第十章 新しい道連れ
一平が目覚めた時、近くにパドは見当たらなかった。肺呼吸をするイルカなら当然か、と一平は心配するのをやめた。
バールはまだ眠っている。相変わらず寝顔が可愛い。普段も実年齢より幼いが眠っているともっと幼く見える。
少なくともパールは一平より後に眠りに就いている。施術の後なので、回復にはもう少し時間がかかるだろう。まだ当分起きないに違いない。
一平はパールの髪を撫でつけてやり、次いで額に唇をつけた。お疲れ様、と、そうしないではいられなかった。
パールから身を離して見下ろしても、彼女には何の変わった様子もない。依然として茨の森の眠れる姫のように瞼を閉じている。一平は急に腑に落ちた。初めて出会った眠り姫に口づけをして起こした王子の気持ちが痛いほどよくわかってしまった。
ふと、気配を感じて顔を上げると、目の前にパドがいた。
一平は慌てて飛び上がった。
(見られた?)
いつからそこにいたのだろう?イルカはとても早く泳げるのでそんな事はないかもしれないが、パールにキスしていたところを見られたのはまず間違いない。それほど前の話ではない。
「ど…」
「へえ。そういうことだったんだ」
一平が何か言う前にパドに言われた。
「な…何が…」
わかっているくせに、そう言うしかなかった。
「幼魚だけど、恋人なんだ⁈」
「幼魚⁈」
その言葉がなければ、一平は真っ赤になって狼狽えていただろう。
魚だとすればよく聞く言葉だ。いわゆる稚魚のことだ。いや、それよりは少し大きいか。だが、人間には使わない。海人には使うのかどうかは一平は知らない。パールの口からは聞いたことがない。
「違うのか?まだ尻尾があるじゃないか」
「まだ?」
という事は、いずれはこの尻尾はなくなるということなのだろうか。
そう言えば、ムラーラのミラには立派な足があった。彼女は大人の女性だ。大人になれば尻尾がなくなり、代わりに二本足が生えるのだろうか。
迂闊なことに一平は、せっかく立ち寄った海人の国で多くの海人たちを目にしていながら、尻尾のあるなしに気を留めずに過ごしていた。
パールという人魚を毎日身近に見て、他の人魚を見ても驚かなくなっていたからなのか、はじめに出会ったナムルやミラたちが当然のように服を着、二本の足で動き回っていたために、ムラーラの人たちは皆こうなのだと思い込んでいたせいなのか、また、人魚の姿をあまり見かけなかったことも影響しているかもしれない。元首邸近辺では子どもの姿を見ることがなかった。だが、神獣退治の折に群がってきた人々の中にはいたはずだ。
よくよく思い返してみると、人魚の姿をしていたのは女の子だけだったような気がする。武術場で指導を受けていた少年たちには皆足があった。成人前だと言う十四歳未満の少年たちだ。だが、一平とは違う。地上人と同じような足の脛の横に鰭があった。微かに覚えている。
「海人のムラーラと言う国を知っている?南太平洋にあるんだ」
一平は尋ねた。
「聞いたことあんな。男は武門に秀で、女は貞淑で子沢山…じゃなかったかな?」
ムラーラと言うと、メーヴェとミラを対で思い出す。メーヴェは男のくせに武道はからっきしだし、女のミラの方は屈強な男が舌を巻くくらいの剛力と技倆の持ち主だった。一平にとってムラーラを代表するほどの二人が、こうもムラーラの一般の気質にそぐわないとはおかしな話だ。
「何ヶ月か前、ボクたちはそこに立ち寄ったんだ。この服も剣もそこで調達してくれた」
言いながら一平は、右手の親指で自らを指し、背中の大剣を指した。
「はん。あんたの武道は、ムラーラ流かい。道理で」
パドは言外に大したものだと匂わせているが、一平の言いたいのは武道の話ではない。
「そのムラーラでは、大人の人たちには皆足があった。ボクはムラーラの人たちとボクらトリトニアの者とは形態が違うのかと思っていたが、そうではないのかな?パドはどういう海人と知り合いなんだ?どこの海に住まっても、海人は海人で、魚たちのように異なる容貌をしていないのかい?」
「あんた、海人だろう?自分のことなのに知らないのか?」
あまりに突拍子もない質問だったのだろう。パドはおどけた目をくるくるさせた。
