸の南端の海峡を抜けて大西洋へ向かうことにしていた。一日も早くトリトニアに着くためには、南極に立ち寄るのなど問題外だ。
にもかかわらず、一平が更に足を南へ向けたのは、確たる情報が欲しいからであった。
トリトニアが大西洋にあると言うのはセトールやドンによる推測であり、それが北大西洋のどこかであるということは、以前パールの見た夢から読み解いた憶測に過ぎない。南太平洋に住むムラーラの人々も、トリトニアなどと言う海人の国の存在は、誰ひとりとして知らなかった。おおよその目標は掴めても、いずれも推測の域を出ない状況なのだ。
だが、手掛かりはある。
確かなのは、トリトニアがポセイドニアという海人の国を成す十国のひとつだというパールの証言と、セトールが南氷洋でラサールに会っているという事実の二点だ。
ラサールはトリトニアの人間。彼は部下を率いて、毎年のように南氷洋へダイオウイカの漁に訪れていたと言う。だとすれば、今年もトリトニアから誰かが南氷洋へ来ているのではないだろうか。これはかなり確率が高いと思われた。
南氷洋でトリトニアから来た人間を見つけて、その国の在処を聞く。
北大西洋などという漠然とした情報ではなく、はっきりとした位置、道筋や目印を知識として仕入れておきたい。
南氷洋へやってきた一行もいずれは国へ帰るのであろうから、それに同行できれば一層確実だ。
一平は大いに期待をしていた。
南極の大地は白い。
いや、それを大地と言ってよいものかどうか。
彼らの前に聳え立っているのは、高さ数十メートルの氷の絶壁である。氷の白い壁は横へどこまでも伸びていて、所々氷河の流れなのか、そこが巨人の斧で切り取られたかのような氷山がいくつも海に押し出されている。
大小様々な氷の塊を道中無数に見てきた。極点へ近づくにつれ、流氷は次第に高さと幅を増してきている。目の前の絶壁の後ろには氷の山が再現なく続いている。更にその先にも、果てしなく広がる白銀色の大氷原が奥へ奥へと続いていた。それも先へ行くに従って少しずつ高くなり、遥か彼方の高い所でわずかに空との間に一線を引いているのだ。
その大地に足を踏み入れる気は毛頭なかった。
会いたいのはトリトニアの人々であり、彼らは海人だ。陸地に用はないはずだった。
海の中を探すしかないのだ。
とはいっても、目的の人々は一平たちとそう変わらぬ大きさだ。この広大な海のどこをどうやって探せばいいのか…。
彼らの目的から察すると、ダイオウイカの生息域を探せばよいのだが、それも不案内な一平には皆目わからない。頼りは同じくダイオウイカを狙っているクジラの存在しかない。クジラならば体が大きいので、少しは見つけやすかろう。
あてどもなく南極の海を彷徨っている時、パールがある集団を見つけた。
クジラの集団だ。体調は十五メートルほど。上顎に瘤状の突起があり、背中にも出っ張りがある。下顎から胸にかけて、縦に筋がついていた。ザトウクジラの群れであった。
だが、ザトウクジラはヒゲクジラの仲間であり、ダイオウイカは狙わない。オキアミやスケトウダラ、ニシンなどを好んで食べる。
彼らはかなり海底に近い辺りで円を描いていた。細かい泡をしきりと吹き出している。青く暗い中で、白い泡の光が美しく乱舞している。よく見ると、その泡の塊の中や上に黒っぽいものがたくさん見え隠れしていた。ニシンの群れだ。
ザトウクジラはこの泡にニシンを閉じ込め、水面に追い上げてから、海水ごと飲み込んで口の中の髭で濾して食べるのである。バブルネット・ フィーディング―泡の網―という。
その光景を、離れた所からふたりはうっとりと眺めていた。捕食の方法は色々とあるが、これは芸術作品のように美しい。優雅ささえ感じられる。パールなどは、「うわあ…」「すごいすごい」「きれーい」などと感嘆の声を上げっぱなしである。
やがて狩りを終えると、ザトウクジラたちは、思い思いに散っていった。それぞれ独立しているようでも、いざ狩りとなるとどうやって呼び合うのか、統制の取れた武装集団のように仕事をこなしている。一見の価値はあった。ニシンのおこぼれを頂戴できたのもラッキーだった。
「あのクジラさんじゃないんだね」
ニシンを齧りながらバールが言った。
「ああ。探しているのはイカを食べるマッコウだ。大きさはあれくらいなんだけど、うんと頭がどでかい。前に高く突き出ている。セトールの仲間だ」
「ふうん…」
「そういえば…」頷くパールを見ながら、一平は聞いてみようと思う。だめで元々だ。「パールは食べたことないのか?ダイオウイカ」
南氷洋にしか生息しないので聞くまでもなかったが、トリトニアの人々がなぜ南極くんだりまでイカを獲りに来るのかが不思議だった。
