第十五章 帰還
ジーのデンから五つの都市を通り抜けて、一平たちはトリトニアに入った。
ジーを横切る間も、トリトニアに入ってからも、アルテラの森のような森に幾度もぶつかった。それらは決まって村外れであり、そのため都市の境目だったりする。だが、全てが妖物だらけの危険な森ではなく、トリトニアに入った時に阻まれた海藻の森は、なんとパールの好物のワカメの群生地だった。畑として利用しているのか、近くに住む住人が採集に来るのに出食わしていた。
蛸の多い海もあった。蛸はトリトニアの特産品の一つでもあるらしい。道理で、パールが好きなはずだ。
ここへ来て、パールはめっきり元気になってきた。
トリトニアの匂いがすると言う。
場所によってももちろん海の水は違う匂いがするが、一平には、ジーとトリトニアでそれほど違いがあるとは思えなかった。
パールは北東に針路を採る。
首都のトリリトンは、トリトニアの南北の中央、東西においては東寄りにあると言う。その中心にトリトニアの王宮があり、トリトニアを治める国王が住んでいるのだ。
パールの申告によれば、パールの家はそのトリリトンにある。
わかっているのはそれだけだ。
年もゆかず、床に伏しがちだったパールにその道筋を説明させるのは無理があった。お医師の元へも自ら出向けないほどだったのだ。外へもろくすっぽ出ず、深窓のお姫様状態だったのに違いない。そう言えば、パールと出会った頃、彼女は見るもの触れるもの全てが珍しいとでも言いたげに、あっちへフラフラ、こっちへフラフラしていたものだ。今ではそれもかなり落ち着いたが、トリトニア―特にトリリトン―に足を踏み入れてからは再び復活した。
「あのおうち見たことある」
「あっ。○○○だ」
「この道は通ったことあるような気がするなあ」
と言う具合に、辺りの様子を何とか自分の知っているものと結びつけようと必死のさまを呈し始めた。それが必ずしも正しくない、というところに一平は振り回される。手掛かりはパールの記憶いかんにかかっているので、これはどうしようもなかった。
パールも決して悪気があってやっているのではない。故郷懐かしさにそんな気がしてしまうのだ。予知夢じみたものを見たりできるくせに、興奮してしまうと、自分でも訳がわからなくなってしまうらしい。混乱する気持ちはわからなくもないが、こう肩透かしばかり食らわされると、一平の忍耐もさすがに限界に達してくる。
今もパールは何度耳にしたかわからない言葉を口にした。
「この辺は、来たことあるような気がする。あの家、見たことあるもん」
「…で⁈パールの家はどっちに行けばいいんだ?」
少々気のない様子で一平は応対した。
「…うんと…。こっちかなぁ…」パールは通りの右側を見る。そうかと思うと左に目を転じ、「こっちかもしれない」
「頼りないなあ。自分の街だろ?」
あまりの心許なさに、一平は思わず嘆いた。うんざり感が声に出ているのを感じ取ってか、パールは申し訳なさそうに首を竦めた。
「ごめんね。パール…王宮の外にあんまり出たことなかったから…」
「え?王宮⁈」
聞き間違いかと思った。
「うん。ほら、病気ばっかりしてたから、外出させてもらえなかったの」
病弱で…とは聞いている。だが、今一平が問題にしているのは、そんなことではない。
パールは『王宮』といった。
王宮というのは国王の住処のことだ。トリトニアには王様がいて、王宮と呼ばれる場所に住んでいる。それは想像できる。
パールはその王宮の外に出たことがないと言ったのだ。
と言う事は、普段は王宮の中にいたと言うことになる。
王宮の中にいる人々がどういう身分や地位を持つものなのかは知らないが、なまなかなことでは、足を踏み入れることのできないものであるのが一般的だろう。
すなわち、パールはそういう人々の中に含まれていたのだと言うことになる。
(まさか…)
一平の脳裏に思い浮かんだ一言がある。
―パパはオスカー、ママはシルヴィアだよ―
ここの王様の名は何と言ったか。確か…。
―オスカー三世陛下もそうだけど―
宿屋の女将の言葉が蘇る。
―あんた、似てるよ。シルヴィア王妃にさ―
オスカーとシルヴィア。それはパールの両親の名ではないか。
「…オスカー陛下って言うのは、おまえの…⁈」
「…パパだよ。パールのパパは王様なの」
―うそだっ‼︎―
「じゃあ…おまえは…まさか…この国の…トリトニアの…」
「……」
パールは黙って一平を見つめ返している。
一平は、ごくんと唾を飲み込んだ。
「…王女…なのか⁈」
「うん」
やっと発せた一平の核心の問いに、パールは意を決したように頷いた。
「………」
