『王子に溺愛されて婚約までしてたのに、伯爵令嬢にそそのかされてまさかの婚約破棄&国外追放された私が、悪魔に憑かれてゲロまみれになった王子をキスで救ったら、再び婚約を申し込まれて幸せになりました』
大理石の床に陽光が反射し、シャンデリアの水晶がきらきらと輝く。城の玉座の間は、いつだって豪奢で絢爛。だけどこの日ばかりは、私は場違いな違和感を覚えていた。
「エリス・フォン・クラウディア」
高らかに呼ばれた私の名。婚約者である王子直々の呼び出しに、胸を高鳴らせていたのはつい数分前のこと。今日こそは新しい宝石でも贈られるのではないかと、ドレスの色まで迷ってきたのに。
けれど王子の口から告げられたのは――。
「君との婚約は、解消する」
その瞬間、時間がぴたりと止まったように感じた。
「……はい?」
自分でも間抜けなくらい素っ頓狂な声が出た。
解消? 婚約を? ……なにそれ、朝のパンケーキを焦がした程度のノリで言う言葉?
「すまない」
王子は気まずそうに視線を逸らした。
「俺は彼女を選んだ」
私の正面に立っていたのは、艶やかなドレスに身を包んだ伯爵令嬢。
彼女は勝ち誇った笑みを浮かべ、わざとらしく王子の腕に絡みついた。
「殿下、やっと皆の前で認めてくださるのですね。わたくしが運命の人だと」
……ああ、理解した。なるほど。今まさに私は、目の前で婚約者を寝取られるヒロイン役を演じさせられているわけだ。
心臓が痛い。けれど涙は出ない。代わりに心の中で、全力で突っ込みを入れていた。
(いやいやいやいや、昨日の夜まで『君がいないと眠れない』って言ってたの誰よ! 記憶力どうなってんの、この金髪脳筋王子!)
「ちょ、ちょっと待って殿下!」
思わず声を上げると、王子は眉をひそめた。
「君は子爵家の娘だ。彼女は伯爵家。立場が違う。理解してくれ」
「立場!? 昨日まで『そんなもの関係ない、愛があればいい』って言ってましたよね!? 愛の定義、軽すぎませんか!?」
私の抗議はむなしく響き渡り、周囲の廷臣たちは目を逸らすばかり。誰も助けてはくれなかった。
そしてさらに追い打ちをかける言葉が降ってきた。
「君とその家族には……国外追放を命ずる」
……はい、出ました。処刑宣告ばりの追放命令。しかも家族ごと。お得感ゼロの特別セット。
母は青ざめて震え、父は愕然と膝をついた。
私はぎゅっと拳を握り、かろうじて笑顔を保った。「……なるほど。愛は儚く、そして処分は迅速、ということですね」
――こうして私は、愛を誓った相手から追放の烙印を押され、家族とともに辺境へ向かうこととなった。
◇ ◇ ◇
数週間後。
荒れ果てた辺境の土地。雑草だらけの庭先に腰を下ろし、私はため息をついた。
「……これからの私の仕事は、草むしりくらいかしら」
抜いても抜いても生えてくる雑草を眺めながら、つい独り言をこぼす。
弟が心配そうに声をかけてきた。
「姉さん、元気出してよ。きっといいことあるって」
「いいこと? この辺境で? ……あるとすれば、雑草が健康的に伸びることくらいね」
冗談めかして言った私に、弟は苦笑する。
そう、私は絶望しているわけじゃない。むしろツッコミのネタが増えた分、人生ちょっとだけ楽しいのかもしれない。
――とはいえ、この後あんな形でまた王子に関わることになるなんて、もちろんこの時は知る由もなかったのだ。
がらがらと軋む音を立てながら、馬車は王都を遠ざかっていった。
窓の外に見える城壁が小さくなっていくのを、私は半ば呆然と眺めていた。つい昨日まで「私の家」と信じて疑わなかった煌びやかな宮殿。もう、二度と戻れないのかと思うと――いや、正直そこまで未練はなかった。だってあの場で婚約破棄に追放まで重ねてくる王子ですよ? 逆に清々しい。
「はぁ……」
深いため息をついた瞬間、正面に座る母が涙ぐんだ声で言った。
「どうしてこんなことに……! エリスは殿下にあれほど尽くしてきたのに」
父は腕を組み、顔を真っ赤にして怒りをこらえている。
「国の未来を担う者が、伯爵令嬢の尻に敷かれてどうするんだ……!」
隣に座る弟は、私を気遣うように小声でささやいた。
「姉さん、大丈夫?」
私は肩をすくめて笑ってみせた。
「大丈夫よ。むしろ『愛してる』って毎日言われながら、裏で別の令嬢にプロポーズしてた王子のほうがメンタルどうかしてるでしょ。ねえ、二股するならせめて記憶力を強化する魔道具でも身につけるべきよ」
