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第三章 小さな勇者

 その途端。

 再び阿鼻叫喚が湧き起こった。

 彼らを取り巻いていたイワトビペンギンの群衆の一部でだ。

 新手のオタリアが現れたのだ。

 しかも一頭ではない。七、八頭はいるだろうか。最前の騒ぎで油断をしていたペンギンたちは、あえなくオタリアの餌食となってゆく。

「逃げろ!皆、早う逃げるのじゃ!」

 老ペンギンがただでさえ高い声を張り上げて叫ぶ。

 ペンギンたちは右往左往するが、スーだけは違った。こんな時勇者ならどうするのか。それが知りたさに、老ペンギンの命に従わず、ひたすら一平のそばについていることを選んだ。

「逃げないの?」

 パールが尋ねる。

「これ以上の介入は越境行為だ。オタリアの生きる権利を何の関係もないボクらが侵害してはいけないと思う」

 血気に逸るだけの一平ではなくなっていた。海で暮らすうち、自然の理を海で生きる者の掟として、一平は多くを身につけつつあった。

「そんな!助けてくれないの?勇者⁈」

「言ったろう。ボクは勇者なんてものじゃない。我が身に危険が及ばない限り、必要以上の殺傷は…」

 しないことにしている、と言い終わる前にスーはその場を飛び出していた。

 その嘴に一平の短剣を咥えて。

「スー‼︎」

 一平の叫び声にもスーは答えない。まっしぐらに一頭のオタリアを目指している。

 オタリアが突っ込んで何分も経たないのに、既にオタリアの数は三頭にまで減っていた。さっさと獲物を得て、満足してこの場を去ったのだ。

 生き物が群れを作るのには大きな理由がある。

 身の危険を守るため、自身に迫る危険の確率を少しでも低く抑えるためだ。集団になったからと言って強い力が持てるわけではない。

 イワトビペンギンがオタリアに対してできる抵抗といったら、仲間の中に紛れて身を隠し、自分以外の個体が犠牲になるのを待つ以外にないのだ。

 ペンギンと生まれたからにはそのことは十分過ぎるほどわかっているはずだ。

 もちろん、スーにも。

 先程の襲撃で一目散に逃げ回っていたスーがこんな無駄なことをするなんて、予想もしなかった。それほどに、スーの行動はペンギンの常軌を逸していた。

「ばか!戻れ‼︎」

 思わず一平は怒鳴って身を乗り出した。

 だが飛び出してゆくには背中にパールがいる。

 そのパールが言った。

「スーは戻らないよ。あの子を助けに行ったんだもん」

「あの子?」

「ほら…」

 パールの指差す先でスーは一頭のペンギンを追い立てるようにして泳いでいた。スーよりは若干小さい。雌のようだ。

「きっと、スーの大事な人なんだよ。スーは勇気あるもん。一平ちゃんと同じだよ。放っておいたりしないよ」

 彼らとはわずかな関わりだ。多くをわかり合ったわけではない。なのにパールは断言する。

 それだけの直感と洞察力を、彼女は備えている。一平は知っている。

「……」 

 出ていくべきか、このまま成り行きを見守るべきか。一平の心は平衡を失っていた。右手は既に大剣を握りたがっている。

「パール、あのおじいさんのとこに行ってる」

 足手纏いにならないように、危険の少ない場所で待っている、という意味だ。すなわち、一平にスーを助けに行ってほしいというパールの希望の表れだった。

「一平ちゃんも、本当はそうしたいんでしょう?」

 なぜわかるのだろう?パールに…。押し込めていた一平の気持ちが。

 スーはただの通りすがりではない。言葉も交わし、一平のことを崇拝の目で見てくれた。

 知り合いを通り越して、信奉者とその対象者になっているのだ。オタリアに刃を向ける『必要』は存在していた。

「気をつけろよ」

 一平へぱ パールに念を押す。

 まだ危険が残る中置いていかれるというのに、パールは笑顔で頷いた。


 一平は水を蹴る。

 右往左往するペンギンを避けながらスーの元へ。

 スーの背後に迫るオタリアの元へ。

 スーの目が瞠かれる。

 その瞳が期待と喜びに輝いた。

(勇者!)

