第十四章 ホームシック
パドがいなくなって二人旅に戻った一平とパールは、一路北北東を目指した。隣接するジーまではさほどの距離はない。五百アリエルほどを十日かかってジーの首都デンに到着した。
「ここってキャプターさんの国だよね」懐かしそうにパールが呟いた。「もう帰れたのかなあ?」
南氷洋で別れて、何ヶ月経つだろう。メンバーとはぐれてしまっても、キャプターは点繋道をいくつも知っているふうだった。もしも仲間たちと合流できなくても、手持ちの知識と力量で一人でもジーに帰り着くことができるはずだ。おそらく一平たちの何倍も早く。
「多分な…」
事情が許せばキャプターは、もっと適切な点繋道を教えてくれただろう。礼儀正しく思いやり深い気性の人物だった。ほんの僅かな関わりではあったが、一平にはそう思えた。
キャプターにとって一平が命の恩人であるのと同じように、一平にとってもキャプターは恩人であった。教えてもらった点繋道は、確かに役に立った。危険と隣り合わせではあったが、そんな事は七つの海を旅していれば、当たり前のことだ。
ぜひ一度ジーを訪問してくれとキャプターは言い残していた。まだ目的地には辿り着いていないが、無事を確かめる意味でも王宮に寄ってみようかと、一平は思いついた。
ペンタとは違い、デンは通り道だ。シェークスとペリエ将軍の話では、ジーもトリトニアには好意的だと言う。かつてパールも「ジー」と聞いただけでパッと顔を輝かせていた。
「行って…みようか…」
「うん‼︎」
一平の提案にパールは即答だ。きっと同じことを考えていたのに違いない。
道々人に道を尋ねながら、王宮前まで来た。
さすがに大きい。シャワンにあった砦とは規模が違う。造りや仕様もずっと豪華で洗練されている。砦と王宮の違いだろうか。それともお国柄か…。いずれにしろ圧倒される。
パールも言葉を発しないので、同じように驚いているのかと思いきや、不思議と慣れた素振りで近づいていくではないか。
「待て、パール。挨拶の仕方がわかるのか?」
ペンタクスでは事前に連絡が行っていたからすんなりと入場させてもらえたが、ここでもそうとは限らない。
「名乗ればいいんじゃないの?」
パールは言う。トリトニアでは王宮に出入りするのに必要な口上があり、暗証番号のようにそれぞれが登録名を持っていると。
「でも、同じシステムだとは限らないだろう?」
だからといってどうすればいいのかも一平にはわからない。
「仕方ない。当たって砕けろだ。手順を知らないからって、投獄されるような事はないだろうさ」
念のため、ぴったりそばについているように言い含めて、一平はパールと共に門戸を叩いた。
「お尋ねします。先の南氷洋遠征群に従事されたキャプターという兵士に面会したいのですが、どこに申し出れば良いでしょうか」
「兵営だな。それは。この通路を右に行った突き当たりだ。そこで今一度要件と名前を名乗られるがよい」
礼を言って通り過ぎようとしたが、一平の背に大振りの剣が収まっているのを見ると、兵士は手持ちの剣を差し上げて制止した。
「おぬしジーの者ではないな。武器はここで預からせてもらおうか」
「それは…」
敵対するつもりはさらさらないが、大剣をその身から外すのは不安だ。ジーの兵士を信用しないわけではないが、手放しで身を任せて大丈夫だという保証もない。
図らずも躊躇した様子を見せてしまった一平は、尚更胡乱な目で見られてしまった。
「従えぬと言うのであれば、お引き取り願おう。押し通ると言うのであればお縄を掛けることになるが、どちらを選ぶ⁈」
「…一平ちゃん…」
衛兵の威丈高な態度に、パールが情けない声で縋りつく。
短く思案した末に一平は言った。