「ずっと…言おうと思ってたの。でも一平ちゃん訊かなかったから。それに、言ってもどうにもならないし」
「……」
一平は二の句が継げない。驚きが大きすぎて、口から言葉が出てこない。
南紀の海にぷかぷか浮かんでいたパール。
生きている子どもの人魚に出会った時ですら、こうまで驚きはしなかった。好奇心や不思議な気持ちの方が驚きよりも強かった。
人魚の言葉を理解してしまう自分自身に戸惑いはしたが、それが自然なのだと納得している自分も存在していた。
パールと関わりが深く密になってゆくにつれ、一平はパールを女性として愛している自分を自覚した。誰が見ても幼くて小さくて子どもそのものであっても、一平にとっては何の障害にもならなかった。パールが何者であっても、ずっとそばにいて守ってゆきたいと思っていた。
しかし、まさかパールが王女などと言うものだなどとは、これっぽっちも考えた事はなかった。
日本に王様はいないが、天皇がいる。王族に相当するのは皇族だろう。宮様と呼ばれる方々にはそうそう会えるものではない。パールはそういう種類の人間なのだ。自分ごときが保護者ぶって、偉そうに叱ったり指図したりできる立場ではなかったのだ。
一平の頭の中を占めたのはそういうことだった。パールが実は王女だと知ったからには、自分は態度を改めなければいけないのではないか。それにはどう振る舞うべきなのか。今までのこと全てはどう扱われてしまうのか。
その葛藤が、一平に言葉を失わせていた。
「ねぇ…どうしたの、一平ちゃん⁈」
一平が惚けたままなので、パールが詰め寄る。
「あ…あ…。パール…王女さま⁈…」
こんがらがる頭は思うように喋らせてくれない。
「何言ってんの?パールは王女だけど、だあれもパール王女さまなんて呼ばないよ」
「え?…じゃあ…なんて…⁈」
「パパもママもパールって呼ぶし、キンタはお姉ちゃんだし、他の人は姫さま、とだけ呼ぶの」
「姫さま…」
ぼんやりと、一平は呟いた。
それを聞いて、パールは眉を顰めた。
「一平ちゃんは姫さまなんて言わないでよ!」
「パ…」
「王女だから何なの⁈パールはパールだよ。パールって呼んでよ!」
パールは怒っている。本気で一平に抗議している。
「一平ちゃんまで、そんなふうに言わないでよ!パールのこと、叱ってよ!」
王族であることで、遜られ、以前に嫌な思いをしたことでもあるのだろうか。皆、パールが王女だから、一歩も二歩も引いて叱ることさえしなかったのだろうか。パールの言葉はそんなことを一平に想像させた。
「一平ちゃんは一平ちゃん。パールはパールだよ」
むしろ、パールは泣きたいのかもしれない。怒った口振りだが、悲しいのかもしれない。そう思った。
「パールが…黙ってたから…怒ってる?」心配そうに、そう尋ねる。「言う必要…ないと思ったの。ずっと…トリトニアじゃなかったし…。パールのこと知ってる人、誰とも会わなかったし…。パール、王女のパールティアじゃなくて、ただのパールでいたかったの」
肩書きなど何もない、パールと言うたったひとりの女の子として一平の前に存在したかったのだと、パールは言いたいらしい。
それはかなり大人びた考え方だと言わねばなるまい。
幼い幼いと思いもし、実際の言動も幼女そのままのパールだが、身の内にしっかりしたものを秘めていると感じさせることが少なくない。この時もそうだった。そういう時、一平は思う。
―幼いが、ばかでではない―と。
言ってもどうにもならない、とパールは言った。
本当だ。それが、どうだと言うのだろう。
パールは実は王女だった。それだけだ。
王女のパールも、そうでないパールも、どちらもパールなのだ。
一平の出会ったパールは、かつて王女として九年を過ごした経歴がある。ただ、それだけだ。
一平は思い直す。
「…怒ってなんかいないさ。びっくりしただけだよ。おまえの言う通りだ。考えてみれば、パールにそんなこと訊いたことなんかなかったもんな」
聞かれないことをベラベラ喋るような子ではないことも、一平は心得ていたはずだった。
そう言えば…思い当たることがないでもない。
翼から騎士のキスをされたときの妙に気品に満ちた態度。
ムラーラで、姫と呼ばれて抵抗のなかった様子。
色々と世話をしてもらうことを自然に受け入れていたのは、それまでかしづかれて育ってきたせいだったのか。
まあいい。
バールが王女だからといって、何かが変わるわけでもないだろう。人種が違ってしまうわけでもない。それを言うなら、半分地上人の一平はどこにも属さなくなってしまう。
パールを親元に送り届ける理由がなくなったわけでもない。依然として一平の望みは目の前に存在するのだ。