 声には出せない。嘴に咥えている短剣が落ちるから。

 イワトビペンギンたちに負けないくらいのスピードですれ違いざま、一平は言葉を投げ掛けた。

「任せろ‼︎」

 大剣が一閃する。

 再び、血煙が辺りを染める。

 が、背後で悲鳴が上がった。

「きゃーっ‼︎」

それがパールのものとわかるや、一平は踵を返した。

 残るもう一頭のオタリアがパールを襲っている。

 と、そのオタリアの顔面に、黒いものが体当たりした

 オタリアが身をくねらせる。

 オタリアの右目に、短剣が刺さっていた。

 スーがやったのだ。

 堪えきれずに、短剣が嘴から離れると、荒々しい叫び声を上げてフリッパーを打ち付けながら、開けたままの嘴で突きまくった。

 が、オタリアは反撃することも忘れなかった。

 文字通りに目を血走らせ、カッと口を開く。

 そこへまた別の何かが踊り込んだ。

 スーより少し大きな黒い物体。

 あの老ペンギンが、孫を庇ってオタリアに突っ込んだのだ。

「あっ‼︎」

 オタリアはスーではなく、老ペンギンの方を口に入れることになった。ガブっと、音にならない音が水中を伝わって、一平の元まで届いてくる。

 放ってはおけない。スーはパールを助けてくれた。そしてそのスーを庇ってオタリアの餌食となった老ペンギンを、ただの犠牲で終わらせる事は一平の良心が許さない。

 一平は再々度大剣を振り下ろした。

 力を失ったオタリアから、スーが短剣を引き抜く。抜いた途端に返り血を浴び、スーは思いっきり顔を顰めた。

 背後で別のペンギンの断末魔の声がする。最後の一頭のオタリアの食事時間も終了したという合図だった。


 老ペンギンは息絶えていた。

 オタリアが老ペンギンを襲ってから一平が剣を振り下ろすまで、そう長い間があったわけではない。にもかかわらず既に息がないという事は、オタリアの一噛みによる即死状態だったのだと推察できる。犠牲になった他のペンギンたちは遺体すら残らない。こういう事は稀だった。

 その老ペンギンの亡骸の傍らで、パールはとめどなく涙を流していた。

 癒しの力を以ってしても、死んだ者を生き返らせることはできない。

 ましてや、パールはその力をうまくコントロールして自在に使うことなどできないのだ。気持ちの高ぶるままに施術をするだけで、方法論などは誰も教えてくれない。師であるメーヴェにしても、癒しの力があるわけではなく、訓練によって身体の内部を診る力を身に付けさせてくれただけなのだから。大きな力を発揮する時、それは一平の怪我を前にして途方に暮れたパールの力が、反動によって呼び醒まされるのにすぎない。

 とは言え、心を込めて歌うことでパールは何とか他者を癒せるのだと気づいている。そのくらいの技は身に付いている。しかし、死者に対してはどうしようもない。

 自分の無力さが情けなく、パールは後悔に泣き濡れる。

 老ペンギンはパールを庇ってくれたのだ。あのオタリアは確かにパールを狙っていた。一平を心配させないため、ペンギンたちの中でも一番博学で判断力のありそうな老ペンギンのそばについていたのだが、それが仇になったのかと思うとやり切れなかった。


 一平にしても同様だ。躊躇ったりせず、さっさとオタリアをやっつけるべきだったのではないかと自問し、自責の念に駆られてしまう。

 若いスーはもちろん、他のペンギンたちも、動くことがなくなった老ペンギンをただ虚ろに眺めている。

「スー…」

 なんと言っていいかわからないが、とにかく一平は呼びかけた。

「ごめんよ。…力が及ばなくて…」

 スーはぶんぶんと首を振る。

「勇者のせいじゃないよ。いつかこうなるのはおれたちの運命だから」

 一平に恨み事を言うつもりはさらさらないようだ。彼らイワトビペンギンにとっては自然の成り行きであるらしかった。食物連鎖の渦中にいる生き物にとっては天寿を全うすることなどまずありえない。弱ればすぐに他の動物の餌食となる。

「そんな。だめだよ。諦めちゃ」泣いていた顔を思わず上げて、パールが訴えた。「スーは勇気を出してあの子を助けたじゃない。何もしないうちから諦めちゃだめだよ。お師匠様も言ってたよ」

「……」

「おじいさんが死んじゃったのは悲しいけど、かわいそうだけど、スーはまだ生きてるんだよ。あの子だって、スーのおかげで死んでない。一緒に赤ちゃんを育てなくっちゃ」

 どうしてそういう件りになるんだ、と一平は目を丸くしたが、あながち的外れなことではなかったらしい。スーの助けた若い雌ペンギンが、スーのすぐそばで恥ずかしそうに顔を染めている。

