第十三章 シャワン砦
シェークスに教えられた五つの点繋道のうち、最後のそれを抜け出たところには、深い森が広がっていた。
森といっても、木々が生い茂っているわけではなく、海藻の森である。幅広で肉厚の長い長いケルプが揺らめきながら、海上目がけて無数に葉を伸ばしている。一歩足を踏み入れれば、自分がどこにいるのか分からなくなるくらい繁茂して、視界の効かない一帯だった。この森を通り抜け、更に北に三十三アリエル進んだ所にシャワン砦はあると言う。
アリエルと言うのは、ポセイドニアで使われている距離の単位で、一アリエルが〇、七キロ位だ。但しこれは一平の距離感から算出した数字であるので、甚だ心許ない。
ともあれ、この森を通らなければならない。迂回しようにも、この森は延々横に広がっていてきりがないどころか、森の周りに沿っていったら、遥か北のはずれのモノリスをも越えて行ってしまうと言う。更に森は東に伸び、南へ下って、再び西へ回り、要するに、ポセイドニア全体を覆っているのだった。
聞くところによると、森の中には奇怪な化け物が数多く住んでいて、ポセイドニアの外から侵入してくるものを阻むかのように存在しているらしい。
きっと人間の漁船なども知らずにこの海域に嵌りり、藻に絡め取られたり化物の餌食になったりしているのだろう。
航空機でさえ、その上空を通過することができずに姿を消してしまうと言う魔のバミューダトライアングル。その範疇にあるサルガッソ海のようではないか、と一平は乏しい知識の中思った。
実際、そこはサルガッソに近かった。ホンダワラの大群がひしめき合い、近寄る船舶を釘付けにする危険な海。
だが、ポセイドニアがそこにあるとすれば、海人の存在が今まで人間に知られずに来たのは頷ける。彼ら海人の園を守る自然の要塞が、この『アルテラの森』なのだ。
ポセイドニアを出入りする海人たちは、点繋道を使うか身体に化物避けの秘薬を身に付けてこの森を通る。シェークスは当然一平たちも化物避けの薬をもっているものと思っていたらしい。しかし、一平たちがそんなものを持っていようはずもなく、また、森を飛び越す点繋道も存在しなかった。
エルシーを使っての通信でそのことを知ったシェークスは、自ら迎えに出ようと申し出たが、一平が一応の武道を修めたと聞くと―しかも大剣が得物である―大剣で対処しきれないような妖物は―ここいらに潜む化物のことを、彼らは『妖物』と呼んでいる―出ないはずだからと、そのまま通り抜けることを勧めた。
確かに大剣で対処しきれない妖物とは遭遇しなかった。
パールだけ、或いはパドだけだったら危険だったかもしれないが、一平の振るう大剣は、身の丈が数倍もあるムルロアの怪物のような妖もものの数ではなかった。
パールをその背に括り付けたまま縦横無尽に妖物を薙ぎ払うさまは悪鬼とも羅刹とも見え、また、手が何本もある阿修羅をも連想させた。
妖物は巨大であるばかりではなく、細長い紐状の身体を獲物に巻き付けて締め上げた上で血肉を食らうヒルモドキや、電気を発生させて痺れさせ、その巣に運んで食料として貯蔵するクモダメシビレ、巨大な蛸のような吸盤が顔面についていて獲物を狙うスイツキエイ。かわいらしい風体をしているのに獰猛な牙と強い顎の力を持つピラピラア……。
その他にも色々見たし、対した。雑学博士のパドのおかげで適切に処理できたし生きた知識として身につけることもできた。
怪我もした。
一平一人ならもっと身軽に動けはしただろうが、何しろその背にはいつもパールがくっついている。身体の前に抱えていると片手が疎かになるのでこの形を取らざるを得ない。さしたる不都合はない。ただ、パールを庇うため、攻撃は常に前面から受けることになるので、受ける傷は前面に集中する。
もちろん、それらの傷は逐一パールが治す。だが全てが跡形もなく消えるわけではないので一平の身体は傷跡だらけだ。以前に受けた大怪我の跡もある。爛れの跡も。
ムラーラでは新調してもらった衣服は厚手で袖や裾も長めだったが、数々の戦いでそれらはとっくに破れて短くなっていた。極寒の南極は遠くなって久しいので、赤道を越えてきた身にはちょうどいいが、見た目はあまりよろしくない。