弟は「ぷっ」と吹き出した。
父は思わず苦笑をもらし、「お前という娘は……」と頭を抱えた。
母はハンカチで目を押さえながらも、かすかに口元が緩んでいた。
「はあ、これから私の仕事は草むしりと石拾いと……あと、隣の村で噂話のネタを提供することくらいかしらね。
「姉さん、ネタ提供って仕事じゃないから!」と弟がツッコミを入れる。
「いいじゃない。辺境の娯楽は大事なのよ。……そのうち元婚約者が愚痴るラジオでも始めてやろうかしら」
野良仕事場に一瞬、沈黙。そして次の瞬間――。
母も父も、弟も、同時に吹き出した。
辺境の暮らしにも少しずつ慣れてきたある日、私は草むしりの最中に、とんでもない噂を耳にした。
「おい、聞いたか? 王子殿下が……悪魔に憑かれたらしいぞ」
村の男たちが井戸端でひそひそと話している。私は思わず草の束を落とした。
「……はい? 悪魔? 王子に? あの、嘘丸出しみたいに甘い台詞を毎日吐いてた人が?」
耳をそばだてると、続きが聞こえてくる。
「殿下は暴れて手がつけられん。エクソシストも祈祷師も全員失敗したらしい」
「縛りつけてベッドに寝かせてるが、近づく者を容赦なく噛みつくらしいぞ」
「しかも、口から緑のゲロを吐くんだと! ひぃ……」
緑のゲロ。……いや待て。王子、悪魔に憑かれる前から似たような言葉を私に浴びせてたじゃないの。
君がいないと僕は息ができないとか、君が笑うたび世界が輝くとか。あれも十分、精神的ゲロよ。
私は額を押さえてため息をついた。
「……よりによって物理的ゲロに進化したのね」
◇ ◇ ◇
数日後。
辺境の我が家に、急ぎの使者がやってきた。王都の紋章を掲げたその姿に、父が狼狽する。
「な、何事だ?」
使者は深々と頭を下げ、厳しい表情で告げた。
「王子殿下を救えるのは、ただ二人……。今の妃殿下か、あるいは殿下のかつての恋人――エリス様、あなただけなのです」
私の名を呼ばれ、場の空気が一瞬止まった。
母は目を丸くし、弟はぽかんと口を開け、父は「馬鹿な……」と声を失った。
私は椅子の背もたれに寄りかかり、乾いた笑いをもらす。
「いやいやいやいや。私、つい最近、婚約破棄&国外追放をコンプリートしたばっかりなんですけど? それなのに悪魔祓い口づけ係に再就職? 時給いくらかしら」
使者は真剣そのもの。
「王子殿下は今もベッドに縛り付けられ、凶暴化しております。妃殿下は恐怖のあまり近づこうとされません。殿下の命が危ういのです。どうか――」
そこで父が机を叩いた。
「断る! 娘を何だと思っている!」
母も涙ぐんで私の手を握る。
「そうよ、エリス。今さらあの方のために命を張る必要なんて……」
弟も強くうなずく。
「姉さん、無理しなくていいよ。だって、王子は姉さんを追放したんだ!」
みんなの言葉に胸が熱くなる。けれど――。
(……なんでだろう。頭では「ざまあみろ」って思うのに、心臓がざわざわしてる)
あんな別れ方をして、私は王子を恨んでいるはず。なのに、あの人が苦しんでいると聞くと……。
私はそっと家族の手を振りほどき、にっこり笑った。
「大丈夫よ。私が王子を救えるなら……一度くらいゲロまみれになる覚悟はあるわ」
「姉さん!!」
弟が慌てて叫ぶ。父と母も必死に止めようとするが、私は立ち上がった。
「私ね、辺境で草むしりばっかりしてて気づいたの。……どうせ草に人生を捧げるなら、たまには王子のゲロくらい受け止めてやってもいいかもしれないって」
そう言って肩をすくめると、家族は呆気に取られて沈黙した。
やがて父が深いため息をつき、ぼそりと漏らした。
「……まったく、どこまで行ってもお前は王子の女だな」
私は照れくさく笑いながらも、心の奥では不思議な高鳴りを感じていた。
――そう、これが転機。追放されたはずの私が、再び王子のもとへ向かうことになるなんて。
王宮の奥、重く閉ざされた扉の向こうから、低い唸り声と金属のきしむ音が響いていた。
「う、うぉぉおおお……!!」
まるで獣の遠吠え。けれど獣ではない。――悪魔に憑かれた王子だ。
「こちらです、エリス様」
兵士に案内され、私はその扉の前に立った。
緊張で喉が渇く。
だって、今からしようとしているのは王子にキス。しかも相手は悪魔憑きで、縛られていて、ついでにゲロを吐く危険人物。
(ねえこれ、恋愛小説なら胸キュン展開だけど、現実はホラーなんですけど!?)