「うん。おれ…もう…決めてるんだ。こいつに…ペンペンって言うんだけど、こいつにおれの卵産んでもらうって。夏の間に」

 スーは言った。穏やかに。そしてカップルは互いに顔を見合わせた。

「そうだよ。だから元気出してよ。諦めたらすぐやられちゃうよ。おじいさんは剣がなくたってオタリアに立ち向かって行ったよ。それで死んじゃったけど、だけど、その気持ちが大切なんじゃないの?」

 いいことを言うじゃないか、と一平は目を細める。年齢の割に幼いと思っていたが、実はそうでもない。やる事は考えなしだが、自分の中にしっかりとした信念を持っている。この小さい身体のどこにこんなまっすぐな気持ちのパワーが潜んでいるのだろう。

 だからこそ他者を癒せるのだとは、一平は知らない。

 けれど、なんとなく感じてはいる。

 パールなら大丈夫だ。この子ならできるに違いない。というのがそれだ。漠然として、根拠など何もないのだが、そう思える何かをパールは身の裡に持っている。

 一平も加勢する。

「スーも、そうしたよな。おじいさんのため、オタリアに向かっていったじゃないか。君こそ、イワトビペンギンの『勇者』だよ。ボクのことじゃない」

「勇者…」

 スーの表情に希望の光が差してくる。みるみる輝きが戻り、嬉しそうに笑んだ。

「これからはスーが長だ。タダの志を受け継ぎ、立派に長を務めてほしい」

 群れの中から年配のペンギンが出てきて告げた。タダと言うのは老ペンギンの名だった。

 スーにとっては年配のペンギンの言葉は意外だったらしい。

「え…⁈おれなんか、まだ若輩なのに…」

 と、謙遜した。

「まだまだ未熟ではあるがな。勇者の言う通り、われらの中で一番勇気を持った者はおまえだ。だからおまえが長になるべきだとわれらは思う。一番生き残れる確率が高いからだ。

 但し…見習い期間を設けよう。タダのすぐ近くで長のすることを見てはきただろうが、全てを承知しているわけではないからな。当分の間…そう、おまえの子が独り立ちをする頃までは、われら三羽の(かしら)がおまえの目付役だ。よく従い習うがよい」

 年配のペンギンの両脇に、いつの間にかもうニ羽のペンギンが立っていた。それぞれが小さなグループの頭として群れを治め、その頭を束ねるのが長老―すなわちスーの祖父のタダだったのだ。

 スーは神妙にこの頭たちの言を聞き、決意を込めて頷いた。

 まだ若きルッカリーの長が誕生した。


「バイバ〜イ」

 パールはいつまでも、何度も振り返って手を振った。

 ペンペンが産むと言う卵の孵化するのを見たがったが、そんなに留まっていては予定している行程をこなせない。ぜひとも夏の間に極寒の地を通り抜けてしまいたいのだ。

「いいなあ、ペンペンは…」

 また…と一平は思う。赤ちゃんを産めて…と続くのに違いないからだ。

「赤ちゃん、見たかったなぁ…」

(そうきたか…)

「パールも早く欲しいなあ…」

(やっぱり…)

「大人にならないと無理だって言ったろ?まだパールの方が赤ちゃんみたいじゃないか」

 この話を続けて欲しくない一平はそう言って嗜める。

「あっ。ひどーい」

 パールはむくれる。再三繰り返されてきたやりとりだったし、自分でも自身が頼りないのはわかっていたが、面と向かって言われるとやはりいい気持ちはしないのだ。いくらパールでも。

 それと言うのも、パールが欲しいのは一平の赤ちゃんであり、パールは一日も早く成人して一平のお嫁さんになりたいからだ。知らずにとは言え、当の一平に無理だと断言されてはしょげざるを得ない。

「いいもん。パールだって、あと一年くらいで大人になれるんだから。そうしたら一平ちゃんにそんなこと言わせないよ。いっぱい赤ちゃん産んでびっくりさせてやるんだから」

 でもパールはそんな事はおくびにも出さない。一平のお嫁さんにしてほしいとは一言も言わない。

 同じく一平も言わない。パールがそんなふうに思っているなどとは、ちらとも思ったことがない。一平から見れば、パールは手を出してはいけない(いとけな)い子どもなのだ。どんなに大切に思っていようと、求愛などしてまどろみの世界から無理矢理引っ張り出してはならない存在なのだ。