キャプター以来海人には会っていないので気にも留めなかったが、いざポセイドニアに足を踏み入れてみると、行き合う人々には変な目で見られる。
だがどうしようもない。シェークスに会ってエルシーを返してから相談を持ちかけてみようと一平ほ思った。
ペンタクス国内といっても、外海とそう大きな違いがあるわけではなかった。景色は見慣れた岩や海藻、珊瑚に魚たちの群れだ。まだまだこの辺にはカラフルな生き物が多い。違いがあるとすれば、砦があることだった。地上のそれと違い、砲台や跳ね橋があるわけではないが、城壁と呼べるような構築物が行く手に見えてくる。その向こうに建物があることは近寄るにつれてわかってきたが、城壁の外には建物はない。
パドの指摘した通り、ここほ辺境のようで、他国との哨戒の役目をこの砦は担っているのだと思われた。一番外側にいた衛兵はまだ若い。一平とそう違わないだろう。生真面目そうな口元が印象的だった。
一平はシェークスに伝えられた通りの所属を申し出、面会を請うた。
一平たち一行が訪問に来る、というのは既に衛兵には連絡が入っていて、一平たちはすんなりと砦の中に迎え入れられた。
一平の知っている海人の園はムラーラだけだ。かの国の建物はどのように切り出して造るものか、鋭利に感じられるくらい表面が滑らかで角張っていた。素材は石のようであったが、地上の墓石や名所の碑を思い起こさせるほど艶があった。
ここが砦であるせいなのかどうか、見る限りではペンタクスの建物はムラーラのものとはほど遠い。自然のままの状態の石を積み上げてできているので、ゴツゴツとして隙間も多い。生活ではなく守りに重きを置いているためか、余計な飾りは一切なかった。殺風景で殺伐とした感がある。
平和な日本に育った一平には馴染みのない規律と、絶対的な上下関係の厳しさが漂っている。戦場とはこういうものなのか、と一平は身の引き締まる思いがした。
もちろん一平とて戦いは嫌というほど経験してきた。が、国同士の争い、という場面には遭遇したことがない。生存競争の渦中とはどこか違う匂いがする。
シェークスはこの砦の中堅どころだった。ペリエ将軍に仕えていると聞いてはいたが、同じ仕えると言っても、下士官クラスではなく副官クラスなのだと判明した。きりりとした顔立ちのなかなかの男前だった。年齢は三十を少し越したくらいだろうか。
「ようこそ、ペンタクスへ。遠路はるばる足を運ばせて申し訳ありませんでした。さぞやお疲れでしょう。アルテラの森を無事通過されたと聞いてからは今か今かと待ち侘びておりました」
「シェークスさんのおかげで予定よりずっと早くポセイドニアに着けて、こちらの方こそ感謝しています。…申し遅れました。ボクは一平。こちらが連れのパールと、親友のパドです」
「ほう。これはこれは…」親友、と言って紹介したのがイルカであることに、シェークスは目を瞠いた。「ご親友がイルカとは…なかなか持ちたくとも持てない貴重な財産をお持ちで」
感心しながらシェークスは説明してくれた。イルカは海で最速とも最高の知能を持つとも言われる生き物だ。人懐っこくはあるが、プライドも高く気紛れなので、一生の友となれることは稀なのだそうだ。
「へえ…。確かに…気紛れですよね…」
なるほど、と心底感心してしまう一平だった。
「あなたは剣捌きの方も名手でいらっしゃるようだ。その大剣も良い品のようだし、短剣の彫りなど見ても由緒ある家の出であるとお見受けするが」
それは大きな誤解だった。短剣は父の形見ではあるが、大剣は下賜されたものだ。送り主の身分が高かったために品物が上等だっただけだ。
分不相応な褒め言葉に出会うと、つい否定したくなってしまう。一平は自分の生まれとここへ至った経緯をかいつまんで語った。パールのことを妹だと偽る必要も今はない。隠すことなど何もなかった、事ここに至っては、却って洗いざらい話して細かい情報を得た方がいい。トリトニアと一口に言っても、パールの実家が実際どこにあるのか、一平には皆目掴めてはいないのである。
「これはまた…英雄譚を聴くような話だ。地上生まれだなどと。そのような事が実際にあるとは…」
一平の話の中でも、シェークスにとって一番の驚きは一平が地上で生まれ育ったということだった。