「王宮なら、誰に聞いてもすぐわかるはずだ。パパとママに会えるのはもうすぐだぞ」
いつもの口調に戻った。それでこそ一平だ。パールの大好きな、頼りになる、一番かっこよくて素敵な人だ。
パールもいつもの微笑みで頷いた。
とうとう二人はやってきた。
わずか三十メートルほど先の海域に、トリトニアの王宮がある。
深い海の底にあるのに、自ら光を発しているかのように王宮は輝いていた。ほんのりと青白く、パールの瞳を雲に溶かしたように。
厳めしい城壁はない。堀や跳ね橋はもちろん門扉すらない。入り口の印である柱だけが建っている。誰でも自由に出入りせよ、とでも言いたげに、王宮はゆったりとその懐を広げていた。
―来るものは拒まず―
トリトニアの国政の方針を城が体現しているように、一平は感じた。
しかし、実際問題として、誰でも勝手に入っていいわけではないらしい。所々に衛兵がいる。身分を証す必要だけは、最低限度の節度のようだ。
幾人も海人が王宮の中へ入って行くが、その都度衛兵とやりとりをしているのが見える。
トリトニアでは、通行証や身分証に当たるのは、複雑な言い回しの飾り言葉であると言う。
地上のように姓と名が分かれていないここでは、正式名称及び略称しかない。女性ならその上にピール、男性ならピーク、と冠する。しかもその前には、長々とその家独自の紋言葉と父母の名を被せ、信仰の要となる神々の名を称えるのだ。
他国からの訪問者はこの紋言葉を持たず、月ごとに変わる礼賛神の名を正確に言うことができないのが普通だ。その場合、厳しい審査の末に入城の可否が決定する。
紋言葉など、トリトン族ならば、子どもの頃から教え込まれていて、いつでもそらで言えるものらしい。三年間トリトニアを離れていたパールですら、すらすらと口から出てきた。
パールは衛兵に対し、ちょこんとお辞儀をしてから口を開いた。
「偉大なるトリトン神とピピア女神の恵みを色濃く受け、紡がれし聖なる血の器、オスカーとシルヴィア
が一子、ピール・パールティア、ここにイシスの涙を寿ぎ、入場許可を願います」
パールが飾り言葉を唱え始めた時、衛兵たちは初め変な顔をした。あまり聞き慣れない類の言い回しだったからだ。それもそのはずである。パールの使う紋言葉は王族のもの。王族はほとんどそれらを名乗って城門を通過する事はない。伴のおふれで口上が述べられるのが常であった。
しかし衛兵達はぴんときた。二親の名がオスカーとシルヴィアと聞けば、この国では一も二もなく王子が王女であることを指すのであるから。
「おっ…王女殿下⁈」
衛兵は目を丸くする。
「はい。パールティアです。ただいま戻りました」
「ごっ…‼︎御無礼仕りました。どうぞお通りください」
一般の人々と同じように、命令的ではないまでも事務的に、あるいは横柄に、面倒臭そうに対したのではないかと省みた結果がこの反応だった。
王女のパールティアは数年前から行方知れずのはず。それはトリトニアの隅々にまで知れ渡っていた。当時九歳という年齢と、病弱のためあまり人目に触れなかったのとで、王女の顔となりは思いの外知られていない。小さく可愛いところから『童女姫』とか、名前から『トリトニアの真珠』とか呼ばれているのと、髪の色が珍しい珊瑚色だということくらいが王女を知るよすがであった。
それでも、正式な名乗りをしただけでそれとわかってしまうのが、このシステムの凄いところだ。ごまんとある家柄の紋言葉を全て覚えていなければ、衛兵すら務まらない。それなりの教育を受けて、この者たちはここにいるのだ。
「ありがとう。パパとママはどこにいるかわかる?」
パールは尋ねる。
「はっ。ただいまのお時間でしたら、自室でお寛ぎ中かと存じますが」
「もう寝ちゃったかしら?」
「…それはなんとも…お答えしかねます…」
「そうだよね。ごめんね。変なこと聞いて」
少しはにかんで前に向き直ったが、パールは再び衛兵を振り返る。
「ねぇ。おかえりって、言ってくれない?」
「は?おかえり…ですか?」
「パール、久しぶりにトリトニアに帰ってきたんだよ。ただいま」
「…お…お帰りなさいませ…」
「うんっ‼︎」
満面に笑みを湛えて、パールは身をくねらせた。
その様子を呆気に取られて見ている衛兵を、一平は苦笑混じりで眺めている。
パールのこういうところに自分も何度面食らわされたことだろう。今では微笑ましいの一言に尽きるが、初めての人にはさぞ度肝を抜かれ、困惑する思いがすることだろう。
そんなことを思っていると、もうひとりの衛兵が一平に気づいて誰何してきた。
「おぬしは?名乗られい」
「ボクは…」
(はて、困ったぞ。何と言えばいいんだ?)
