第十一章 対蹠点の奇跡
イルカのパドという旅の道連れを得て、一平たちの旅程は一段と捗るようになった。
さすがは海で最速の生き物である。最高時速は五十キロメートル。海で最大のシロナガスクジラの時速二十キロメートルよりも遥かに速い。百メートルなら八秒かからない。お粗末にも、人間では自由形でせいぜい四十八秒というところだ。
パドはパールばかりか一平まで乗せた上で、一平よりも速く泳ぐことができる。一平の体重がパールの倍あるのでさすがに長時間は保たないが、それでもこちらは身体を休めることができるし、何よりパールの体調を心配しないでいい。だが、パドにばかりおんぶしているのも気が引けるし、イルカの背に掴まっているのも、自動車に乗せてもらっているほど楽なわけではない。
自転車やバイクに乗せてもらう以上に骨が折れる。何しろ掴まるようなとっかかりがほとんどないのだ。背鰭はともかく、胸鰭も尾鰭も手をかければ泳ぎに支障を来すし、その背鰭にしても、ひとつしかない上に、ぬるぬるとして滑りやすい。
一、二時間ほどで何とかコツを掴んだが、気を抜くことはできないのである。
運転士のパドの方は、一向に乗り手のことを意に介さず、自由気儘に振る舞ってくれる。友達を調教するわけにもいかず、時折振り落とされて悲鳴をあげながらも、二人と一頭はそれなりのコミュニケーションを取り合って旅を進めていた。
だが、一平たちとイルカとは生態に大きな違いがある。肺呼吸のみの生き物であるイルカは水中に潜っては眠らない。頭頂部に噴気孔があるために海上に浮かんで眠るのだ。
一平たちは二人とも、海底で眠ることが多かった。掴まる場所も、手掛かりや足掛かりとなるようなものもないところでは、何か頼りなく、またどこからも丸見えで安全性に欠けるからだ。
だから一緒に旅をしていても、パドとは自然と夜は別れ別れになってしまう。
それだけではなく、気まぐれパドは昼間でも時折ふらりと姿を消してしまうことがある。主に採餌のためだが、何かに夢中になるとこれが長い。ついでにかわいい女の子でも見かければ更にその時間が長くなる。ひとりいるかを気取っているくせに、やはり年頃なのか、同種の魅力的な雌には激しく興味を引かれるらしい。
そのことを知った時、一平は少し憤慨した。
こちらは心配して待っていると言うのに、黙ってナンパに耽ってるんじゃないと。
ところがパドはどこ吹く風であり、魅力的な女性に気に入られようと精を出すのは男の義務であり甲斐性だと反論する。
「男がスケベでなかったら、その種族は絶えちまうんだ。当然の行為だよ。一平だって同じだろ?」
きっぱりと言われて一平はあたふたする。そばにはパールもいて聞き耳を立てているのだ。
「だが…待っているこっちの身にもなってくれ。せめて一言…」
断ってから行ってくれというのが一平の主張だったが、これに助け舟を出すどころか、パールは大きく頷いてこう言ったのである。
「そんなことしてたら、お嫁さん逃しちゃうよねえ」
どうにも、この野性的なものの考え方にはなかなか慣れることができない。大人ならば何をおいても、まず子作りに励むべきだと言うのが、魚にもイルカにも、そして海人にも共通した常識であるらしい。
弱肉強食のこの世界では、そのほとんどを他の動物に食べられてしまうことを覚悟の上で、何百何千という数の卵を産むことが当たり前なのだから、無理もない。一つでも多くの命を残すことこそ、海に生けるものの究極の目的なのだ。
一平とパドはお互いの中に妥協点を見つけることができずにいた。
折衷案を出したのはパールである。
進むスピードはパドの方が速い。目的地への方角くらいは毎晩打ち合わせてある。だから二時間待ってパドが戻って来なかったら、取り敢えず自分たちは先に進んでいる、と言う案だ。