クジラは回遊する習性を持っている。種にもよるが、南半球の場合、南氷洋で捕食したクジラは秋とともに北上し、赤道近くの低緯度の海を目指す。冬の間、雌はこの海で受胎して、再び北上して暖かい海で出産するのだ。
パールを見ている限りでは、トリトニアの人々の食生活はクジラとはまるきり違う。何もわざわざ世界の果てまで食べに行かなくてもよさそうなものだし、獲ったイカを持ち帰ることも不可能だ。一体どこにその必然性があるのか、一平には甚だ疑問であった。
パールの答えは当然、うん、である。
「どうしてダイオウイカなんか獲りに行くのか知っている?」
その質問には、首を横に振る。
「イカが好きな種族なのかな?そういえば、おまえ、タコ好きだよな」
「うん。みんな、タコもイカも好きだよ。イカはね、目が良くなるんだって。だからパールももっと食べなさいって言われる」
「目が?」
陸上ほどには視界の効かない海の中で生き抜いていくために、視力は欠くべからざるものなのかもしれない、と一平は思った。夜闇の中でも、光が少ない海底でも、波覚が働いてさしたる不都合はないが、更に目が良ければそれに越した事はない。いち早く危険を察知できるし、獲物を見つけるのも先んじることができる。一平はなるほどと納得してしまった。
「南氷洋に行くのはね。確か…軍の人たちだったと思う」
「軍?」
パールの言葉に一平は耳をそば立てた。
「トリトニアには、軍隊があるのか?」
「うん。兵隊さん達、いっぱいいる」
「じゃあ、戦いも?戦争もあるのか?」
ムラーラにはなかったが、かつては長い大きな戦いがあったと聞いてはいる。
「トリトニアは今はどことも戦ってないよ。でも、他の国にも軍隊があるし、お城もあるし、王様もいるの。時々、よその国同士が戦ってるって、聞いたことある」
「……」
戦争を放棄している日本に生まれ育った一平にとって、国と国との間に交わされる戦争は遠い世界の話のように聞こえる。この旅に出て、生きるために他者―人ではないが―の命を奪うのは日常茶飯の事だったし、神獣退治に乗り込んだ経験もした。しかし、集団対集団の争いには無縁だった。
パールが…この幼い少女の故国が、今は平和とは言え、戦争と隣り合わせにいる世界だと言うことに気がついて、一平は衝撃を覚えていた。
そんな所へパールを帰していいのだろうか。
守備よく無事にトリトニアに辿り着けたとして、そのトリトニアで万が一にもパールが犠牲になりでもしたら、一平のしてきた事は全て水泡に帰してしまう。
一平は尋ねずにはいられない。
「パールが…トリトニアにいた頃、戦争をしていたのはどことどこの国だ?」
ポセイドニア十国の名と位置関係くらいは、道々パールから繰り返し口にしてもらったので頭に入っている。
「うんと…。ガラリアとレレスクが時々国境で諍ってたけど…。あとは大体落ち着いてたよ」
「ガラリアって…確か、トリトニアの隣の国じゃなかったか?」
「うん。お隣さん。でも、トリトニアは強いから。他の国には手を出しても、トリトニアにはあんまりいろいろ言ってこないの」
案外、国情については詳しいじゃないか、と一平は妙に感心した。言葉は拙いが、理は適っている。
「そうか…。きっと、トリトニアの王様は力のある、いい王様なんだな」
そう感想を述べると、パールは嬉しそうに頷いた。
取り敢えずは平和な国らしい。少し安心すると同時に、もし戦争中でも親元へ送り返さないわけにはいかないのにな、と複雑な思いを抱いた。
「とにかく、マッコウだ。見つけたらそばにいることにしよう。きっとトリトニアの人々も現れる」
そう信じて待ち始めてから、早や十日が過ぎた。
あまりのんびりもしていられない。南極の夏が終わる前に、いや、ドレーク海峡も暖かいうちに通り抜けたいのでもっと早めに、ごこを出発しなければならない。南極の夏は短いのだ。陽の沈まぬ白夜が終わる前に、ひとりでいいから海人と出会いたい。
その夜も白夜だった。
水平線上の夕日は、巨大な黄金色の塊となって一層の輝きを見せていた。黄金色に染まった海面の流れはふたりのいる所まで漂ってくる。海鳥は金色の小さな塊となって飛び交い、夕日はいつまでも沈まず、やがて斜めに水平線を転がり続ける。夜半には今度は朝日となって昇り始めるのだった。
薄明の中、心地好いまどろみを緊迫した気配が打ち破った。
すぐ近くで何かが生命を戦わせている。
一方は大きく、もう一方は小さい。
一平は精神を集中させ、気配の方向と距離を計った。それがほど遠くないことを悟ると手早くパールを起こして注意を促した。
こういう事は特に珍しいことではない。
海は弱肉強食。己が生きるためには、自分より弱いものを倒して己の糧にしなければならない。下手に同情して弱者を助けようと思ったら、身体がいくつあっても足りはしないのだ。身体の大きさはそれぞれだが、そこかしこでこのような殺戮は行われていた。