父のラサールはここの出だが、そんな紋言葉などひとつも聞いていない。
迷っていると、気づいたパールが飛んできた。
一平の腕に巻き付き、引っ張るようにしながら衛兵に説明する。
「一平ちゃんはパールの恩人なの。パールが迷子になってからずっとずっと一緒にいてくれたんだよ。パールのことを守って、トリトニアに連れてきてくれたの。だから、パパとママに会わせなくっちゃ」
「…はぁ…」
無邪気に王女が説明する。下手に異議を唱えるわけにはいかない。王女が恩人と言うからには悪さをする事はないだろう。それに、体格の割に顔つきは優しそうだ。
「行こう。一平ちゃん。早くパパとママに会って」
「……」
ここはパールの言うままに流されてしまった方がよさそうだ。後でこの衛兵たちが、職務怠慢で咎められることがなければいいがと思いながら、一平はそそくさとその場を立ち去った。
衛兵の詰め所さえ抜ければ厄介な事は何もない。
さすがに王宮の中はパールの庭の域であり、迷いがない。
見るもの触れるものが皆懐かしいようで、笑みが絶えない。
そんなパールの姿は一平も嬉しい。ずっとずっとパールの世界に戻してあげたかったのだから。
王宮は正面から見ると左右対称に広がっていた。
大きな棟が三つある。真ん中の棟が一番大きい。その奥へと、パールはまっすぐ進んでいく。
幾つか庭園を通り過ぎた。
そのひとつに人影を見つけて、パールは立ち止まる。
燃えるようなオレンジの髪を逆立ててひとりの少年が剣の稽古をしていた。剣と言うよりは斧だ。両手に持ち曲芸のようなことをしている。その姿から見て歳は一平より下だろう。パールよりは…下だか上だかわからない。
「キンタ‼︎」
パールが叫んだ。
少年が振り返る。
太く三角の眉。釣り上がり気味できかん気そうな緑の眼差しが、まっすぐに声のした方を向いた。
不審な色が浮かんでいたのは、一瞬だけだった。少年の瞳は信じられないものを見たかのように大きく瞠かれ、喜びに輝き始めた。
「お…ねえちゃん⁈」
「うん‼︎」
「お姉ちゃんなの?」
「そうだよ。!パールだよ‼︎」
もどかしげに、パールが飛び出した。
少年は手にした斧を取り落とし、やはりパールに向かって泳ぎ寄ってくる。
二人の手と手が出会い、握り合った。
「本当に…お姉ちゃん?」
「大きくなったから、わからないでしょ」
パールは自分ではずいぶん大きくなったはずだと思っているが、キンタに比べれば、それはずいぶん大袈裟な言い方だと言えた。何しろ弟であるはずのキンタは、もう既に姉のパールの背を僅かに追い越していたからだ。
「そんなことない。この髪の色…お姉ちゃんしかいないよ。ママと同じだ。でも…」
しげしげと姉を眺めて、何を思ったのか、キンタは口ごもる。
「右のお尻っぺたに三つ星さんまだある?」
家族しか知らないことを少女は言う。
それはキンタには面映いことだ。でも確証が持てて、キンタの声は自然と大きくなる。
「やっぱり本物だ‼︎」
少年は、姉をぎゅっと抱き締めた。
パールは少々驚く。以前の弟はこんな力などなかったのに。まるで、一平ちゃんみたい…。
一平の力には及ぶべくもないが、込められた気持ちに大差はない。それをパールは感じた。
「一体…どこにいたの?どうやって帰ってきたのさ?」
聞きたい事は山ほどあった。
「ずっと…遠くだよ。でも、一平ちゃんに会ったから。だから帰って来れたんだよ。パールをずっと助けてくれたの」
「一平ちゃん…って⁈」
言われて初めて、キンタは気がついた。
その場に今ひとりの人間がいることに。
彼は少し離れたところに立っていた。手にキンタが放り出した斧を拾い持っている。
一瞬、キンタは、トリトン神がそこにいるのかと思った。堂々とした一平の体格は、それほどにキンタを圧倒した。