「わかりました。出直します。こちらの考えが浅はかでした」
そう言って頭を下げ、今一度衛兵の目をまっすぐに見つめた。
「ご伝言はお願いできますか?キャプターという兵士に、一平とパールがここまで来たと」
「その者の所属は?」
「生憎と存じ上げないのです。南氷洋に行かれた方の中にいるはずですが、キャプターと言う名は、ジーには多いのですか?」
「そうでもないかな。まあよい。俺の知っている奴にもいるから聞いてみるさ。それでいいかな?」
咎められたのに手向かいせず、礼を尽くす一平の態度に、衛兵も心を動かされたのだろう。去り際に「すまんな。規則でな」と声をかけてくれた。
「悪い人じゃ、ないんだね」
相変わらず一平にくっついたまま、パールは呟いた。
「無理もないさ。ボクがあの人の立場だったら同じことをしてたと思うよ」
「でも、残念だったね」
「まあ、そうそう何もかも都合よく運ばないよ。ここまで三年かからないで来れたっていうのが、そもそも僥倖なんだから」
「ギョウコウ?」
「思いもかけないほど、幸運だったってこと」
「ふーん…。そうだね…」
頷くパールの言葉の響きの中に、何か引っかかるものを一平は感じた。
やりとり自体は取り立てて不自然ではないが、パールの持つ本来の純粋な明るさ、屈託のないストレートな気持ちの応酬といったものが感じられない。
近頃、時々そうなのだ
パドと別れて寂しいのかもしれない。パールも少しは大人になったのかもしれなかった。
いずれにしろ、一平はパールの沈んだ顔など見たくはない。
「元気出せ。もう寄り道なんかしないで、まっすぐトリトニアに行くから」
「うん…」
頷くが、まだ冴えない顔をしている。
「おまえ、まさか…」
「えっ⁈「」
パールがどきっとして目を上げる。
「どこか具合が悪いんじゃないだろうな?」
パールはいきなり熱を出す。ぎりぎりまで我慢をして急に倒れることもよくあった。最近はとんとそういう心配からは遠ざかっていたが、油断は禁物だ。
一平はパールを捕まえ、おでこで熱のあるなしを打診した。
「…大丈夫だよ…。パールは元気だってば…」
「顔…少し赤いぞ」
眉間に眉を寄せる一平だが、まさかそれが自分の行為のせいだとは思いもよらない。
急に顔を寄せられてパールがときめいているなど、パドに指摘されたとしたって、信じられない。
パールがお年頃だと心得ていながら自覚していない。
そして、パールが一平の知らない何かを心に秘めていることにも思い至らない。
パールには言わなければならないことがあった。今まではそれでもよかったが、この先はどうしたって黙っているわけにはいかないことだった。
一平を騙しているつもりはない。ただ必要がないから言わなかっただけだ。できればずっと知らないままでパールと接して欲しかったのだ。
そのことを彼に告げなければならない。黙っていても、いつかはわかることだ。でも、自分の口から言わなければならない。
いつ言おういつ言おうと、パールは近頃悩んでいる。その時が近い事ははっきりしている。もう目標の故郷は目の前だ。早く帰りたいのに、それがあるから帰りたくなくて、パールの心は複雑だ。
「おぶってやるから乗れ。今日は早めに宿を取ろう」
今は一平の顔をまともに見られない。パールは、渡りに船とばかりに、一平の背中に飛びついた。
ジーの街並みはなかなか統制のとれたものだった。結構きれいに区画整理がなされている。石造りではあるが、ペンタクスのシャワン砦のように無骨ではない建物が整然と並んでいる。
だが、商店街は少し様子を異にする。建物同士の間隔が狭く、通路も狭い。ここはジーニアス王のお膝元で城下町だ。人の集まる地に商店が軒を連ねるのは当然の成り行きだろう。
