第十七章 ぬくもり
一平の案内されたのは王宮の一室だった。
先程の部屋も十分に奥まったところにあったが、更に奥だ。王族の私的な空間、奥宮であるようだ。すなわち、国王の家族が起居するエリアである。
ここの建物も石造りだった。技術的にはムラーラとほぼ同じ製法をとっているらしい。
市井に面した入り口付近は壁も磨かれ、海の中とは思えないほどの壮麗さをも有していたが、王宮の奥へ入るにつけ、華美な部分は減少していく。奥宮に至っては、壁も研磨されていない素朴なものへと変わっていた。
石を磨いたりするのはよほど大変な技術を必要とするのだろう。権力者たる王族の私室にその技術が適用されていないのは、トリトニアが見栄えよりも質実さを重んじる国であることを象徴していた。
私室が、通路を挟んで左右に並んでいる。
オスカー王にはパールとキンタの二子しかいないが、部屋はたくさんある。予備の部屋、歴代の王子や王女が使用していた部屋だ。空き部屋であっても、定期的に清掃や手入れがなされていて、いつ入用になっても差し支えないようになっている。
その一室を、一平はあてがわれた。
これは破格の扱いである。
一平は一介の風来坊。しかも、地上人との混血である。王女の命の恩人とは言え、これは王の実子や養子に対する待遇と同格なのだ。
もちろん、当の一平はそんな事は知らない。思いの外質素な造りの王宮内を感心して眺めていた。
部屋の入り口には、幅広の海藻を連ねた帳が掛けてある。間隔の詰まった暖簾の長いものが逆さについていると考えればよいだろう。但し、裾も上部もひらひらしていない。通路と部屋との仕切りにしっかりと止め付けられている。十分な長さと柔軟性があるので、掻き分けて入るのは容易い。しかも、プライベート性は保たれる。なるほど、と思った。
中は決して広くはない。思った通り家具も少ない。大きな寝台と応接セットのようなものがあるだけだ。壁にはロッカーのような穴がいくつも空いていて、それを塞ぐ形で薄い石の蓋が嵌っている。収納庫のようだ。
寝台は貝の形をしていた。恐ろしく大きいアコヤガイだ。
中には貝の肉が敷き詰められ、クッションが効いている。
その横にはソファーの役割をするものがあった。岩でできているが、複雑な加工がなされている。
特筆すべきは等身大の鏡だった。何かの金属で縁取られ、収納庫の横に据え付けられている。身嗜みには気を付けろと言うことなのだろう。
一平を案内してきた従者は多くを語る事はせず、この部屋をご自由にお使いください、明朝お呼びするまでごゆっくりお寛ぎを、とだけ言い置いて下がっていった。
一平はひとりになった。
やけに静かだ。
王宮の中も外も人々が働いていたり喋っていたりして活気があったが、その喧騒もここまでは届いてこない。
当面の間自分の居室になることになった部屋を今一度見回して、一平は寝台に近づいた。
ムラーラの幾何学的な寝台とは違う、ラインも柔らかで自然に近い。
寝床の上に、身に付けていたものを投げ出した。従者の用意してくれた部屋着とやらに袖を通し、脱いだものを一まとめにした。
大剣を寝台の縁に立て掛け、短剣を枕の下に差し入れる。
今までで一番安全と思われる所に来たのだ。警戒は不要かもしれないが、今までの経験上そうしないと落ち着かなかった。
確かに王の言う通り身体は疲れている。神経も自分で思っているよりずっと張り詰めていたので尚更だ。父の話をじっくり聞くためにも、これまでの経緯をしっかり報告するためにも、頭と身体を休めておこうと横になった。
貝の肉は柔らかい。
そして、心持ち暖かい。
こんなベッドは初めてだった
パールは自分と出会う前、こんなにも柔なものに包まれて眠っていたのかと驚く。あの洞窟で、自分が彼女のために用意してやったものは何だったか思い出して、あれでは不備だったなとため息を吐いた。
パールが王女だったなんて知らなかったから…、トリトニアで、それこそ真珠のように貝に包まれて眠っていたなんて思いつきもしなかったから…、ただ、プールに水を張って、雑草や海藻を地べたに敷き詰めて、こんなものだろうと思っていた。
どれほど寝心地が悪かったことだろう。海上に出たのすら初めてだったのに、一平はそれを強要してしまったのだ。全くそんなつもりはなかったにせよ。
パールは何一つ文句を言わなかった。
不満があったわけではない。
むしろ、一平の心遣いを心底ありがたく温かいものとして受け取っていた。心の柔軟なパールはすぐに新しい生活に慣れ、みるみる新しいことを吸収して行けたのだ。
パールゆえにできたことだったかもしれない。
年齢がもっと上であったとしたら、パールの自我がもっとはっきりと確立されていたら、或いはもっとわがままを言っていたかもしれなかった。