一平がわざわざパールを起こしまでしたのは、弱者が自分と同じくらいで、強者が自分たちを捕食する可能性のあるサイズであることを感じ取ったからである。もしもその弱者が運良く逃げ果せれば、そう遠くない位置にいる自分たちにその牙が向けられるかもしれないからだ。
もちろん、当の弱者が捕食されれば、まずこちらは無事でいられる。慌てて逃げ隠れする必要はないのだ。その趨勢を見守る必要はあったが、必要以上に恐れる事はない。
だが一平はおとなしく身を潜めていることはできなかった。
次第に明らかになる弱者と強者の姿が、海人とシャチのそれであることが明らかになったからだ。
クジラの姿はよく目にしていた。
図体は大きくても、彼らは一平たちの敵ではない。俗に言うクジラにとっては捕食の対象ではないため、安心して近寄ることも話をすることもできた。
生物学的にはクジラもイルカもシャチも同じ仲間である。体長の違いにより、大きいものをクジラ、小さいものをイルカと呼び習わす。大体がプランクトンや小魚、イカなどをその身の糧とする。唯一危険なのはシャチだ。クジラの仲間の中で、唯一獣食性であり、獰猛で賢く、群れで狩りをすることもある。
そのシャチが、あろうことか人の形をしたものを襲っていた。
水温が氷点下になろうという南極の海だ。地上の人間ではありえない。この水温下で、これだけの時間生きて動いていられるというのは、海人に違いない。
それがわかった時、一平は瞬時にして行動を決めた。パールにここから動くなと言い含め、背中の大剣を抜いて生命のやりとりをしている場へ向かった。
黒い巨体にくっきりと真っ白な模様が浮かんでいた。目の横と背鰭の後ろ、下顎と腹、顎の下から腹にかけてが白いため、真っ白な前掛けをしているように見える。
シャチは海人の手の先を咥え込んで振り回していた。体長は七メートルほど。マッコウやザトウの半分ほどだが、海人から見れば圧倒されるほど大きい。地球上で最大の生き物であるシロナガスクジラでさえ、群れで攻撃して少しずつ食い千切る海のギャングである。その歯は大きく、鋭く、何でも好き嫌いなく貪欲に食べる。
シャチの咥えているのは海人の手ではなかった。海人が手に持つ何かだ。細長く丈夫そうな何か。
そばに近づくにつれ、それがどうやら槍の一種であるらしいとわかる。激しく振り回されているのにもかかわらず決して手放そうとしないのは、おそらくその海人にとってただひとつの武器であるからだろう。手を離せば、シャチはその鋭い歯で槍をバリバリと噛み砕き、次の瞬間には海人の身体の一部に喰らいつく。それがわかっているので、彼は手を離さずにいるのだ。力比べをしている間は、人よりは単純な頭脳のシャチのこと、それに夢中になってくれるから。
だが、それもいつまでも保つものではない。体格の有利は戦いの有利だ。青年は―その海人は若い男性だった―気力と体力を使い果たし、今にも意識を失いそうである。
一刻の猶予もならなかった。一平はシャチの盲点を突こうと背後へ回った。努めて冷静に、何気ない通行人を装って、シャチを刺激しないように近づいた。
わずかに上方から大剣を繰り出し、振り下ろす。
ズブリという手応えを感じた直後に生温かい血の洗礼を受ける。
大剣を引き抜きざま、刃を返して下方から切り上げる。
不意打ちを食らい、シャチはひとたまりもない。陸に揚げられた魚のようにひくひくと身を震わせていたが、じきににそれも止まった。絶命した証拠に、少しずつ海上へと浮き上がって行く。
それを見届けて、一平は件の海人に視線を戻した。 青年は一平の方をぼんやりと見ていた。失神寸前だ。何が起こったのか把握できていない、とろりとしたまなざしだった。
数秒後、その目がくるりとひっくり返る。
よくパールがするやつだ。気を失う時に。
一平は慌てて泳ぎ寄った。
力の抜けた胴体を抱き止め、背に担いで踵を返す。
血の匂いの充満した場所を急いで後にした。
「一平ちゃん!」
パールの近くに青年を横たえ、一平は尋ねる。
「診てくれるか?気を失っただけだと、思うんだが」
パールは真顔で、だが頼まれたことを嬉しそうに、うんと頷いた。
青年の手を取り、体温と脈を診る。怪我のないことを確認し、頭部に手を翳す。目を閉じ、心眼で頭の中に異常がないか確かめてから顔を上げた。
「平気。すぐ、目が覚めると思う」
「そうか。よかった…」
「起こす?」
この青年から一刻も早く聞き出したいことがあるのを、パールも心得ていた。だが、できれば少し休ませてあげたほうがいいのだ。青年の身体はそう主張している。
「いや…」一瞬、躊躇った後、一平は応えた。「休ませてあげよう。まさか何日も眠り続けるわけじゃないだろ?」
一平の返答に満足して、パールは言った。
「じゃあ、パール、お歌を歌うね」
ああ、と一平も静かに頷いた。