海の中で商店街か…、と一平は苦笑する。
ムラーラで商店を見かけなかったわけではない。だが、ここデンの商店街はとても日本を思い出させるのだ。
京都や浅草や鎌倉や…観光地の仲見世通りのように、狭い通路に小さな屋台がひしめき合っている…。そんな雰囲気が漂っているのである。
その中に宿屋が時折混じっている。
パールを連れて入っても支障のなさそうな宿屋を選び、帳を掻き分けた。
中は人気がなかった。あまり流行っていないのかもしれない。だとすると待遇が悪いかもしれないが、軒先に飲み屋がくっついているような宿は、柄の悪い連中が入り浸る。そういう所は避けたかった。
一平一人ならまだしも、パールには刺激が強すぎる。
現に三日前、そういう宿に当たって因縁をつけられ、パールに怖い思いをさせてしまったのである。ガタイのいい一平は、酔っ払いの絡み相手として申し分なく映るらしい。
待遇の良さより安全優先だ。一平は思い直してカウンターの呼び鈴をつついた。
店の見張り番をしている使役魚が、いそいそと奥へ泳いで宿屋の主人を呼びに行った。
「あれも使役魚か?」
一平が尋ねた。
口の尖ったホンソメワケベラだった。
「うん、ホンソメワケベラはあの口でご主人をつついて知らせるんだよ」
「なるほど…」
そうして出てきた宿屋の主人は、海人には珍しく恰幅が良かった。
ポセイドニアに足を踏み入れて、海人の多くがスマートであることを一平は認識するようになっていた。ところがここの主人は背も低く、髪も薄く、いかにも親父然としている。
帳を掻き分けて現れた主人は、無愛想に口を開いた。
「泊まりかね?」
「はい、二人お願いします」
「ここに手を置いて。一人ずつ」
宿の主人は緑色の水晶玉を差し示した。
言われた通りにすると、水晶玉が緑色に光る。そうすると手の形や模様を記憶し、宿帳の役割を果たすのだ。宿代を払った者を登録し、宿の出入りの度に確認させる。二度目以降は光が黄色くなり宿をとっている者だとわかる仕掛けだ。金を払っていないのに通ろうとすれば赤く光ってそのことを知らせる。防犯上便利な道具だった。一平も何度か使ってきたが不思議なものだ。ただのガラス玉に見えるのに…。
「六ガイだね」
支払いを要求され、一平は懐を探った。シェークスの用意してくれた巾着袋に大小様々なタカラガイが入っている。
つまり、ここポセイドニアの貨幣とは、タカラガイの貝殻だった。その大きさや色や模様で価値が異なるが、値の表現としては、全て「ガイ」で表わされる。
手続きを終えると女将が現れ、二人を客室へと案内した。宿屋は二階建てで、客室は上の層にある。
「あんたたちは何だい?親子にしちゃ年が近すぎるが…」
人里へ来て、時折される質問だ。一平とパールの組み合わせは、他人には不可解に思えるらしい。
片割れが幼魚なので恋人同士にも夫婦にも見えない。似てないので兄妹にも見えない。体格上は親子ほども違うが年が近すぎる。
あまりに頻繁に尋ねられるので、少し前から一平はこう答えることに決めていた。
「迷子と、その保護者です」
「迷子ね…。それはまた、ずいぶんと大きな拾い物をしたもんだ。まだ若いのに、ご苦労だね」
女将は、小皺の目立ってきた目尻を下げ、ご愁傷様と言うように笑う。あまり元気のない笑みだ。
それを見て、パールが不審な表情をした。
「…女将さん。どこか悪いの?」
「なんでわかるんだろうね、この娘さんは。そうなんだよ。最近足や手の指が痛んでね。朝起きた時なんか、なかなか動かせないんだよ」
症状を聞く限りでは、リウマチのようなものに思われた。
「お医者様には診てもらってるの?」
「いんや。これでもいろいろ忙しくてね」