けれど、パールは幼なかった。心は真っ白だった。
海へ出てからは岩塊がベッドだった。それも仕方がないし、それでもよかったが、それよりは一平の懐の方がパールには居心地がよかった。だからいつも、身体の下が何であっても―ムラーラのきちんとしたベッドであっても―パールは一平にくっついて眠った。初めこそ戸惑ったものの、屈託のない安心しきった寝顔が嬉しくて、一平はパールのしたいようにさせていた。
そのうち、そうでないと一平の方が安心できなくなった。体が触れていれば、パールは側にいる。パールを狙ってくるものを寄せ付けないために、一平はパールを包み続けた。
そのパールが今はいない。
おかしな気持ちだった。
一平が横になっていれば、眠りについていても、直にパールは寄り添ってくる。気がつけばもちろん、無意識のうちにも、一平の匂いを察知してしがみついてくる。
そのパールがやってこない。
落ち着かなくて眠れなかった。
何度か寝返りをしてみたが、これでいいという体勢になかなか辿り着かない。
(全く…呆れたもんだ…)
一平は自嘲する。まるで母親を探す赤ん坊のようじゃないかと。
パールのぬくもりが恋しかった、あの香しさの中で眠りたいと、一平は通切に願った。
ぬくもりを恋しがっていたのは一平だけではない。
母に連れられて、三年ぶりに自室へ戻ったパールもそわそわと落ち着かなかった。
病弱であった娘の身体を心配して、シルヴィアは部屋まで付き添ってきた。帰還の喜びに胸を騒がせて饒舌になっているパールを落ち着かせて眠らせるのは自分の役割だという気負いがある。三年前なら、とっくに眠りに就いていた刻限になっているのだ。
パールの部屋の造りも、一平の部屋と大きくは違わない。
ただ、かつては主がいたことがあるので、どうしても私物が多くなる。パールの大事なものたちを、シルヴィアもオスカーも、何一つ処分しようとはしなかったのだ。
幼魚なので服はない。人形やおもちゃ、手習いの道具、髪飾りや腕輪などのアクセサリーなどが整理された状態でパールを待っていた。
一番懐かしいのは寝台だ。
やはり、巨大なアコヤガイである。
「うわー。久しぶり…」
バールはすぐに寝台に飛び込んだ。
シルヴィアが苦笑いする。
相変わらずお行儀が悪い、と。
「長旅の疲れを取らねばね…」
お行儀の事は多目に見て、優しく娘の髪を撫でる。
「ずいぶん伸びたこと…」
しみじみと呟き、娘を眺めた。
「髪の毛だけじゃないよ、伸びたの」
自分は成長したのだと主張して、バールは座り直す。
「ええ、そうね。大きくなったわ」
「ね⁈」
母に認めてもらい、笑顔で念を押した。
「病気もあんまりしなくなったんだよ」
「まぁ…」
その申告が真実なら、なんと嬉しいことだろう。
「でも、代わりに一平ちゃんがいっぱい怪我したの」
「まぁ…」
「パールが危なくなるといつも一平ちゃんが助けてくれて…だからパール、いっぱい心配したの」
「そうでしたか…」
一平というあの若者が常に娘を気遣い庇ってくれていたのだと…そのために自分が怪我をすることになっても、それを厭わず娘を守ってくれていたのだと、シルヴィアは感じ取った。
あの若者は当時十三だったと聞いた。今のパールと変わらない。いや、パールと比べるのは的を得ていないかもしれない。いずれにせよ、現在十一歳の弟王子のキンタの少し上でしかない。
シルヴィアはふと気がついて聞いてみた。
「パール。…あなた方は、ずっと二人きりだったのですか?」
「うん、そうだよ。日本を出てからしばらくは、誰にも会わなかったの」
パールの言う誰にも、とは、海人の誰にも、と言う意味だ。
「でもね。日本にはお友達がいたんだよ。翼ちゃんと学ちゃんて言うの」
「お友達って…」
「二人は双子なの。一緒に生まれたんだって。だからそっくりなんだよ。でも、中身は全然違うの。学ちゃんは元気いっぱいで面白いし、翼ちゃんはいろんなことを知ってるけど、心臓が弱いの」
言ってからパールは悲しいことを思い出してしまった。
「パールと同じなの。だけど、翼ちゃんはニンゲンだから、海の中にはいられなかったんだ…パール、一生懸命助けたけど…だめだったの。翼ちゃんはこれになったの…」
パールは頭上のカチューシャに手をやって母に示した。
「パールいっぱい泣いたの。でも、もう泣かない。翼ちゃんはパールと一緒にいるんだもん」
身近な人の死という辛い出来事を娘は体験したのだ。シルヴィアはそう理解した。
そして、更にそれを乗り越えて、彼女なりに逞しく生きてきたのだ。一平と共に。
あの若者がいたから乗り越えられたのだろう。彼がパールを優しく見守り、大きく包んでくれたのだ。だから、彼女は一平にこれほどまでに懐いている。
―そう。懐いているのだ―
この子の彼を語るときの眼差しと言ったらどうだろう?