「うん、恥ずかしながら…。実はボクはトリトニアと陸の人間とのあいのこなんだ。地上で育ち、トリトニアには足を踏み入れたことすらない。トリトニアの人にも会ったことがない。父とパールを除いて…」
思いもかけぬ話にパドは身を乗り出す。詳しいことを聞きたがった。
ムラーラでは隠すしかなかった自分の生い立ちを、抵抗なく誰かに話せることが嬉しかった。出会ってまだ僅かだが、このイルカは信用できると、一平の身体中の器官がこぞって主張していた。
一平から話を聞き出すとパドは訊いてきた。
「ふーん…。すると父ちゃんは…?一平の父ちゃんはあんたと同じなんだろう?」
「うん。でもやっぱり、地上では毎日水風呂を欠かさなかった」
水風呂という言葉の意味がわからなかったが、今は大して重要ではないと、パドは聞き流す。
「パールは何歳?」
「そろそろ十二歳らしい」
「はっきり知らないの?」
「いや、あまり詳しく聞いたことないから…」
「自分でも把握してないのかもしれないな」
海の生き物であれば大抵、季節の移り変わりや潮の満ち干きなどの自分に適した大事な節目を月の気配から感じ取れるはずだ。海人にしてもそれは同じで、多少の違いこそあれ基本的には親からも教わるのでわかるはずだ、とパドは言う。
それが身に付いていないと言う事は、放ったらかされて育ったか、身体のどこかに欠陥があるかのいずれかだろうと。
そう言えば、パールはトリトニアでは病気ばかりしていたと言っていた。あまり外へも出してもらえず、寝てばかりの生活だったと。
「十二なら、もうあと一年もすれば成人だよ。大人の仲間入りだ。おいらにはよくわかんないけど、ちょっとそんな年には見えないね。姿形だけじゃなく気持ち的にもすごい子どもじゃない?」
その通りである。庇ってやりたいが反論の余地はない。
「でも必ず、遅くとも十四になる前には、最終的な大変態が終わるはずだよ。あの綺麗な尻尾は跡形もなくなり、あんたのみたいなおかしな二本足になる」
「おかしな⁈」
一平は思わず眉を顰めた。イルカのパドには、一平のような海人の二本足はへんてこに映るらしい。
「気を悪くしないでくれよ。おいらには、どうにも理解できないんだから、泳ぐのには絶対こういう尾鰭の方が便利だし、速いんだ。そんなふうに身体の途中から二つに分かれてたらスピードが出せないし、どっかに引っかかりやすい。水掻きだってついてないだろう?」
一平は思わず両の手を広げてみた。水鳥や蛙のように、この指の股に薄い膜が張っているところなど想像しただけで気味が悪い。
パドにしてみれば、そういう感覚なのだろう。海人の二本足は。
だがそれよりも、今はパールのことだ。
パドはパールがあと一年もすれば二本足の姿になると言い切ったのだ。
「大変態…って言うのか?その二本足になる時は」
「毎年変態するんだろ、海人たちは⁈カニやエビが脱皮するみたいに」
なぜか一平はそうならないが、脱皮と一緒にされるのもいい気持ちはしない。
「おいらたちにはないからさ。わかんないけど。幼魚から成人になる時が一番変化が激しいんで『大変態』って呼ぶらしいよ」
「海人はみんな?男も女も?どこの国でも?異なる大洋に生まれても?」
「いっぺんにいろいろ訊くなよな」パドはちょっと顔を顰めた。「そうだよ。世界はひとつ。七つの海って言うけど、海もひとつさ。海人も一種類だよ。なんでか知らないけどな」
パールがいつか自分と同じ姿になる―いや、同じではない。性別が違うのだから。
大人になったら赤ちゃんをたくさん産むとパールは言う。
この尻尾のどこから生まれるのだろう。まさか卵じゃないだろうなと疑問に思ったことがある。パールが他の誰かを好きになってそいつの子を産む、と想像した時にははらわたが煮えくり返りそうだった。だが、そのいずれも、パールの下半身が地上の人間と同じようになるという仮定の下ではなかった。
パールには乳房はもちろん乳首もない。初めて会って気づいた時、やっぱり魚なんだ、と思ったことを思い出す。
でも、ミラには立派な二本足があった。もちろん生で見たわけではないが、その胸も一平の目にしたことのある地上の女性の胸と寸分違わぬように見えた。
それではパールもいずれああなるのか?