忙しいとはとても思えないような宿屋の状況だが、そればかりではないのかもしれない。単に面倒臭いだけかもしれなかった。
「パールに診せてくれない?」
「なんだって?」
女将は、一瞬何を言われたのかわからない。
「パールね。少し医術のお勉強したの。痛み止めくらいならしてあげられるの」
「あれまあ…」
本当かい?と言う顔で、保護者と名乗った一平の顔を見る。
「この子は…癒しの力を持っているんです。ボクもずいぶん助けられた。信じていいですよ」
女将は信じてくれた。
いや、信じたと言うのとは少し違うかもしれない。何をしてもしなくても痛いのだ。だったら試してもらっても損はないのではないか。そんなところだろう。
部屋にあった寝台に横になってもらい、パールは目を瞑って女将の手や足に手を翳す。時折痛みに耐えるかのように目元をひくつかせるのは、患部から発する悪い気をその手に感じるからだ。
罹患しているのは右半分だけとわかった。パールは左の手で女将の右手を、右の手で女将の左足を触って念じる。やがてその唇から安らかなメロディーが導き出されてきた。清らかで優しい歌が室内に紡ぎ出されてゆく様子を、一平は向かいの寝台に寄り掛かって静かに眺めていた。
パールが一平以外の誰かを癒すのを見るのは久しぶりだ。いつ聞いても心地好いが、一平に対する時と他の者に対する時とでは何かが違う気がする。パールの施術はその時々思いつくままになされるので、統一性など元々ないが、何かが違うのだ。強いて言うなら近さだろうか。施術に入るまでの時間が圧倒的に短い。悪いところをすぐに探して、即時治療に入る。一平の場合はそんな感じだ。初めて出会う生物だと明らかに長くかかる。
帳を誰何する音がした。
宿屋の主人が何事かと様子を見に来たのだ。客室の案内に行った女将がいつまでたっても帰ってこないことと、この聞いたこともないほど気持ちのよい歌声。この二つの原因を調べに客室へ上がってきた。
帳を引き開け、主人を招き入れながら、一平は人差し指を口に当てる。
主人は目の前の光景に息を飲んで立ち尽くした。
後光が差して見えたのだと言う。パールの周りに。オパール色の淡い光が。
一平は小声で説明して主人を中へと誘った。
女将は気持ちよさそうな寝息を立てている。
しばらくして、パールの歌声がやんだ。女将は静かに目を開ける。
「…大したもんだね。…ありがとうよ。もう全然痛くないよ」
パールはただ黙って微笑んだ。
「本当に、痛くねぇのかい⁈」
主人が身を乗り出して尋ねる。
「ああ。体の中に入ってた硬い棒がすっきり取れた…そんな感じさ」
「はあ…」
口を開きっぱなしで驚く主人を尻目に女将は言う。
「あたしゃ、思い出したよ。あの日のことを…」
「あの日?」
「…ありゃあ、ジーニアス陛下の即位十周年のお祝いの時だったから、十二、三年前になるのかね…。このデンにトリトニアの国王陛下がお祝いに見えたのさ」
「トリトニアの?」
思わず一平は身を乗り出して聞いていた。
「そう。まだ即位されて間もない頃、少年のように若くて、それでも指導者として輝いておられた。同じように若くて、綺麗な奥方様を連れてね。この家の前をお揃いで通られたのさ」
パールは大人しく女将の話を聞いている。
「オスカー陛下もそうだけど、私はお妃様の方に圧倒されたよ。十三やそこらの娘にはとても出せない気品が漂っていてね。私もあんな風になりたいと思ったものさ」
遠い目を傍らの少女に戻して、女将は言う。
「…あんた、似てるよ。シルヴィア王妃にさ。その髪のせいかねぇ…。シルヴィア王妃もそういう珊瑚色の髪をしてらした。特にあんたみたいな色は多くないから…。
