#8 児戯
空は私のために泣いてくれない。
あの子の泣いた日は、全部雨だったのに。
*
博物館を出ようとした折、にわかに空がぐずつきだした。傘など持ち合わせていなかった二人は、両国駅側の喫茶店に身を寄せた。
「天気予報、雨だったっけか」
「どうだったかな」
そういえば、ここしばらくは天気を気にする心のゆとりもなかったと思い至った。いつもどんよりとした気持ちで、ふとした拍子に何をしようとしていたか思い出せなくなる。スマホを出したは良いものの、何もせずに鞄に戻すようなことが少なくない。
須磨の目元ではなく、首元に揺れる銀と赤の小さな輪が無限の記号のように連なったネックレスに目をやりながら、どうすればそんな精神状態から脱け出せるのか考える。その問いは、槇と別れるか別れないかという問いでしかないということは、薄ぼんやりとは分かっていた。
(別れる? 槇と?)
槇との将来を全く考えたことがないわけでもないが、かと言って真剣に考えたこともない。未来の自分は漠然と誰かと一緒にいるような気がするものの、それが誰なのかは、ぼやけたシルエットでしかない。
「変なこと、聞いても良い?」
ティーカップの縁に指を這わしながら、今日の天候と気分なら、その疑問を口にしても構わない気がした。
「何?」
「自分が誰かと結婚するっていうか、暮らしてるイメージって、ある?」
だがそう口にしてからすぐ、須磨からすれば、碧緒が槇とどうなるかを悩んでいる、という質問に聞こえなくもないことに気付いてしまった。マリッジブルーのような質問だと思われたら、色々な意味で、終わる気がする。
本来はそれで、良いはずなのに。様々な葛藤が、内側からふつふつと湧いてくる。
「ないな」
だが、須磨の返答は、碧緒の心を占めていたあれこれをかき消すほど冷たく、悲しく聞こえた。思わず視線を上げれば、須磨はそっぽを向いていた。
「ああ、考えたことなかった、って感じね」
前に向き直り、上手く取り繕ったつもりだろうが、一度目の声色が、端々に感じる切なさに酷似していて、碧緒は質問を続けるべきか迷った。
そこまで踏み込んで良いのだろうか。自分の欲求は愛しい人を救ってあげたいという気持ちからではなく、ただその美しさに藍色を添えた経緯を知りたいだけの、邪さから来ているのではないかと思い、言葉に詰まる。
再び目線を下げると、袖口から覗く須磨の腕が、以前よりずっとほっそりとしているように見えた。それが決定的に碧緒の心を動かした。
「ねえ、須磨、何か、あった?」
否定さえしてくれればそれで良い、それで何もかもが終わると思った。
「何、急に」
目尻には弱さがあった。あるいは、あの頃から既にそうだったのかもしれない。碧緒がそれに気付くようになってしまったのか、須磨が隠せなくなってしまったのか。
「辛いことでも、あった? 思い過ごしだったら良いんだけど、ちょっと、昔と違って寂しそうな顔をする瞬間があるように思うから」
ふっと笑う須磨。その顔は、この先何度も思い出すことになるだろうという謎の予感を覚えさせた。
「だとしても、神谷にはどうしようもないことだよ」
その拒絶はあまり強く聞こえなかった。
「そ、っか……」
「大丈夫、何てことはない、ちょっとしたことだよ。それに、時間が経てば俺の考えは変わるよ、きっと」
自分のことだというのに、須磨の言葉は他人事のようにしか聞こえなかった。
「それよりさ、この前国崎先生駅で見かけたんだけど、また変なネクタイしてたよ。本を読んでるアライグマの柄だった」
これ以上は触れてくれるな、ということだろうか。
ティーカップを包むように両の手を添えて、碧緒は「高校の頃から変わってないね、国崎先生」とできるかぎりハッキリした声で返した。
神様は何故、須磨を再び自分の目の前に現れさせたのか。ただの偶然なのだとしたら、神様はまだ幼い子どもだとしか思えなかった。こんなことをしたら、どれほど人の心が揺れ動くか、まるで思い至らないだなんて。