それはおかしなことではない。地上でだって、子どものうちは女の子に胸の膨らみなどありはしないのだから。
けれど、海人には突然それができるのだと言う。徐々にではなく、一晩で一気に。
想像してしまった。
パールの成人した姿を。しかも身には何も纏っていない…。
いつかの夢を思い出す。
ボナぺ島で見た夢だ。
珊瑚色の髪をした娘を彼は抱いていた。豊満ではないが、こんもりとした乳房がツンと上を向いていた。夢の中で一平はその娘をパールと言う名で呼んでいたのだ。
(やば…)
鼻の下を伸ばしている場合じゃない。一平は一人ではない。目の前には既に親友となりつつあるイルカのパドがいるのだ。下半身の変化を見られてはまずい。
「やっぱ、好きなんだ」
体裁を取り繕う前にそう言われて、余計慌てる。
「なんでそうなるんだ?」
一平の言葉に説得力はない。頬がが紅潮して図星であることを示している。
「だって、ほら…」
パドが鼻先で股間をつつく。
「うわ‼︎」
大慌てで押さえ。叫んだ。
「何するんだ‼︎」
「へへぇ〜」
パドはニヤニヤ笑うばかりで反論しない。イルカの雄の生理も人間と大して変わらないらしい。
「隠したってだめさあ。男同士だもん」
見当違いではないので否定もしかねる。
「一平はいくつ?最近成人の式をしたって言ってたけど、十四には見えないよ。十五? 1十六?それとももっと…」
一平が慌てていると言うのに、パドは平然と話題を変えてくる。
それはそれでありがたいので、一平は「十五だ」と吐き捨てた。
「まあ似合いの年回りじゃん?とてもそうは見えないけど」
そういう話か?だったら素直に言うんじゃなかったと思ったが、もう遅い。
「でも、だめだよ。まだまだ我慢しなきゃ。パールは幼魚なんだから。手を出したら、処刑もんだよ」
当たり前だ!と叫びそうになったが、処刑という言葉が引っかかって、唾を飲み込んだ。
「処刑?」
「そうか。これも知らないのか。トリトニアではね、確か、成人前の幼魚にいかがわしい行為をしたり見せたりした者には厳しい刑罰が下されるのさ」
暴行罪とか猥褻罪とかいうのに相当するのかな、と一平は思った。
「そういう節度は厳しい国なんだ」
だったらもしかして…と一平は思った。訊いてみたい。今、パドに…。
「ムラーラでは…成人式の締めくくりに最後の儀式というのがあって…。年配の女性が子どもの作り方を伝授してくれる。トリトニアにもそういう儀式があるんだろうか?」
「んー。行ったことあるわけじゃないからなあ、おいらも。でも成人の式の話はトリトニアの人に聞いたことがある。そういうのは言ってなかった気がするなあ」
肝心なのは女性の方なのだ。女性が嫁に行く時に、そういう手解きを受けるかどうかが問題なのだ。
「その…パドが会ったのは女性?それとも男性か?」
「子ども連れの男女だよ。家族で旅行中だった。子どもは女の子でパールよりちょっと大きかったかな。成人の式だって言ってたから」
だからわかるのか。パールが並より小さいということが。
「その女の子にはもう好きな人がいるみたいだった。大人になったらすぐ結婚する予定だったよ。本当はそいつと二人で旅行したかったらしいけど、親たちが猛反対したんだってさ。結婚前の若い男女が一緒に夜を過ごすなんて、とんでもないとね」
この話だけから判断すると、トリリトニアには一平の危惧しているような制度はなさそうである。
「なんでそんなこと聞くんだ?」
「……」
答えられない一平を横目に見て、パドは続けた。
「ま。大体想像つくけどな。心配なんだろ?行ったことないトリトニアで何が待っているのか」
大きな意味ではパドの言う通りである。一平はコクリと頷いた。
「大丈夫だよ。トリトニアも他のポセイドニアの国々も、もう何万年も前から脈々と続いてる。そこで人々は恙なく生活してるんだ。乗り越えられないような試練は、神様は与えないさ」