扉が開かれると、部屋の中は異様な光景だった。
王子はベッドに両手両足を鎖で縛られ、目は血走り、口元からは緑色の液体が――おっと、もうちょっとで床にシミが追加されるところだった。
「うぅぅ……このクソアマ、エリス……近づくなぁ……!!」
王子は苦しげに呻きながらも、私を見ると暴れ出す。
鎖がぎしぎしと軋み、兵士たちが慌てて押さえ込んだ。
「ちょっ、暴れすぎ! ベッド壊したら家具職人泣くでしょ!」
思わずツッコミが口をつく。
すると王子が、ぎょろりとこちらを見て叫んだ。
「来るな……俺に触れると……ゲロを浴びるぞぉぉ!!」
「自分で脅してるの初めて見たわ。そんなセルフ報告いらないから!」
兵士たちが半笑いで吹き出すのが見えた。
深呼吸をして、一歩、また一歩と近づく。
(……大丈夫、大丈夫。私は元婚約者。愛されてた……はず。いや今は悪魔付きゲロ製造機? ……だめだ思考がポジティブにまとまらない!)
王子が突然、「げほっ」と声を上げた。
ブシュッ、と嫌な音。
「うわっ! 危ない!!」
私はとっさに身をひねり、紙一重で直撃を回避。床には緑色のシミが飛び散る。
「ちょっと! 吐くなら吐くって先に言って! マナーでしょ!!」
「ぐぅ……エリス、近づくなと言ったのに……」
「いやいや! 近づかないとキスできないでしょうが!」
兵士たちが顔を真っ赤にしながら目を逸らす。
「お、お二人でごゆっくり……」と退室しようとするのを、私は慌てて止めた。
「ちょっと待って! 一人にしないで! 私がゲロまみれになったら、証人がいなきゃただの変人よ!」
結局、半泣き顔の兵士二人が残ることになった。
私は心を決め、王子の顔を両手でつかんだ。
「いい? 私がキスしたら絶対に吐かないでよ」
「……保証できない」
「できないんかい!」
だが、迷っている時間はなかった。
私は目を閉じ、王子の唇にそっと――。
ちゅ。
次の瞬間、王子の体がびくんと震え、部屋の空気がぱっと澄んだ。
緑色のどろりとした気配がふっと消え、血走っていた瞳が穏やかな青に戻っていく。
「……エリス……?」
王子が震える声で私の名を呼んだ。
私は腕を組み、ぷいっとそっぽを向く。
「ふん。追放したくせに、また助けてもらっちゃって。王子って、案外コスパ悪いのね」
王子はしばらく呆然と私を見つめていたが、やがて涙ぐみながら鎖の中で必死に頭を下げた。
「すまなかった! 俺が愚かだった! どうか……もう一度、俺の婚約者に戻ってくれ!」
兵士たちは顔を見合わせ、感動の涙をこらえている。
私はため息をつき、彼の額を指で軽く小突いた。
「いいわよ。ただし……次にまた緑色のゲロ吐いたら、今度こそ縁切るからね」
その瞬間、王子は本気で安堵の笑みを浮かべた。
あれから少し時が経った。
王子は涙ながらに「もう一度婚約してくれ!」と頭を下げてきたけれど、私は丁寧に微笑んで答えた。
「ごめんなさい。……もう、あなたへの愛情はすっかり消えちゃったの」
王子は驚愕し、信じられないという顔をしたけれど、私は胸の奥がひどくすっきりしていた。
だってあれだけ薄情な妃を選んだのだから、最後までその人と一緒にいてほしいじゃない? むしろお似合い。私はそう思ったのだ。
◇ ◇ ◇
一方の我が家はというと――。
辺境での生活は、思った以上に悪くなかった。
父は「農作業も意外と悪くないな!」とすっかり日焼けして筋肉がつき、母は「採れた野菜でお料理できるの楽しいわ」と上機嫌。弟に至っては「毎日土いじり最高!」と目を輝かせていた。
結局、我が家は名誉だけ王から正式に戻してもらい、領地や身分はそのまま。つまり辺境での農家ライフが継続することになった。
――結果的に、追放が最高のご褒美になったわけだ。
◇ ◇ ◇
そんなある日、再び王都からとんでもない噂が飛び込んできた。
「聞いたか!? 今度は王妃殿下に悪魔が取り憑いたらしい!」
思わず私は大根を落とした。
村人たちの話によれば、例の伯爵令嬢――今や王妃様は、夜な夜な奇声をあげ、口から緑色のゲロを連射しているらしい。
しかもシャーマンの診断によれば――。
「祓う方法はただひとつ。王子殿下の“ディープキス”のみ」
……ディープ。そう、ただの口づけじゃなくて。
私は畑の隅で手を口元に当て、不敵に笑った。
「ふふっ……今度の悪魔はゲロ“連射”タイプ、ね。さてさて王子様。あなたにできるかしら? あの薄情な妃に、ゲロまみれディープキス……」
空は青く晴れ渡り、畑には笑い声が響く。
私はすっかり農作業姿の令嬢に戻っていたけれど、胸の奥は妙な愉快さでいっぱいだった。
――王子の次の試練が、ちょっぴり楽しみでならないのだから。