どんなに遅れても半日あれば、確実にパドは一平たちに追いつける。自分たちの足で稼いだ距離は糧にこそなり、無駄にはならない。パドがいなければ、そもそもの進路はそのようにゆっくりしたものだったのだから。
一人と一頭は納得した。
そんなわけで、二人はまた二人に戻って進んでいた。
よりにもよって、そんな時だった。二人に危険が迫ってきたのは。
二人は鮫の群れに襲われていた。
血に飢えた海のギャングが二人の周りを周回し、隙を狙い続けている。血気に逸った一匹が時折痺れを切らしたように突進してやってきては、反撃を食らって出直しを図っていた。
睨み合いが始まって十五分かそこらしか経っていないのに、恐ろしく長い時が過ぎ去ったかのような緊張が二人を包んでいた。既に一平は左上腕や右のこめかみから頬にかけて擦過傷を負っている。鮫の楯鱗によるものだ。ヤスリで削られたと同じで、細い筋が数え切れないくらい刻まれて血が滲み出していた。
背後にパールを庇っているのにも拘らず、被害はその程度で済んでいた。以前パールから気を逸らすために単身イタチザメの前に飛び出して行って傷を負ったことを考えると信じられないくらいだ。あの時武器と言えば、一振りの短剣しかなかったが、それを差し引いても、一平の身を守る術、敵を倒す技と力は格段と進歩していた。ミラの教えは見事に身に付き、賜った大剣が頼もしい相棒となっている。
鮫の攻撃筋も容易に読め、動きを見切ることもできる。間合いや力の入れ加減も、数々の実践から自由自在に調節することが可能になっていた。瞬く間にとはいかないが、鮫たちが本格的な襲撃を開始してからものの十分ほどで、辺りは屠殺場と化した。
屠られたのは全て鮫たちである。息絶えた彼らは血煙を残して海底に沈んでゆく。浮袋を持たない鮫は泳ぎ続けなければ沈んでしまうのだ。
凄惨な戦いが幕を閉じても、パールはまだ恐ろしさで震えていた。一平の太い腰の周りで、少し力の緩んだパールの手が痙攣を起こしている。パールはずっと一平の腰にしがみついていたのだ。小柄なパールにとっては、掴まるのなら肩や首の方が楽なのだが、それでは一平が剣を振るうのに支障がある。そのため一平は腰にくっついていろと指示して、空になった背中の剣帯をパールの身体に回しかけた。剣帯で一平の背に括り付けられたような形になり、狭くてきつかったが、命綱の代わりとしてはまずまずの案だった。
だが、もうその必要もない。一平は剣帯を外して大剣を収めると、ガクガクと震えるパールの手を取って己の胸に引き寄せた。
「大丈夫だ…。もう、終わったよ。安心しろ」
顔を埋めた広い胸から、直に一平の声が響いてくる。動悸の音はまだ早い。
が、確実に収束へと向かっているのが感じられる。もう戦いは終わったのだ。
パールは一生懸命気持ちを落ち着けようとする。一平の心臓の音に耳を傾けて。
しばらくして一平が怪我をしていることを思い出したパールは手当てに取り掛かった。
上腕の傷に手を翳してからそっと舐める。
されるがままになっていた一平がびくっと目を瞠いた。
少しはにかんだまま、施術をするパールを優しく見下ろす。
次いでパールは一平の頬に手をやった。いかにも痛々しくてたまらないといった風情がパールの表情に表れている。少し考えた後、パールはそこにも唇をつけてきた。
平然と目を開いていられるものではない。治癒のためと承知の上だが、顔がニヤけるのは止められない。そのまま顔を向け変えて、自分の唇を合わせてしまいたい衝動を一平はかろうじて抑えていた。
痛みが引くとともに傷跡も薄くなっていく。軽い擦過傷だから後には残るまい。
それでも施術は施術だ。極度の緊張の後だったから余計疲れたのだろう。やがてパールは「眠い」と言い出した。目を擦っても眠気を振り払えず、一平の顔に添えられていた手は手元を漂ってからパタリと落ちた。
一平は愁眉を開いた。あっという間に眠ってしまった少女を優しい目で見下ろし、彼は囁いた。