「乗り越えられないような試練…」
確かにそうかもしれない。ムラーラでも、これまでの旅の間にも、幾度となく一平は危険な目に遭ってきた。何度も死を覚悟したにもかかわらず、彼は今も元気でここにいる。これは全て神の与えたもうた試練を乗り越えてきたと言うことになりはしないか。
「トリトニアに帰りたいんだろ?」
パドにそう言われて、一平は即座に頷いた。
「じゃあ、行くしかないじゃないか」
それが一平の唯一最大の望みであった。パールと共に、という条件付きだが。
「おいらがついてってやるよ」
パドが言う。
「えっ⁈」
驚く一平の目の前で一回転をし、パドは言った。
「言っただろ。あんたたちが気に入ったって。乗せてってやるよ。少しは早くつけると思うぜ」
「バド…」
イルカは速い。海に住む生き物の中で最速だ。身体も一平たち海人を軽々と乗せて運べる大きさだ。二人は無理だとしても、ベースの遅いパールを乗せてもらうだけでも大きく違う。渡りに船だった。
「ありがたいが…パド、君には君の生活があるだろう?何もこんな旅に無理して付き合わなくても…」
「伊達や酔狂で言ってんじゃないぜ。ひとりいるかしてんのも結構飽きてきたとこなんだ。トリトニアには知り合いもいるしな。ペンタックスって国には、多分今もおいらの姉ちゃんがいる」
パドには、パドの事情や思惑があるらしい。
「ひとりで行ってみて、会いたい奴がいなかったらがっかりだもんなあ。その点連れがいれば道中退屈しないし…」
何より、一平たちと一緒にいたいのだと、その愛嬌のある目と尻尾が語っている。
「ありがとう、パド。最高の道案内だよ」
「道知ってるって、おいら言ったか?」
「何?」そりゃあないだろうと一平は絶句する。やっとのことで呟いた。「知らないのか…」
「ばか言え、知ってらあ!」
「……」
また無言になったが、今度はすぐに目が綻んだ。
「こいつっ‼︎」
親友の首を腕で抱え込むような気持ちを以て、一平はイルカの体を抱き締めた。パドの頭部に腕を回して。
パールの目覚めるのを待って、二人と二頭は出発した。
オタリアの子だけはいまだに昏睡状態なので、一平が抱えている。
目指すはトリトニア―の前に、オタリアのコロニーだった。
パドがコロニーばかりがトリトニアにまで同道してくれることになったことを聞いても、パールは取り立てて驚いた様子を見せなかった。一度は一平を庇ってパドに食ってかかっていたので、反対されたらどうしようかと危ぶんでいたが、考えすぎだった。
そもそもパールは気持ちが優しい子だ。単純なのでカッとくることもあるが、ものの一分もしないうちにそんな気持ちは吹っ飛んでしまうくらい、拘らない性格なのだ。それに、一平が良かれと思って決めたことにパールが異議を唱える事は滅多になかった。
それにしても不思議なのは、この、物事を丸ごと受け入れることのできる心の素養だ。今回、パールはこう言ったのだ。
「そんな気がした」と。
夢で、自分と一平とバドの三人が大西洋を北に向かっているのを見たのだと言う。寝ている間に二人の会話が耳に入り、無意識の中、そんな夢として現れたと考えられなくもない。
だが、パールの場合、それだけではないと思える何かがある。未来らしきものを、彼女は時々夢に見る。そしてそれはただの夢ではない。
そういうことを、一平は何度か体験済みだった。
ともあれ、三人は仲良く出発することができた。
オタリアのコロニーは思ったよりもずっと近く、また、素晴らしい景観の場所にあった。
話には聞いていたが、小山ほどある高さの絶壁が何百キロにも亘って続いているのだ。しかもほとんどが直線である。崖には植物がなく、生き物の姿も見られない。鳥だけはいるようだが。
