#9 二色
彼女は真っ直ぐな目をしていた。
何を隠すこともできない、あどけなさに惹かれた。
自分を護ることだけを考える、僕とはまるで違う。
きっと彼女は、僕から離れるだろう。
僕の心臓の温度に、気付いたら。
*
夕立を図書館の窓越しに見つめる槇の前には、ちょうど半分辺りで開かれた分厚い全集の一冊。もうかれこれ一時間ほどはその状態にあった。
〝凄い風だったね、今の〟
強い木枯らしが吹いたあの瞬間、槇は愛しい恋人が自分から離れていくような妙な予兆を感じた。彼女が何を目にしたかは知らない。自分の背後に何があったのか、それを知るより先、舞い上がった資料の吹雪に目が行ってしまったから。
恋人の心を繋ぎ止めるような魅力は、自分の中にはないと、初めから分かっている。全ての恋は、槇にとっては総てでも、相手にとっては仮初めでしかない。日々を過ごすうち、色褪せていく。
槇には、持つべき欲がない。執着がない。何もかもがいつか終わると確かに知っていたし、ならば最初からそれを織り込み済みで向き合うのが一番だと思っていた――いや、全てはあの日、燦然と耀くあの人と出逢って、自分が夢物語の主人公ではないのだと悟った瞬間から、身の丈に合った生き方をするべきなのだと悟ってしまったことに始まる。
「ぼーっとしてどうしたんですか、先輩」
声をかけてきたのは、同じサークルの御嶽だった。すらりと伸びた長い脚は、身長のせいもあってか世間一般以上に華奢すぎると思わせる。腰元まで伸びたポニーテールはどう見ても一般的ではないが、物腰は柔らかいし、美意識と性情とは一致しないのだと思わされる。
「傘、持ってきてないなあって」
「それなら私、折り畳み傘も持ってるので、お貸ししましょうか?」
そう言いながら、御嶽は槇の右隣に腰を下ろした。一人で物思いに耽りたかったのに、と少し忌々しく思う。整った顔をしているが、別に御嶽は槇の好みではない。知り合ってすぐの頃から親しみ深く接してくれるが、碧緒と違って惹かれる部分は何一切ないせいで、一緒にいるのがすぐに億劫になってしまう。
「良いよ、どうせ止むまでここにいるから」
「そうですか」
天気がどう推移するかは知らない。ただ、家に帰ったとて、味気ない部屋の内装を目にして、より気持ちが沈むだけなのは分かりきっていた。
御嶽に聞こえない程度に長く息を吐くと、碧緒のことは一度忘れることにした。どれほど愛したところで、いつか人は離れていく。それがいつになるかという違いがあるだけなのだから、と言い聞かせた。
「聞いて下さいよ先輩、この前、超可愛い子がいたんです! 友達の友達、うん? 友達の友達の友達だったかな……」
「良いよ、そこは、細かいところだから……その人がどう可愛かったの」
「お人形みたいなちっちゃい顔なんですよ、二重もぱっちりで、まるで天使が服を着て歩いてるみたいな!」
「天使は普通に服を着てると思うな」
「些細なところは別に良いんです! とにかく、もうすっごーく美人で!」
「ここ、図書館だからね、もう少しトーン落として話そう?」
「あ、ごめんなさい」
口元に人差し指で作ったばってんを押し当てる仕草は、本当に大学生なのか怪しいくらい幼く見える。碧緒に惹かれた時もそのあどけなさが原因だったが、御嶽はただ幼いばかりで、まるで年の離れた妹を見ているような気持ちになってしまう。
「でも良いなー、私もあんな女の子らしい背格好とちっちゃい顔とメイクが映える子に生まれたかったー」
テーブルに顔を突っ伏して、うぅと低い声で呻く様はとても可愛くは見えないが、多少のいじらしさは覚えさせた。
けれどそんな御嶽よりも、槇は彼が初めて焦がれた人のことを思い返していた。
(あの子は今頃、どうしてるんだろうな)
彼をあっさり捨てていった彼女は、それでいて人の心の奥深くに沈み込むような言葉を口にするのが巧みだった。
〝槇くんは運命の作り方、って知ってる?〟
透き通った声。一縷の乱れもない黒髪が、肩の辺りで柔らかくたわんでいる。
首を横に振った槇に、彼女は軽やかに続ける。
〝この世界の何処かに、思い出の場所を作っておくの。離れ離れになった二人が、もう一度そこから始められるように〟
まるで夏の夜の夢のようだと思った。
「先輩、私の話ちゃんと聞いてます?」
「ごめん、あんまりちゃんと聞いてなかったかも」
「顔色ちょっと悪いですよ。私、そんな先輩におすすめの場所知ってるんです。今度一緒に行きませんか? いつ空いてます?」
御嶽は槇に恋人がいることを知らない。というより、知ろうとしない。初めからいないものだと決め付けている。特段それで困ることもなかったから放置していたが、この提案の真意は何だろうか。
――知ってるくせに。
槇は心の中で苦笑した。
「まずどこかくらい教えてよ」
「それは、当日のお楽しみです。さ、いつ空いてるか教えて下さい」
碧緒は知らない。槇が持っているもう一つの色の名前を。
「明後日の午後かな」
「決まりですね。詳しい時間が決まったら伝えるので、新宿西口に来て下さいね」
槇は止む気配のない雨に視線を戻した。
碧緒とのやり取りがないのが、もうすぐで五日になるのを、ふいに思い出しながら。