#6 徒花
実を結ぶことのない花もあると、母は教えてくれなかった。
雨上がりの虹を美しいとしか、父が形容しなかったように。
*
一駅、と言っても特急列車で乗り過ごす一駅は、碧緒を動揺させるのに十分すぎる距離と時間を併せ持っていた。都会の電車は戻るのにそう不都合は無いものの、精神的に不安定な心には、とても喜ばしいものではなかった。
ほとんど降りない駅で降りるだけで、気分がざわつく。ひとまず階段を上って、と思っても、脚が言うことを聞いてくれず、思わず近くのベンチに腰を下ろしてしまった。
ものの数分で次の各駅停車がホームに滑り込んでくる。急行と違って人はまばらだったが、その内の一人に、思わず目を疑う。
「あれ、神谷」
あっさりと退路を断たれ、言葉に詰まる。
黒の上下に、グレーのコート。カジュアルな革靴がよく似合う今日の須磨は、一段と艶やかに映った。
「家、この辺だったっけ」
「ううん、乗り過ごしちゃったの」
「あーね」
「それで何か気落ちしちゃって、ぼーっとしてた」
「大学これから?」
「帰り」
「そっか。お疲れさま」
高校の時から決して盛り上がった会話をしたことは無かったものの、今のこれは、余所余所しすぎるように思える。単に自分に興味がないのか、はたまた彼氏がいることに遠慮をしているのか――
(私、何か誘われたいと思ってる?)
憧れだったし、話せた日には一日が素晴らしいものになるような予感を感じさせてくれる人だった。それ以上を望んでも、万が一にでも手に入ることはない人だと思っていた。それがどうして、何らか可能性があるだなどと、妙な不安と期待を覚えてしまうのか。
高校時代の三年間、あくまでも好意は隠した程良い距離の友人として過ごしていた。
あの頃、どうして距離を詰めようとしてみなかったのか。
答えは分かりきっている。友だちという距離感が、心地良かった。失うにはあまりにも、甘美すぎた。単なる高嶺の花だったなら、玉砕も覚悟で踏み出せたかもしれない。けれど須磨は、絶妙に近いところにいた。
長い睫毛に目を奪われる。
きっと須磨は、自分に心をやったりはしないだろうと身勝手な考え方をして、理性的な自分からの静止を振り切る。
「ねえ、少しだけ、時間ある?」
槇がいるから。涙の理由も聞かず、そっと抱きしめてくれる人がいるから。
最低な振る舞いに、出られてしまう。今はもう、思いが届かなくとも、全てを失うことはない。
無謀な賭けではなく、単なる確認。友だちだったら誰だって自然にそれくらいはするだろう。それに、須磨はきっと断る。あの頃の続きを少しだけなぞって、おしまい。そう思っていたのに。
「良いよ。どこ行く?」
須磨の返答は、碧緒の罪を軽いもので許してはくれなかった。
「本当?」
改めて確認する自分が、とことん嫌で仕方ない。
「嫌だったらちゃんと断ってる」
須磨の口許には、ほのかに陰が見えた。それが、この時間があの時間の続きではないと思わせた。前にも感じた、高校の時との異なり。
(こんな顔、あの頃はしなかった)
ただ照り映えるばかりだったその顔に、何が、そんなものを作ったのか。
陽光のようなあたたかな彩りに惹かれていたと思っていたのに、月光のような妖しさにさえ、心惑わされる。いやむしろ、以前よりずっと、心乱されたいと思ってしまう。槇の面影がどんどん、その光によって遠ざけられていく。
「私も須磨も、行かないような所が良いな」
「それ、思いつくか?」
ふっと笑ったことで消えるかと思われた陰は、より強いコントラストのせいで際立った。
「それを今頑張って考えてみるの」
「どうしよっか」
無造作に須磨が隣に腰を下ろす。そのくらいの距離は、今までも何度もあったし、その度にときめきはしたけれど、今日は今までのどんな瞬間とも違っていた――日常のワンシーンでは、ないがゆえに。
「……探そ?」
碧緒はハンドバッグからスマホを出すと、二人の真ん中にまで持っていった。自然と近付く二つの顔。これを恋と呼んでしまうのなら、人生で碧緒がしたことのある恋は一つしかなかった。