「ありがとう。パール。ゆっくり、お休み…」
少女を改めて抱き抱え、一平はあどけない額に己の唇を押し当てた。
―一平―
どこからともなく声がして、一平は顔をあげる。
誰かが呼んでいる。若い男の声だ。
「…誰?…」
「オレだよ。久しぶりだな…。一平、なんだろう?」
一平は声のした方に目を凝らす。
淡い光の幕が円形に浮かんでいた。そしてその光の中心に一人の少年の姿が見える。ストライプの模様があり、上下に分かれた服を着て四つん這いになってこちらを覗き込んでいる。上衣にはボタンがいくつもある。襟はルーズに開き、袖口も足元もゆったりとして体を締め付けないスタイル。パジャマだ。
少年がいるのは畳の上、後ろに見えるのは布団だ。夜なのか、光の中は暗い。まるでテレビの画面の中のように見える。
少年の顔には見覚えがあった。軽くウェーブのかかった黒い髪。弓なりの眉ときかん気そうなやんちゃな目。少し上を向いた鼻の横には小さな黒子が二つ並んでいる。
「…学⁈…」
一平の知る従兄弟の顔とは少し違っていた。一目でそうとはわからないくらい、子どもっぽさが抜けて逞しくなっていた。
「当たり」
間違いなく学だった。声は低くてまるで別人だが、その口調と口癖はまさしく一平の親友の持っていたものだ。
「どうして…」
こんなことがあっていいものだろうか。
日本を出て二年半。何万キロと離れた地にいるはずの学が、なぜ目の前に見えるのだろう?
いや、地上であればそれも珍しくはない。テレビという文明の利器が不可能を可能にしている。
だが、ここは海の中だ。機械も電気もない。
それでもこれは現実だった。本物の学が目の前に見えていることは間違いない。理屈ではなく、直感がそう告げる。
「…声変わりしたのか、学…」
久しぶりの再会にはもっと気の利いた台詞があるだろうに、と自嘲しながら、一平は言っていた。学の方もニヤリと笑って応える。
「当然。中三だぜ。部活も引退して地獄の受験生をやってるよ」
「中三…。受験…そうか…」
あのまま時が流れていたら、一平も学と同じように今頃受験戦争の真っ只中に放り込まれていたはずだ。感慨深い知らせだった。
「夏の大会は結構いい成績残せたんだぜ。おまえがいたんじゃ、無理だったろうけど」
二人は共に水泳部に所属していた。類稀なる素質を期待されながらも、公式戦にデビューすることもなく、一平は部員たちの前から姿を消したのだった。学は学で、親友たちがいなくなった後の中学校生活を、悲しみに負けずに謳歌してきたのだと推察できる。
一平は思い出す。少しだけ、心残りだったことを。
「学…ごめん…。黙って、いなくなって…」
学は一瞬目を丸くしたが、すぐに片眉を釣り上げて言った。
「全くだ、よくも落ち込ませてくれたもんだ。ダブルパンチ…いや、トリプルパンチだもんな。おまえときたら…」
「ごめん…」
双子の兄弟である翼の急死。親友の出奔。かわいがっていた少女との突然の別れ。置き手紙はあったものの、具体的な計画も予定も何一つ、一平からは聞かされなかったのだから。
「マジにとんなよ。オレがそんなやわなタマだと思うか⁈」
一転して明るく、学が否定し始める。
「おまえでなきゃ、できないことだったさ。オレも翼も、パールか捕まったり見世物にされたりしたら嫌だもんな」
「学…」
「大きくなったよな、パールも。前にも増して可愛いじゃないか」
学は一平の腕の中の少女を懐かしげに見つめていた。学の知るパールの姿は今より二回りも小さくて、髪も短く、もっとずっとあどけなかった。二年前よりもすっきりとした頬を珊瑚色の髪が戯れるように撫でていた。
一平は応える。
「うん。いつの間にか、もう十二さ」
「十二?…え?…」学は上目遣いで指を折る。「…時間の流れまで、違うのか?」
学の認識ではパールはあの頃七つか八つだったから、九歳か十歳になってはいても、十二歳になどなっているはずがなかったのだ。