その崖下に、細長く砂浜が伸びている。黒々と聳える崖と紺碧の海とに挟まれた砂浜は、打ち寄せる波飛沫でレースのように縁取られている。
白い砂浜の上に点々と見える黒点が次第に大きさを増し、オタリアの集団であることがわかってきた。コロニーがだいぶ近くなってくると、オタリアの子が目を覚ました。自分のコロニーの匂いを感じ取ったのか、睡眠が足りたのかはわからないが。
「…誰?…」
オタリアの子は言った。
「ボクは一平。海人だよ」
腕の中の子どもに精一杯優しく笑いかけ、彼は言った。
「ぼく…どうしたの?」
「安心おし。もう君をいじめていたシャチはいない。傷もパールの力で癒えてる。今、君の家族の所へ向かっているところだ」
これで適切だっただろうかと首を捻りながら、一平は答えた。
「一平ちゃんが助けてくれたんだよ。パドと一緒にシャチをやっつけたの」
パールが気づいて、横から身を乗り出した。パールは既にパドの背に乗せてもらってご満悦だ。
「……」
パドも加わる。
「おいら一人じゃこうはいかなかったよ。一平の剣とパールの癒しの力がなきゃ、あんたはとっくにお陀仏だったんだぜ」
「……」
浅瀬のプールで仲間と泳ぎを練習している時にシャチに襲いかかられたことを、イタリアの子はやっと思い出した。
おそらくその後の記憶はないのだろう。一度ブルッと身震いをしたが、あまり状況をよくわかった目つきではなかった。
それはそれでよいではないかと一平は思う。恐ろしかったことを逐一覚えていては、この先生きて行くのが辛かろう。
「君の家はどこだい?向こうにハーレムが見えるけど、たくさんありすぎるし、広いし、教えてくれないか?」
一平に言われて、オタリアの子は身を乗り出し、鼻をヒクヒクさせた。
この年齢では、まだ外洋には出た事はないはずだが、自分のテリトリーの海の匂いは嗅ぎ分けられる。
「あっち…だと思う…」
オタリアの子の指した方角に一行は針路を変えた。
果たして、オタリアの直感は正しかった。
「マーマー」
波打ち際で鳴き声を上げる息子の声を、母親はすぐさま聞きつけた。
奇妙な取り合わせの一行がやってきたので、オタリアの群れは浜辺から後退して遠巻きにしている。そのがら空きになった所に、一頭のオタリアの雌が進み出てきた。
「ママ‼︎」
今にもぴょんと飛び降りそうなので、一平は屈んでオタリアの子を下ろしてやった。
大人のオタリアは雌でも結構大きい。水の中ではないのでドスドスとやってくる。わが子かわいさに、まっしぐらに一平たちに向かって突進してくる。
子どもに危害が加えられると思うのだろうか。その勢いの余りの凄まじさに、思わず一平は後退りした。パールは浜辺に乗り出しているが、パドは身動きできなくなるため、水深のある場所に止まっていた。
「カックン‼︎」
子どもの名らしきものを呼ばわり、母親はオタリアの子を咥えて一目散に引き返そうとする。子どもは目を丸くし、だが、おとなしく母親の口にぶら下がっていた。
別に礼を言って欲しかったわけではない。だが、あっという間に手元から持ち去られたオタリアの子のぬくもりが、なんだか懐かしく、寂しかった。
一般的に、野生動物の母親はあんなものなのだろうと、冷静に見ることができる自分もいる。
その様子をぼけっと見ていたパールが慌てて声をかけた。
「ママのおっぱい、いっぱい飲むんだよー‼︎」
そう、それが目的だったのだ。最終的には。あの子の身をシャチから取り返して親の元に返すことが。
親の元に返してやりたいのはもうひとりいる。
傍らにいるパールだ。
だが、海人なら少しは情緒も礼儀もあるだろう。まず第一に、バールが足で砂をかけるようにして去っていく事はあり得ない。
その時が来たら自分はどう思うのだろうと、一平はふと思った。




