第1章 アンデスの山なみ
トリトニアの伝説 第四部 アトランティック協奏曲 の連載を開始します。
これまでのあらすじ
故郷のトリトニアを目指して旅をする一平とパールは海人だ。
日本を出て広大な太平洋を横断、南下し、二人は様々な困難にぶつかりながらも力を合わせ、大西洋を目指していた。
偶然立ち寄ることになったムラーラという海人の国では、一平は大剣の扱いを、パールは医術の基礎を身につけることになり、旅の大きな支えを得た。
二年以上もの時を共に過ごし、二人は互いを誰よりも、何よりも大切な存在だと自覚するに至っている。
日本を出る時十三になったばかりだった一平は十五歳になり、パールは海人の女子の成人と言われる十三歳まであと一年を切るまでに成長していた。
詳しくは、第一部 洞窟の子守歌
第二部 放浪人の行進曲
第三部 ムラーラの恋歌
をご覧ください。
世界最高峰のひとつ、アンデス山脈を国土の大部分に従えるチリは南北に非常に細長い国だ。北はペルーに国境を接し、嵐が吹き荒れ氷に閉ざされた南米大陸南端のホーン岬まで約4265キロの距離がある。
国土の幅が427キロ以上に達する場所はなく、最も狭い場所ではわずか90キロの幅しかない。
巨大な蛇のように伸びた沿岸部は、荒涼とした吹き曝しのフィヨルドであり、南部の寒い森林地帯の奥にまで深く切り込んでいる。北部には地球上で最も乾燥の進んだ場所のひとつであるアタカマ砂漠の荒地が横たわっていた。
プエルモントから遠く南のホーン岬までは、アルチペラゴの名で知られる吹き曝しでほとんど人の住まない地域が1600キロに亘って伸びている。内陸部では巨大な氷河が海に向かって動き、海中に傾いて大きな氷山を作り出していた。
ムラーラを出てニヶ月が経っていた。
一平もそうだが、パールにとっても見たこともないほど高く聳え立つ地上の山々が、間近に迫っていた。一平にしては珍しく陸の近くにまで寄って来ている。人の住まない地であると言う事と、やはりせっかく近くまで来たのだ、世界に名立たるアンデス山脈を見ておこうという好奇心とが、彼を思い切った行動に駆り立てていた。
人が住んでいないとは言え、人間には物好きも多く、秘境探検や冒険旅行を企画する輩は後を絶たない。その多くは純粋に研究のため、夢のため、過去の遺産を守るため、という理由によるものだが、中には金や名誉のため、テレビ番組で視聴率を稼ぐため、などという者もいる。
いずれにしろ、一平たちにとっては警戒心を怠ってはならぬ危険な人種であることに変わりはない。
もちろん一平はそれを熟知した上で、充分注意をしながら進んでいる。旅の当初に比べ、連れのパールのペースも把握でき、ふたりとも技と体力を増してきているので、旅程の捗も進むようになっていた。
先を目指し、急いではいても、ムラーラを出てきたのはつい昨日のことのように思い出せる。
神獣の問題に片がついた翌朝、深い眠りから目覚めたパールを待っていたのは一平の優しい眼差しだった。
一平は見慣れない服を着ていた。
今までのものに比べ、袖や裾は長めだった。生地も心持ち厚い。
「一平ちゃん、その服…」
寝ぼけまなこをぱちくりさせ、パールは口を開いた。
「ムラーラを発つと言ったらミラが新調してくれた」
日本から着てきた父親の服は、ムラーラに着いた時点でかなり見苦しいまでに傷んでいたので、見かねたミラが新調してくれたが、この後極寒の地を経由するということを考慮に入れ、更に新しく適切なものを調達してくれたのだ。
ミラへの感謝と、己の望みがパールにどう映るかという不安とがないまぜとなって、一平の口調を真剣味のこもった切ないものにしている。
ムラーラを発つ、と聞いてパールは目を瞠く。その時は近いという事はパールにも少し前からわかっていた。
一平が尋ねる。
「おまえも…行くよな⁈」
パールが手を伸ばす。抱っこしてくれと言わんばかりに。
その腕を引き寄せてしまいたくなるのを躊躇している一平の戸惑いなどものともせず、パールは一平に飛びついてくる。首っ玉に両手を回し、固くしがみつく。
「置いて行っちゃやだって…パール言ったよ⁈」
一平の心に何か温かいものが染み渡る。彼は左の手でパールの背を支え、右の手をパールの髪にやった。するすると気持ちのいい珊瑚色の束が纏わりつく。
パールの髪はパールそのものだ。一平の存在を察知すると、子犬が主人の帰りを出迎えるようにはしゃいで纏わりつくのだ。千切れるほどに尻尾を振って、嬉しそうにピンクの舌を出しながら…。
一平はぐしゃぐしゃと乱暴とも言える勢いでパールの頭を撫で、目を細めて答えた。