一平は笑う。
「違うよ。そもそもボクらが勘違いしてたんだ。あの頃パールは九歳だってんだってさ。あれから三回変態して、歳をとったんだよ」
「変態って、何だ?」
「パールの一族は一年に一度、まとめて成長するらしい。一晩で急に大きくなるんだ」
「へえー」
学の驚きは、二年前の一平の驚きそのものだった。
「ついでに言えば、十三歳で成人だってさ。男は十四で」
これは一平も最近知った。
「…つうことは…十五のおまえはもう大人?」
「そういうことになる。全然、実感湧かないけど」
実感がないと言う一平の顔はまだ少年らしさを多分に残したものだがその体格はと言えば十二分に成人として通用しそうだった。背も伸びているみたいだし、肩幅や腕の筋肉も、そうして座り込んでいても立派なのがわかる。学は一ヶ月年下のはずの従兄弟の体躯をしみじみと眺めて感嘆した。
前からそうだったが、相変わらず成長の早い奴だ。羨ましい。
「ふうーん。…でもま、昔の人は十五で元服だっていうもんな。そういうこともあるだろうさ」
「おじさんやおばさんは元気?」
世話になった懐かしい人の消息も聞いておきたい。特に伯母には、旅立ちの支度を手伝ってもらったのだ。伯母が古い納屋から引っ張り出してくれた形見の短剣はムラーラに着くまで一平の大きな助けとなっていた。あれがなければ食うにも困ったし、襲ってくる敵と戦うこともできなかっただろう。
「あたりきよ。勉強しろしろって、うるせーの」
「学は嫌いだからな、勉強」
一平や翼が必死になって学校の宿題にとりくんでいても、学だけは煎餅を齧ったりテレビを見たりして、なかなか取り掛からなかったものだ。
「人のこと、言えんのかよ」
思わず苦笑する。一平だって勉強が好きだったわけでは決してない。必要と思われる知識には貪欲になれたが。
「…ボクの分まで、がんばってよ」
もう、日本へ戻って中学校生活をやり直すことはできないのだ。自分も、死んでしまった翼も…。
だが、そんな感傷は学には迷惑だったらしい。
「じょーだんじゃないぜ!」
と、一蹴されてしまった。
だが考え直したように学は訊く。
「おまえさ…、いつも、あんな危ない目に遭ってんの?」
さっきの鮫の一件か、と一平は思う。おそらく、学の声が聞こえるもっと前から彼はこちらの様子を目にしていたのだろうと。
「‥毎日って、わけじゃない。でも、海は食うか食われるかだから」
「大丈夫なのかよ?」
「今のところはね」
大丈夫か、と聞かれても、そう答えるしかない。決して大丈夫とは言い難いし、かと言って、心配させるようなことも言えなかったから。
「大剣も手に入れたし、武術も習った。これでも、以前よりはずっと強くなったつもりだよ」
そう言って一平は手元の愛剣を見た。
「それか…。重そうだな…」
「うん、…五キロはあるかな⁈」
「五キロ⁈」
「でも、水の中だからね。そんなには感じない」
「……」
学は呆気に取られて一平と剣とを見比べた。
一平は自分とはまったく違う世界に生きている。同じ『争』と名がついても、受験戦争と生存競争とでは、自ずと緊迫感が違ってくる。
「オレさ。ずっと、おまえに言いたかった。どうせ夢なんだろうけど、会えてよかったよ」
「夢?」
「だろ?おまえは海ん中だし、オレは自分の部屋の布団の上だ。今は真夜中だろ?」
そう言って学は右手をあげ、親指で背後の布団を指差した。
こちらは真っ昼間だった。一平の方にははっきりと現実感がある。
これまで様々な不思議な経験をしてきたからか、何があってもそのまま受け入れてしまう素地ができてしまったのかもしれない。初めての怪奇現象なのに、夢と断言する気持ちはほとんどないと言ってよかった。対する学のほうは霊感が強いわけでもないし、超常現象の番組を面白がりはしても、「そんなばかな」と思う気持ちの方が強い、極めて現実的なタイプだった。頭を使うより身体を使う方が得意だし、自然なのだ。