海人の誰にとってもそうだろう。あまりに興味深いので、シェークスは上官のペリエ将軍にも一平を紹介し、詳しい話を聴かせて欲しいと申し出た。
ここに立ち寄ったのはエルシーを返すためではあったが、一平たちとてもシェークスには恩がある。シェークスはペンタクスまで導いてくれただけではなく、エルシー保護のお礼にと、路銀と旅装を調達してくれたのだ。一晩泊まって土産話をするくらいはなんでもなかった。
土産話の前にエルシーの主のことを話さねばならない。
クシュラというエルシーの主は鮫との闘いに敗れて命を落としていた。エルシーから聞き出した事実を告げることは胸が痛かったが、彼らは既に覚悟を決めていた。遺品も遺骨もないが、判明した以上手厚く弔いをせねばと言う。哀しい知らせをもたらしたにもかかわらず冷静で、ここの人々は頭の切り替えが早いと感心した。
その後も、一平と山のような話をした。一平に話させることも多かったが、一平の知りたいことをも沢山提供してくれて、かなり旅の助けになった。
そのひとつが路銀だ。
路銀、と聞いて一平は驚いた。まさか海の中で金銭のやり取りが罷り通っていようとは思ってもみなかったのである。ムラーラでは診察の費用などは物品で代行されていたのだ。
考えてみれば、ポセイドニアには国が十国もある。その一つ一つに王がいて、それぞれ国家を形成している。国を賄うのに便利な貨幣制度というものは国同士の間でも当然必要になろう。今までは本当に大自然のみだったが、街中に入れば建物も増えるし、人が集まる場所だけに規則が必要になる。
いわゆる野宿は警備の者に引っ立てられる恐れがあるとも聞いた。宿屋に泊まるのには路銀が必要だ。もちろん一平たちは一銭たりと持ち合わせてなどいない。シェークスは至れり尽くせりの厚情を示してくれたのだ。
エルシーと一夜の宿を返上し、一平たちは再び旅に戻った。
シャワン砦を出る時には、シェークスのみならず砦を預かっている長のペリエ将軍までもが見送りに来てくれた。将軍とシェークスとは伯父、甥の関係にあるらしい。そのため待遇が良かったのかもしれないが、甥から珍しい話を聞き、実際に自分の目と耳で確かめたペリエ将軍は、一平自身にいたく興味を惹かれたようだった。宴まで催して、地上のこと、ムラーラのこと、武術の修行の仕方など尋ね続けた。
シェークスをはじめとしてペンタクスの人々が一平たちに友好的だったのは、一つにはペンタクスとトリトニアとの国交がいい状態で続いていることが遠因してもいた。パールの言葉を借りれば、ペンタクスとトリトニアは『仲良し国』なのだ。
ペンタクスがトリトニアに害悪を持っていないのと同じく、トリトニアがペンタクスに害を為すことはないし、あってはならないのだと双方の国民が心得ているから信頼してくれたのだ。
そのため、点繋道もその所有を共有しているものが多いという。利便性を考えれば一国で独り占めしているより得策だ。
トリトニアの国情も少し聞き齧った。
トリトニアはポセイドニア十国の中でも力のある国で、国は豊かで落ち着いている。トリトニアより北に位置するモノリス、ガラリア、レレスクの三国は少しでもその版図を広げようとトリトニアを狙っているが、南の三国とは流通も多く国交も盛んだ。距離のある東の三国とは、可もなく不可もなく、通り一遍のつきあいをしているようだ。
国を治めるのは未だ二十六歳の若き王、オスカー三世。生粋の王族でカリスマ性があり、一つ年下の麗しき王妃と共に、国民から絶対の信頼をおかれている。
聞く限りでは安定した国のようで、一平腹胸を撫で下ろしていた。パールから『トリトニアは強いから』『いまはどことも闘ってないよ』と聞いてはいたが、何しろあれから三年近くもの年月が経っているのだ。
そう―。
もう、三年にもなるのだ。パールと出会ってから。
中学校に入りたてだった一平も早十六歳。九つだったパールはそろそろ十三歳になるはずだ。幼魚から成人へと変わる大変態の年。到底それまでに辿り着けるはずもないと思っていたトリトニアで、もしかしたらその時を迎えることになるかもしれない。それほど間近に、目的の地は迫ってきている。一生かかるかもしれないと覚悟していたというのに。
ここまできたら一分でも一秒でも早く彼の地に足を踏み入れたいところだが、生憎とペンタクスとトリトニアを結ぶ点繋道は現在発見されていないという。地道に己の足や鰭で距離を稼ぐしかないのだ。