体格だけではない。その立ち姿が隙がなくきりりとし、更にマスクが甘く爽やかなのが、澄み切った空気を醸し出しているのだ。
キンタは見惚れていた。パールが一目で一平を気に入ったように。
「大事なものだろう⁈もう少しで刃がだめになるところだったよ」
一平はキンタに斧を差し出した。斧の落ちてゆく下には、硬い岩盤が剥き出しになっていたのだ。
「あ…ありがとうございます。…あの…あなたが⁈…」
情けないがしどろもどろだ。
「一平…と言います。姉上の…護衛をしてここまで来ました」
なんと説明したらよいか。咄嗟に出てきた言葉が護衛だった。
「一平ちゃんはすごく強いの。かっこいいんだよ。パールは何度も助けてもらったの」
大袈裟だがが嘘ではない。一平ははにかんで笑った。パールのすることをすべて許す、慈愛の心が垣間見えた。
(ああ、そうか…)
何の根拠もなしに、キンタは思った。一平と言うこの偉丈夫が、姉のパールを大事に思ってくれていること、パールも一平のことを心から信頼してその身を預けていることが理屈でなく理解できた。
詳しい事はどうでもいいような気さえした。
「よかったね。…お姉ちゃん…」
素直にすぐに口に出せた。
「ごめんね。キンタ。ゆっくりお話ししたいけど、パパとママにただいまを言ってこなくちゃ」
「まだ会ってないの?」
こんな所でぐずぐずしていないで、真っ先に行くべきなのにと、キンタは呆れた。
「だって、行き着くまでにいろんな人に会っちゃうんだもの」
その通りだった。侍女や侍従の一人一人にまで、パールはただいまを言い続けてここまで来たのだ。
「じゃあ、もう耳に届いているかもしれないな。早く行きなよ」
「うん。そうする」
一平ちゃんも、と促してパールと一平はは建物の中へ消えた。
「パール‼︎」
二人を迎えたのは女性の歓声だった。
喜びに我を忘れて取り乱した声。それでも涼やかで気品を兼ね備えた、美しいソプラノ。パールの母、シルヴィアのものだった。
普段静かな王宮の一部で静寂が破られている。
それは国王夫妻にも感じられていた。
夕方のお勤めが終わった二人は自室に引き上げ、食事をとって一休みしていたところであった。王妃のシルヴィアは、パールがいなくなって以来、心労と疲れとで床に伏しがちになっていた。
それでも、海の中の匂いを嗅ぎ分け、音を聞き分けられる海人の中の海人なのだ。責務はきちんと果たすし、感性も研ぎ澄まされている。
さすが母親、と言うべきであろうか。私室の帳をパールが引き開ける前に、シルヴィアは中から飛び出してきた。愛しい我が子の懐かしい匂いがシルヴィアに活気を取り戻させていた。
「ママ‼︎」
母に負けじと娘も応える。
母の腕に縋りつき、ふくよかな胸に顔を埋める。
揺れる帳の中と外で、父親であるオスカー王と、それまでパールの保護者だった一平とが母娘を挟んで向かい合っていた。二人とも抱き合う母娘を優しい目で見下ろしている。
万感の思いのこもった抱擁に割り込む隙はない。割り込もうとも思わない。心ゆくまで思いを満たさせてあげようと見守る二人の男は、鏡写しのように似通っている。
母と娘には言葉は要らなかった。
どこにいたの?
どうしていたの?
何があったの?
辛かったでしょう?悲しかったでしょう?
どうやって…なぜ、帰れたの?
母の胸に疑問がいっぱいあるのをパールは感じた。
けれど、それに言葉で答える力は、今のパールにはなかった。
ずっとずっと会いたかった母に見えたことで、緊張の糸は切れてしまった。パールはあれでも緊張していたのだ。
北太平洋に飛ばされたの。
一平ちゃんが助けてくれたの。
どうしてなのかわからないの。
いっぱい泣いたけど、平ちゃんがそれよりいっぱい慰めてくれたの。
一平ちゃんトリトニアに連れて行ってくれるって言ったの。だから帰れたの。
伝えたい思いは、いっぱいで整理しきれない。
オスカーの出番だった。