それでもいいか、と一平は思った。自分が確信しているからといって、無理に学に納得させることもない。こんなことはこれっきりかもしれないのだし、また機会があればその時少しは進展するだけのことだ。黙って旅立ったことを学に謝れた。それだけでも満足だった。
だが、少しは知らせておきたい。自分が今、どこにいるのかを。
自分のことを気にかけてくれる人間が一人はいるのだと知ることは、他人にわかって欲しいという気持ちを抱かせる。
「こっちは昼だ。やっと大西洋に入ったところだよ。多分、アルゼンチンやウルグアイの西海岸に沿った辺りにいる」
「大西洋だって?そりゃまた…」
学は少なからず驚いた。昼と夜が逆転しているということは、地球の反対側じゃないかと予想はつくが…。
「トリトニアはね、学。どうやら北大西洋にあるらしい。まだ何年かかるかわからないけど、必ず探し出してみせるよ」
一平は、真面目に真面目にそう言った。
「うん…。頑張れよ。オレ、そう言ってやりたかった…。今、言ったからな」
「学…」
真っ直ぐでぶっきらぼうだが、優しい学の気性が懐かしく胸に染み入った。
「それから…」
「うん⁈…」
何か言いたげだが言い淀んだので、一平は真顔で催促した。
「さっき、キスしてただろ?」
そう言われて、訊くんじゃなかったと後悔したが、隠したとて意味はない。正直に頷いた。
「…うん…。感謝の気持ちだよ。パールはもう何度もボクの怪我を治してくれてるんだ」
「へえ…」言い訳じみた一平の返事を学は面白そうに聞いていた。「でも…それだけじゃ、ないんだろ?」
「え?」
「パールのことが、好きなんだろ?」
心を見抜かれている―そう思った一平は素直に答えた。
「…うん…」
学は前から言っていた。一平がパールのことを特別な存在だと思っていると。彼がはっきりと自覚をする、ずっと前から。
「ちゃんと送れよ。狼にならずに…」
「…うん…」
素直になれるのが不思議だった。一平の中にパールが何よりも大切だという確かな思いがあるからそう言えるのか、学と話すチャンスはこれ限り、という思いがあるからなのか…。
学は言った。
「‥素直でよろしい」
「…うん…」
胸が熱くなった。目頭に熱いものが込み上げる。
それに気づいた学が嗜める。
「大人だろう?泣くな…」
(…学…)
学の姿がぼやけるのは涙のせいだけではなかった。
突如現れた光の幕は、フェードアウトするように次第に揺らいでゆき、声も姿も全てどこかへ吸い込まれて行った。
やがて体力を回復して目を覚ましたパールは、開口一番こう言った。
「学ちゃんの匂いがしない?」
愛嬌のある鼻をひくひくさせ、一平をドキリとさせる。
「うん…」
否定とも肯定ともとれる生返事だけを一平は返した。
不思議そうに小首を傾げるパールに笑いかける。
大好きな一平の笑顔に、パールは自分の疑問を忘れた。一平が笑いかけてくれれば、他のこと全てはどうでもよいことなのだ。パールにとっては。
朝になって学の一番にしたことは、押し入れから地図帳を引っ張り出すことだった。 地理を習ったのは一年生の時だ。整理整頓の行き届かない押し入れの中からどうにか見つけ出すと、南米大陸のページを開いた。
一平の言ったアルゼンチンの東側の海に、日本のシルエットが上下左右逆向きに描かれていた。
―地球の正反対側においた日本―という注釈がある。南緯三十五度四十一分、西経四十度十四分が東京の対蹠点だと。
鈍い学にもピンときた。その東京の対蹠点より少し北西、学のいる南紀から地球の中心を通って同じ距離を進んだ地点に、一平はいるのに違いないと。
もし夢ではなく、現実なのなら、一平とパールをお守り下さい。神様、仏様、キリスト様、誰でもいいから、あの二人を無事トリトニアまで連れて行って下さい、と学は無心に祈らずにはいられなかった。