「ああ…そうだった…」
「そうだよお…」
「屈託のない無邪気な応えがくすぐったい。
「挨拶回りに行こう。まずはミラのところからだ」
「うん!」
この地への未練など、欠片も感じていないかのように、パールは頷いた。
恩ある人々に別れを告げ、オリハルコンの剣をムムールに返して、ふたりは旅立った。ミラの教えてくれた武術とメーヴェの医術は、再びふたりきりになった一平とパールに多くの利をもたらしてくれた。
ふたりを餌にと狙ってくる獰猛な海獣どもを追い払うのも楽になったし、パールの歌のおかげで回復も早い。当然旅のペースは上がり、思っていたよりずっと早く南米大陸に辿り着くことができていた。
パールは雄大な山並みを見上げて口を開ける。
一平と会うまで、パールはずっと海底で暮らしてきた。突然日本に飛ばされて、初めて海上に出たのだとき言う。当然、陸地も見たことがなかったのに違いない。パールを誘った洞窟でさえ未知のものであり、見るもの全てが新しくて異質なものだったはずだ。洞窟のある岬は、海抜十メートルほどだったが、それだけでも人魚のパールの目には、大きく聳え立っていたことだろう。
今目の前にあるのはそれとは比べ物にならない。六千メートル級の山々が延々と連なっている。今見ているよりも実際はもっと高いのだという事は、理屈ではわかるが実感しにくい。だがそれでも、アンデスの眺めは時を忘れさせるほどに雄大で美しく、異郷へ来たという思いを強く感じさせる。
「大きいお山だねえ…」
驚嘆のまなざしでパールは言った。
「ああ…」
ふたりと陸地までの間はまだ何キロもの海水で隔てられている。
それでも、もっとそばへ近づけば、陸地は際限なく大きく広がってゆくという事は、もうパールにも理解できているのだ。
「アンデス山脈、って言うんだ。あの山の上の方にも、昔から人が住んでいるらしいよ。インカ帝国って言う古代文明があったんだってさ」
世界で一番高い場所にある湖チチカカ湖も、あの山のどこかにあるはずだ。トリトニアももちろんだが、見知らぬ文明の名残りは悠久の時を感じさせ、途方もなく神秘的だ。
翼がそういうものに興味がある方だったので、よく講釈を聞かされたり同じ番組を見たりしたものだ。とは言え、詳しい知識まではない。
「パールには行けないね。身体が乾いちゃうもんね」
自分も行ってみたいと思ったのだろうか?一平は思わずパールを見た。
「どんな所かなぁ。地上の人のおうちって…」
パールには洞窟の中で図鑑とにらめっこする時間がたっぷりとあった。写真や絵による知識はあったが、洞窟から一キロと離れていない一平の家にさえもパールを誘うことはできなかったので、わからないのも無理はない。
「トリトニアは…どんな?」一平は逆に訊いてみる。「やっぱり、屋根のある建物があるのか?ムラーラみたいに」
「うん…」バールはしばし考え、目を上げて答えた。「でも、トリトニアの家の方がもう少し暖かい感じがする」
「暖かい?」
「うん。なんて言えばいいのかなぁ…。ムラーラの建物って、壁がツルツルだったでしょ⁈隙間もあんまりなくて、触るとひやっとして、あそこでは気持ちいいんだけど…」
確かにその通りだった。形は違うが、都会のオフィスビルをそのまま海の中に持ってきたかのような、洗練された機能美とも言うべきものがムラーラの建築物には感じられた。その技術もさることながら、熱帯の気候に位置するムラーラにはよく適した造りなのだと思えた。
一平たちが提供された寝台も、角張っていて硬かった。もちろん、布団などと言うものはない。それでも寝心地は悪くなかった。熱帯夜に畳や床の上で何もかけずに寝ると涼しくて気持ちがよいのと似ていた。
「石造りじゃないの?」
「ううん。大体は石だけど、珊瑚も使うの。石でもあんなには磨いてないの。ツルツルにするには、時間もかかるし、高くつくから」
「ふーん…」
珊瑚、と聞いて、一平はいつか立ち寄ったナン・マタール遺跡のことを思い出した。不思議な体験をすることになったあの島に足を踏み入れたのは、元はと言えばパールの言った一言が原因だった。
―ああいうのあるの。トリトニアに―
今にして思えば、建築の方法が似ていたのだろう。あの島の古い建物は、石柱を横に組み、間に珊瑚片などを詰め込んで積み上げてあった。造りは素朴だったが、角が鋭利でない分温かみがあった。パールはそういうことを言いたいのだろう。
「一平ちゃんのおうちは?」
今度はパールが訊いてきた。ずいぶんと長いこと一緒にいるのに、こういう話をするのは初めてだ。