綺麗な気品漂う王妃に似てると言われたせいだろうか。パールはとても嬉しそうにニコニコしている。
「パールは知ってるの?その王妃様を?」
一平は訊いてみた。
「…うん」
ちょっと考え、それでもパールは頷いた。
「似てるって言われて嬉しいか?」
「うん!」
今度は即答だ。
「でも、パール痩せっぽちだから、きれいじゃないよ」
「そ…」
そんな事はない、と断言しようとしたが、女将の声と重なったので、一平は口を閉ざしてしまった。
女将はこう言った。
「髪だけじゃないね。目元が、笑うとよく似てる。当時のシルヴィア王妃は、あんたと一つか二つしか違わなかっただろうからね。美人になるよ、あんたもさ」
過分に褒められて、パールは舞い上がりそうに紅潮している。
「あんたもそう思うだろう?」
女将は共に国王夫妻を眺めた主人に水を向ける。
「あぁ、そうさな」
応えて主人は徐に立ち上がった。首の後ろを無意識に掻きながら。
「宿代、…まけとくわ。うちの母ちゃん、よくしてもろて、わしからのお礼や」
そう言って、部屋を出て行った。
翌朝、宿の女将は心づくしの朝食を提供してくれた。
一平たちの他に客はいなかったと見えて、いわゆる食堂に当たる部屋は閑散としている。
「これは、あたしからのサービスだよ」
二人の目の前には、海藻づくしの品々の他に、青く美しい魚の姿盛りが並べられていた。
とっておきの魚を、早朝市場から仕入れてきて料理したのだと言う。
「うわあ…」
パールは感嘆の声を上げる。こんなご馳走は久しぶりだ。
「ママが作ったみたい…」
「あんたの母ちゃんも料理好きなのかい?」
「うん。おもてなし上手なの。でもパールは下手なの…」
あっはっは…と女将は大笑いする。パールの表情の変化が極端で面白かったらしい。
「料理なんてのも慣れさ。やってるうちに上手くなるもんだよ」
「そうかなぁ…」
パールの言う下手の原因は先端恐怖症にあるので、女将の励ましも慰めにはならない。
「好きな人でもできれば、腕も上がるさ。食べさせたい一心でね」
「そうなの?」
好きな人ならいるのにどうして上手くならないんだろうと、パールはこれまた半信半疑だ。
「私だって、昔は人並みにいい人のために頑張ったもんだが、あの宿六の今の状態じゃあね。これ以上は上手くなりようがないよ。あの人も昔はスマートでかっこよかったんだがねぇ」
女将は亭主を見やってから、一平に目を戻した。
「あんたほどじゃないがね」一平のことをしげしげと眺め、問い掛ける。「いい男だよねぇ…。こんなコブがついてなきゃ引く手数多だろう⁈あんた」
いきなり水を向けられて、一平は危うく喉を詰まらせそうになった。
「な…。そんなこと、ないですよ…」
「またまたあ。故郷に泣かせた女が幾人もいるんじゃないのかい?…あぁ、あたしがあと十年若かったらねえ…」
女将のため息と嘆きが聞こえたとみえ、片付けものをしていた主人が口を挟んできた。
「十年じゃ効かねぇな。二十年若くないと無理ってもんだ」
「ちょっとあんた。それが可愛い女房に向かって言うセリフかい?」
「言葉の使い方を間違えちゃいけねえな。可愛いってのはそこにいる嬢ちゃんみたいなのを言うんだ」
「言ってくれるよ、全く…」
夫婦のポンポン言い合うさまを、パールは口を開けて見ている。口で言うほど仲が悪いわけではないのは肌でわかるが、パールにはどうも免疫がないらしい。
「ねぇ…。喧嘩しないで…」
おずおずと口を挟んだ。
その表情が沈んでしまったので女将は言い訳た。
「安心おし。こんなのは喧嘩のうちに入らないんだよ。あんたんとこじゃあよっぽど両親の仲が良かったんだね。羨ましいことだ」
