#2 間隙
鏡を見るのは嫌い。
写真に撮られるのは好き。
求めていない時に、私をうつさないで。
*
あれからすぐ、須磨は立ち去ってしまった。もとより、追いかけるようなことはできそうにもなかったが。
「でさ、さっき拾ってた資料、凄かったんだよね。四年生の研究発表に使うものみたいなんだけど、ネコは人の言葉がどれくらい分かるのか、みたいな研究で、思わずちょっと話し込んじゃったよ。あれ、碧緒ちゃん? 聞いてる?」
「あ、うん。ネコの話でしょ」
適度に鈍い槇に分かるほど、自分はボーッとしていたのかと思うと、碧緒は頭を何度か横に振って須磨のことを忘れようと思った。今でも脳裏をよぎることはたまにあるが、最近はその頻度も激減していた。何を今更、と思った。
「ところでさ、今日は何の日でしょう?」
槇は時折こういうことをしてくる。良く言えば彼女思いで、悪く言えば子どもっぽい。その明るさに救われることもあるし、その気楽さがどこか自分の感性とズレていると思わされることもある。ダボッとしたセーターを着て両手を広げる姿は可愛らしいが、碧緒が心惹かれるのはもっと、ずっと男らしいタイプだ。それでも槇の告白に応えたのは、槇が碧緒をちゃんと見てくれていたからだった。
「アキネーターしても良い?」
「良いよ」
「記念日ではない」
「はい」
「何でもない日でもない」
「はい」
「私なら絶対当てられるタイプの日である」
「じゃないとアキネーターして良いって言わないよ」
「あ」
「分かった?」
「藤人が私にかまってほしい日」
「真面目に答えてよー」
「思い出した、メロリィクィーンのチケットの当選発表の日でしょ」
「正解! で、ちゃんと当たったんだよ」
「凄いじゃん」
「実際のライブはだいぶ先だけどね、今から楽しみなんだ。来年の五月三日、空けといてね」
「うん」
ふと、今までなら思いもしなかったことが、碧緒の心に浮かぶ。来年――その時もまだ、自分は槇と一緒にいるだろうか。
また須磨の顔がちらつく。彼の容姿は理想そのものではあったが、槇を知ってからは、それが必ずしも日々の安らぎや落ち着きに繋がるわけではないと思った。同級生の女子たちの話を聞いてみても、恋人が綺麗な顔をしているがゆえに、他の女が寄って来やすかったり、また彼自身のプライドが高かったりしてこじれやすいらしい。
だがそういった人間的な良し悪しをさておいても、動物として、生命として、瞳と脳が求めるものに身を捧げてみたくなる気持ちまでは、完全に否定しきれなかった。須磨はそれほどにまで、碧緒の美意識の頂点に君臨していた。
改めて目の前の恋人を見てみる。決して劣る何かがあるわけではない。彼に不満を抱いてしまえば、次に恋人ができる保障はどこにもない、そう感じるほど、どこも悪くはない。ただ、生物的に、惹かれきることができない。穏当ではあっても、妥協している部分はある。どこまでも図々しい考え方だとは思うものの、やっぱり恋人で一番大事なのは性格と言えるほど、碧緒は大人になれない。
「碧緒ちゃん今日バイトだっけ?」
槇はどこまでも無邪気で、それが顔にも表れている。
「ううん。今日はないよ」
「じゃあさ、この後スタバ行こうよ」
「うん、行きたい」
「やった」
この純粋さをいつか自分が汚してしまう気がして、喉がきゅうと締め付けられる思いがした。もし隣にまともな女の子が一人でもいようものなら、彼女に譲り渡したくなる勢いで――そんな考えすらも、今は自分がフリーになりたい言い訳のように思えた。
(私はいつ、藤人を裏切るんだろう)
まるでそれが、確定したことのように感じる。
厚手のニットにダッフルコートを着込み、スヌードまで被っているというのに、寒さが突き刺してくるような感覚ばかりが募った。