でも、こちらには今パドがいる。点繋道をたくさん使ったとは言え、イルカのパドの功績は大きかった。
本当に、あと少しだ。
問題は。パールが自分の家の場所をはっきりと自覚していないことだった。首都のトリリトンにあることだけはわかっているのだが、お医師の元にすら出かけたことがなかったのだから推して知るべしなのだが。
トリトニアの首都トリリトンは、アフリカ大陸のような形をしたトリトニアの三角の出っ張りの根元辺りにあるという。シャワンからは、隣のジーを横切ってトリトニアに入り、北北東に進めばよい。
「ここまで来れば大丈夫だよな?」
不意に身体の下から声がした。パドだ。
「え⁈」
何のことだ、と一平は目を落とした。
「おいら、ここで姉ちゃんを探すからさ。こっから先は二人で行けや」
突然耳にする別れ話に、一平とパールの二人は目を丸くした。
「ど…どうしたんだよ、急に?何か、気に障ることでもあったのか?」
イルカの友を待つのは難しいと昨日聞かされたばかりだ。昨日も思ったが、本当につくづく気紛れだ。 もしかして、自分たちが乗り物代わりにパドを使役していることに嫌気がさしたのかもしれないと思い至り、一平は慌ててパドの背から降りた。脇を抱えてパールも下ろす。
身軽になったパドは早速急旋回をして二人に向き合った。
行動から、一平が何を考えたか予想がついたのだろう。パドは言った。
「そんなんじゃねーよ。乗せてやるって言ったのはおいらの方だぜ⁈」
「じゃあ、一体…」
「昨日、シェークスが言ってただろ?イルカの話の時にさ。うちの陛下も、賢いイルカの親友を持っているって」
ああ、そう言えば…と、一平は思い出した。
「ペンタクスのエリエール陛下の親友のイルカっていうのがおいらの姉ちゃんなんだよ」
「ええっ⁈」
びっくりである。
ついで、一平は思い当たった。
「具合が悪いって…言ってなかったか?」
パドはコクンと頷く。
「一番上の姉ちゃんだから、もう年なんだ。様子だけでも見てくるよ」
ペンタクスの首都ペンタは確か一番南だと聞いた。一平たちが進もうとするのとは逆方向だ。
「パド…」
沢山世話になったのに、まだ何も返していなかった。このことだって、パドは昨日から気にして悩んでいたに違いないのだ。表に見せないで、宴の席でもはしゃいで曲芸をして見せてくれたパド。その心中を慮って、一平は胸が詰まった。
「ごめん。自分たちのことばかり言って、パドのこと何も考えてなかった。…こんなの…親友だなんて言えないよな…」
「ちげーよ。おいらは好きでついてきて、好きで世話焼いて、好きで行くんだ。おまえらが嫌になったんじゃねーよ。最初から言ってんだろ。ペンタクスの姉ちゃんに会うって」
「うん…」
それはそうなのだが…。
「お姉さん、病気なのなら。パール治してあげたい。ねえ、行こうよ、一平ちゃん。ペンタに。トリトニアに帰るのはそれからでもいいじゃん」
一番帰りたいのはパールのはずだ。それなのに、逆戻りしようとパールは言う。もう目の前にトリトニアが迫っているというのに。
「大丈夫だよ。寄る年波ってやつさ、きっと。おいらの顔見りゃ元気になるよ。それでもだめだったらさ…手に負えなかったら来てもらうよ。おいらの速さ、知ってるだろ?、すぐに追いついて、引きずってでも帰る。それでいいだろ?」
パドの言うことはいつも一理あるのだ。冗談を言っていても、どこかに真実が含まれている。だからこそ信頼し、尊敬もできるのだ。
「でも…」
躊躇するパールにパドは言う。
「噂だからな。まともに受け取らなきゃいいんだけど、やっぱ姉弟だから気になるのさ。確かめてくるだけだよ。でもそのせいであんたたちの里帰りが遅れるのはおいらはいやなんだ。せっかくおいらが頑張った分、無駄にしないでくれよ」
パドらしい言いようだった。
一平は思った。この親友の言うことに従おう。それがパドの恩に報いる道だと。
「わかったよ。行こう、パール。ボクたちの目的地はペンタクスのペンタじゃない。トリトニアのトリリトンだ」
「それでこそ、おいらの見込んだ男だぜ」
愛嬌のある目をくるくる輝かせ、パドは息子の成長を喜ぶ父親のような口調で言った。