あの子のあんな目は初めて見る。
―恋している―
シルヴィアはそう思った。
決して、恋のできない年齢ではない。いくら幼く見えても、パールはお年頃なのだ。
それだけわかれば充分だった。
シルヴィアはこれからの自分の対応を決めた。
「さぁ…そんなに興奮しないで…。もうお口も休めましょう。そんなにはしゃいでいると明日に響きますよ」
「はい…」
パールは殊勝に頷いた。
母には頭が上がらない。逆らっても無駄だと身体が覚えている。
おとなしく横になったが、なんだか変だった。
三年前までは同じこの寝台で、同じように一人寝を他人より長い間していたというのに、お客様になったような気分だった。
隣に一平がいないからだということにパールが気づくのは、シルヴィアが部屋を辞した後だった。
朝の訪れが一平を起こす。
よくしたもので、深い海の底でも、海人としての暮らしに馴染んだ身体は微かな太陽の光をも感じ取れる。
ぼんやりと目を開けると違和感があった。
何かがない…。
はっとすると同時に、身体の反対側を振り返った。
パールがいない。
ガバと跳ね起きたが、周囲の様子が目に入って納得した。
もう、隣にパールはいないのだと。
一平は大きなため息を吐いた。
―情けない―
小さな少女ひとりの姿が見当たらないことくらいで、何をこんなに動揺しているのだろう。
パールはいる。
このトリトニアの王宮の一室に。彼女の故郷、彼女の家に。本来いるべき王女という場所に。
そこへ帰したのは自分だ。他ならぬ一平自身の手でパールをここまで連れてきた。両親の元へ戻らせた。
それなのに…。
一晩寝たくらいで忘れてしまったのか。パールがあれほど喜んで嬉しそうに、父母の胸に飛び込んでいった姿を。
それこそが、一平の望んでいたことのはずだった。パールを親元へ返すこと。元の世界に戻すことが、この三年間の旅の目的だった。願いは成就された。
目標に達することができて、一平も嬉しいはずだった。
いや、確かにパールの気持ちを思えば喜ばしい。それは本心だ。けれど、達成感と共にあるこの虚しさはなんだろう?
昨日まで机を並べて勉強していた仲間が、ある日突然事故で亡くなり、主の不在となった机と椅子を見ているかのような、この空虚さは?
パールは一平を必要としていた。それこそ、刷り込みをされたひよこみたいに、いつもいつも一平の後を追い、縋ってきた。自惚れかもしれないが、パールに好意以上のものを抱かれていることを、一平は肌で感じていた。パールにとって自分は唯一無二の存在だと思い込もうとしていた。
それも必要ではあった。たった二人で、どこにあるかわからない国を目指していたのだ。互いの絆は強いほどよい。
けれど、パールが必要としているのは一平ひとりだけではなかったのだ。
父も母も弟も、トリトニアの王宮の人々も、パールの帰還を歓迎し、またパール自身も自ら進んで語りかけ、笑顔で対した。ここがパールの本来いるべき場所であることを、一平は認めざるを得なかった。
トリトニアに戻ることができた以上、もう一平がパールを守る必要もない。トリトニアのことを何も知らない彼にはパールにしてやれることがない。だから一平はもうパールには必要のない人間になってしまったのだ。
面と向かって誰に言われたのでなくても、誰もがそう思っているように一平には感じられた。
―パールのそばにいること―
まず第一にそのことを考えて、日々過ごしてきた。離れて過ごすことなど稀過ぎて慣れない。朝目が覚めればバールに変わりはないか、無事に自分の側にいるか、まず確認するのが当たり前だった。でももうその必要もない。一平に代わって誰かがその役をしているのかどうかは知らないが、少なくとも危険に神経を尖らせなくて済むようになったのは確かだ。
―自分は無用の人間なのではないか―
望みを果たした今になって、一平の心に暗雲が忍び寄ってきていた。