「ボクんちは木造さ。翼んちもね。うちは平屋だったけど、翼のとこはニ階建てで、窓枠もサッシが入ってて少し新しかった。うちは本当に昔ながらの漁師の家って感じだったな。…要するに、ボロ屋さ」
「モクゾウ?ヒラヤって何?」
いけない。つい、パールのわからない言葉をたくさん使ってしまった。
「木造ってのは、木でできてるってこと。木って、わかるか?」
「洞窟の上の方に生えてた緑の?」
「そう。地上では木の幹の太いやつを薄く切ったもので家を作る。最近は少なくなったらしいけどね。窓には穴だけじゃなくて、ガラスっていう透き通った板を嵌めて雨や風を防ぐ。素通しだから外は見えるし、光も入って明るいんだ。出入り口にも扉がある。家の中に入る時は靴を脱ぐんだよ」
「あ!…」
パールは閃いたような声を上げた。一平は説明するのをやめて、面白そうにパールを見た。
「学ちゃんたちが足につけてたやつ?」
トリトニアにはない、靴を履くという習慣のあるなしで、パールは海人と地上人と区別していた。海からやってくる一平だけが、いつも靴を履いていなかったからだ。
一平は頷く。
「日本ならでは、だけどね。アメリカやヨーロッパではいちいち脱がないし、後進国にはそもそも履き物というものがなかったりもするから」
「コウシンコク?」
また、?だ。
「それは覚えなくてもいいよ。ボクらには関係ない。…それで…大抵は畳の部屋の他にお風呂やトイレや台所なんかがある。…お風呂やトイレは、わかるよな?」
海の中にはないものだが、パールについて言えば、図鑑で見たことがあるのを、一平は知っていた。
「台所っていうのは料理をする所。食べ物を切ったり煮たり焼いたりする」
「パール、お料理できないの」
「え?」唐突に言われて、一平は目を丸くする。「まだ、教わってないだけだろう?」
パールはまだ年が行かないのだ。日本でだって、パールの年で料理を嗜む子どもなんて珍しい。卑下する事ではないと思って、一平は言った。
パールは首を振る。
トリトニアではごく幼いうちから獲物を獲ることを教え込まれるとパールは言う。いついかなることがあっても、最低限生きていかれるように。それは納得できる。事実、出会った当初から、パールは自分の食料を調達する術を身に付けていた。
料理をすると言うのはその次の段階であるらしい。自分で捕らえたものを―小さければ丸のままでもよいが、大きいものは食べやすいように、また、もてなしに適したように―切り分けたり、盛り付けたりすることがだんだん必要になるため、それも教え込まれるらしい。女子の成人が十三歳ですぐにも結婚できると言う習わしであれば、それまでに花嫁修行と言う意味合いでも身に付けておくべき事柄なのだ。
パールは病弱ゆえ、修練所と呼ばれるトリトニアの学校に通えず、家庭教師をつけられていたと言うが、ではその家庭教師には教えてもらわなかったのだろうか?あるいはそういう事は、母親が家の中で教えることではないのか?
一平の疑問は、パールの呟いた一言で明らかにされる。
「だってパール、刃が怖いんだもん」
その事は心得ていたはずだった。ムラーラでは発作を起こして昏睡状態に陥ったほどなのだ。
「……」
「…どうしてなのかなあ…」
しょんぼりと、パールは俯く。これもパールにとってはコンプレックスのひとつなのだ。
「お料理もできないとお嫁さんになれないよね」
(そんなになりたいのか?お嫁さんに?)
いや。パールのなりたいのはどちらかというとお母さんだ。早く大人になっていっぱい赤ちゃんを生みたいと、パールは言っていた。『パールの一番好きな人』のお嫁さんになった夢だって見ていた。
それが誰なのかは知らないが、パールの中にそういう想定ができる奴がいることは確かなようだった。二人きりで旅している間はそのことは忘れていたが、思い出すとやはり不愉快だ。
何十歩も下がって欲目でなく見ても、今のパールの世界には男は一平ひとりしか存在していないように見える。一平の希望的観測でしかないが、『パールの一番好きな人』とは一平である可能性が大きいのだ。少なくとも、パールは一平のことを嫌いではない。置いて行かれては嫌だと思うくらいには好意を持ってくれているはずだ。
だが、それが自分かどうかを尋ねることはどうしてもできなかった。イエスと言われてもノーと言われても、今現在の二人の関係のいいバランスを崩すことになってしまうからだ。
それに第一に、そんな勇気なんかありはしない。
これまで一度だって女の子に交際を申し込んだことなんかなかったのだから、どう言ったらいいのかもわからなかった。
ただ好きだ、と言えばいいのか?