「パパはママが好きで、ママはパパが好きなの。だから喧嘩なんかしないよ」
「可愛いねぇ…。ほんとに…」
パールのいじらしさとあどけなさに、女将は眉尻を下げっぱなしだ。
「可愛いだけじゃなく、癒しの力もあるなんてさ。大したもんじゃないか。ごらんよあたしの手。朝はいつもあんなにしんどかったのに、今朝は早よからバリバリだよ」
おかげで早朝から市場へ繰り出すことができ、一平たちがこうしてその恩恵に与っているというわけだ。「トリトニアへ帰ったら、その力をたくさん役立てておやり」
女将は昨日あの後ひとしきり二人と話をしてから客室を辞した。その時、トリトニアへ帰る途上だということを話したのだ。
「そうそう、あの王妃様だってそうだよ。王女様がいなくなられてから、ずっとお加減が優れないそうだから、行って治しておやりよ」
パールの顔色が変わった。
「病気なの?」
「あたしは心の病だと思うけれどね。床に伏しがちで、政務も無理してこなしてるって聞くよ」
「……」
パールの目が茫洋としている。
「パール⁈」
みるみるうちに涙が溢れてきた。うっうっと嗚咽も始まって、周りの者は面食らう。
「おいおい、何泣かしてんだ?」
「うるさいね!事情もわからないくせに口出すんじゃないよ」
夫婦で言い合いながらも、女将は優しくパールの背をさする。
「どうしたっていうんだろうね。驚かしちまったかね…」
パールが泣き虫なのはいつものことだ。他者の不幸にすぐ同情してしまうのは、決して悪いことではないが、悲しみを共有しすぎるのは考えものだ。特に幼いうちは。
女将に優しく扱われて、堪えていたものが堰を切って溢れたしまったようだ。パールは慰めと癒しを求めて、一平の胸に飛び込んだ。胸元をぎゅっと掴み、えっえっと泣き縋る。
「パール…」
原因がわからないので、一平も途方に暮れる。
「……の、せいなの…」
「え?」
「…マ…。…ル…。帰らな…っちゃ…」
「ママ⁈」
涙の中から聞き取れる言葉は僅かだったが、一平はこう解釈した。
ホームシックだ。
女将は、王女が『いなくなって』母親の王妃が『伏せっている』 と言ったのだ。それを自分と母親に置き換えて、急に心配になったのだと。
パールに初めて会った時、迷子になったとべそをかいてはいたが、それ以降、パールは一度も家に帰りたいと駄々をこねたことも感傷に浸って泣いたこともなかった。なのに、ここへ来て思い出したようにホームシックにかかっている。いよいよトリトニアが近いということが、楽天的なパールにも多少は影響を及ぼしているのかもしれない。
パールの肩をそっと抱き寄せて一平は言った。
「大丈夫だ。女将さんの言ったのは王妃の話だ。おまえのママのことじゃない」
「…うん…」
声にならないくらいの声で、パールは応える。
「朝飯が済んだら、すぐに行こうな。きっともうひと月もかからないさ」
「…うん…」
一応パールの涙の出は止まったようだ。それを見てまた女将が感心する。
「大したもんだねえ。あんたの子守りも堂に入ってるね」
子守りと評され、一平はちょっぴり肩を落とした。
(やっぱり、そんなふうにしか見えないか)
「涙が止まったんならおあがりよ。トリトニアに行くんなら精をつけなきゃね」
さすがに女将は勧め上手だ。亭主の方はあまり客商売に向いていない感じだから、女将の裁量でこの宿屋は保っているのだろう。
宿代をまけてもらって食事までサービスしてもらったのに、女将は土産までくれた。妖物除けの薬の一つ、匂い袋だ。効き目のある妖物の種類は限られるが、四割ほどは無理なく撃退できる。
感謝の辞を述べ、二人は宿屋を後にした。
まさかここがあのキャプターの実家であるとは、二人には思いもよらないことだった。