 だから適当にあしらっている。パールがそういう話題を持ち出す度に、一平は軽口を叩き、話を逸らして自分の動揺を見せないように計らっている。

「そりゃあ楽しみだ。料理ができるようになるのとどっちが先かな」

 今もそう言われてパールは膨れた。刃物を扱えない事は数あるコンプレックスのひとつなのだ。

「トリトニアに帰ったらママに教わるもん。おいしいものいっぱい作るんだから。一平ちゃんが感心するくらい頑張るんだから。それで…それで…食べさせてあげるんだから…」

 一平ちゃんになんかご馳走してあげない、と憎まれ口をききたかったが、パールにはできなかった。それはパールの小さな望み。一平と言う旦那様に手料理を喜んでもらう事は、心の底からの願いだったから。例え売り言葉に買い言葉でも、心根のまっすぐなパールには心にもない事は言えなかった。

 そうして泣きべそをかいた事は、その夜まで尾を引いた。


 夢の中で、パールは一平の掌の上にいた。

 その掌は大きく、洞窟で使っていたビニールプールほどもある。従って、一平本人は巨大と言えるまでに大きかった。パールがこれ以上伸ばせないほど首を伸ばして見上げても、一平の顔は遥かな高みにある。声も大きく、ワンワンと響き渡っていた。

 なぜそんなに大きくなったのか問うと、一平は前からこうじゃないかと笑って答えた。

 そんな事はない。一平は大きいけど、パールの倍まではないはずだ。夢の中のパールはおろおろと首を振る。

 巨大な一平が言った。

「ボクが大きくなったんじゃない。パールがいつまでも小さいからボクが大きく見えるんだよ」

「パールがいつまでも小さいから⁈」

 ショックだった。体格が小柄な事は刃物の扱えないこと以上に、昔からパールのコンプレックスだったのだ。パールのそばで大きく包んでくれているように思えた一平の口からそんな指摘の言葉が出てくるとは思ってもいなかったから、パールは泣きそうになった。

 ふと気がつくと、パールの身体の下にあった掌は消え失せていた。一平の身体も少し小さくなってパールの目の前に立っている。

「大きくなると、いろんなことができるようになるぞ。ほら」

 そう言って一平は大剣を二本使ってジャグリングをしたり、力こぶで衣服の袖を破ったり、石ころに息を吹き込んで自分のミニチュアを作って見せたりした。

 パールはただ呆気にとられてそれらの奇行を羨ましげに眺めていた。

「すごいだろ?」

 パールは口を開けたまま何度も頷く。

「何かやって欲しいことあるか?何でも作れるし、できるぞ」

 何でも聞いてやるから言ってみろと言われて、パールは思い切って一平に訴える。

「パールを…パールを…一平ちゃんのお嫁さんにして」と。

 一平がどういう反応をしたのか、パールは知ることができなかった。

 ずっと心に秘めていた一言を口にした途端に、彼の姿は忽然と消え失せてしまったのだ。一平だけではない。辺りは真の闇で、自分がどこにいるのかも、それともいないのかも、わからなくなっていた。

 パールは泣きながら目を覚ました。

 よく馴染んだ匂いと感触がパールにうつつを知らしめる。

 すぐそばに、端正な一平の顔がある。起こしてはいけない。

 パールは泣き声を飲み込んだ。でもまだ涙は溢れてくる。身体はわずかだが細かく震える。

 パールの首の下に一平の片腕がある。一平の腕を枕にして眠るのが、パールは好きだった。けれどこの時だけはやめておけばよかったと思った。パールの振動が一平の身体に伝わってしまうからだ。

 案の定、敏い一平は目を覚ました。

 パールが泣いているようなのをすぐに悟って尋ねてくる。

「どうした?…」

 空いている方の手をパールの背中に回して優しく叩く。

「怖い夢でも見たのか?」

 パールは首を振る。ブンブンと、横に。

(怖い夢じゃない。一平ちゃんの夢だもの。大好きな人の夢だもの)

 泣いているのは悲しいからだった。必死で告白したのに、彼に届いたかどうかわからない。その虚しさからだった。でも、別の意味で怖いことではあった。一平のするであろう反応が、拒絶であったらと考えた時の恐ろしさだ。

 だから言えない。やはりまだ言うことはできない。

 パールがどんなに一平を好きでも、きっと本気にとってもらえない。

 例え本気にとってくれたとしても、その時は一平ちゃんは困る。受け入れることもできず、無下に断ることもできず、きっと困らせてしまう。

 パールは思いをぐっと胸に押し込めて言う。

「…怖くないよ。…一平ちゃんがいるから怖くない…」

 内容を言わないパールを一平は少し訝しく思ったが、黙ってパールを抱き寄せた。ふんわりと。包むように。

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