それでは直截すぎて、色も綾もないのではないか。
外国映画のように、愛してると言って抱き締めればいいのか?
そんなのは顔から火が出るくらい恥ずかしい。
いきなりお嫁さんになってくれと言うのも手順を飛ばしすぎている気がするし、赤ちゃんを授けてあげるなどとはおこがましくもいやらしくて口にできたものではない。
結局、今までと何ひとつ変わりない態度をとらざるを得ない一平だった。
でも、これだけは言ってやる。
パールが気落ちしているので。
「近頃の日本では、料理の苦手な奥さんも増えてるって聞くよ。料理の達人には男の方が多いくらいだし。料理の上手な人のお嫁さんになればいいじゃないか」
―例えばボクみたいな―
付け足したい言葉を一平は飲み込んだ。
パールが一平を見上げて訊いてくる。
「一平ちゃんみたいに?」
パールから見れば一平は何でもできる人だ。料理だって然り。大好物の蛸を獲るのも捌くのも、いつだって一平の役割なのだから。
一平は返答に詰まってゴクリと唾を飲み込んだ。
一呼吸おいて曖昧に答える。
「…まあな…」
それを聞くとパールは微笑んだ。安堵の笑みだ。
パールが誰のことを一番好きなのか、この時点でわかりそうなものなのに、わかってほしい人が一番わかっていなかった。
「ママはお料理上手なの」
「うん⁈」
思い出したようにパールが呟く。
「パールはお料理刀が怖いから…どうしても、教わった通りにできなかったの」
それはさっき聞いた。だがパールは思い詰めたような顔をして語り続ける。
「でもそれじゃお嫁さんになれないの。旦那様のお客様のおもてなしもできないもん」
そういうことか。パールが拘っているのは。
一平は言ってやる。
「大丈夫さ。きっとそのうち、使えるようになる。もしどうしてもだめだったら、その時はボクがもらってやるよ。そうすれば、別に困らないだろう?」
「ほんと?」
パールが一際目を輝かせた。
こんなことを言うつもりではなかったが、気落ちして自信をなくしているパールを力づけるために、つい口から出てしまった。本心が半分だけ顔を覗かせている。
思った以上の効果に一平は少しだけ身を引いた。本気にとってもらっても困るが、しょげているパールの顔は見たくない。彼は応える。
「ああ。でも、ちゃんと努力しなきゃだめだぞ。最初からボクを当てにするな」
「うん!」
もちろんだ、とパールは身体全体で頷いた。
「パール、頑張る。ママにおいしいもの教わって、いっぱい食べさせてあげるね」
「ああ。当てにしないで待ってるよ」
このまま料理など覚えず自分のものになってくれればいいのにと思う自分が確かにいる。それをごまかすために一平は軽口を叩いていた。
「一平ちゃん、パールが絶対できないって思ってない⁈」
「思ってない思ってない…」
慌てて手と首を振るが、パールは疑わしそうなまなざしを向けている。
「待ってるよ。死ぬまでに一度くらいはおまえの料理を食べないとな」
「もう!やっぱり思ってるっ‼︎」
少し本気で、パールは怒り出した。
面倒臭い。
一平はパールを抱き寄せる。自分の胸に持たせ掛け、静かに言った。
「どんなにまずくっても、食ってやる。おまえの作ったもんなら。だから精進しろ。お嫁さんになりたいんだろう?」
穏やかな鼓動と共に響いてくる一平の低い声が、パールの心を鎮めてゆく。
(なりたいよ。パールは…。一平ちゃんの、お嫁さんに…)
思う言葉は口には出せない。
一平の言うのは一般的な意味だ。パールがいつも言うから…。
赤ちゃんをいっぱい生みたいと。それはお嫁さんにならないとできないことだから、一平はそう言ったのだ。
パールはそう思っていた。
そのままぎゅっと抱き締めてしまいたいと当の一平が思っていることなど、全く想像もつかなかった。
「うん、いつか…。いつかきっと…食べてね。パールのお料理…」
口に出せるおねだりはそこまでだった。




