#18 浸潤
なぜあんなものが天使に見えるのか。
誤魔化す気すらない邪悪に、多くの人は騙されるのか。
人を思いやる気のない、人の姿を象っただけの紛い物を、私は絶対に認めない。
*
「先輩、ペン、忘れてますよ」
槇は声の主の方を向くと、少し息を吸って肩を落とすと同時に吐き出した。
「ありがとう」
すぐに背を向けたものの、もう一度顔だけを向けて、「突き放した物言いしたのに」と口にした。
「それで怖じ気づくなら、あんなに迫ったりしませんって」
特に作り笑いではないように見えて、槇は僅かに視線を下に落とした。
碧緒はとても優しくて、温かいけれど、隠し事があまりに下手だ。
その瞳に時折無自覚に別の誰かを映してしまう。
やり取りの頻度が落ちるにつれ、木枯らしの向こうの人がその誰かではなかったかと思わずにいられない。自分がどれほど鈍感であれば良かったか。
目線を戻して、御嶽を見つめる。御嶽は目を逸らさない。
「好きにしたら良いんじゃない」
言い捨てるようにして御嶽から離れる。〝彼女〟と碧緒と御嶽との違いが分からなくなっていく。人はそれぞれ別の存在だとは思っているのに、最後には同じ決断を下すとしか考えられない。
「待ってくださいよ、先輩」
その腕を、御嶽は掴む。
「忘れ物届けたんですから、お礼にお昼ご飯でも奢ってください」
「……やめて、くれよ」
決定的に違う。その違いから、誰より目を背けていたのは槇自身だ。
先の二人は、槇からだった。槇の想いに応えるかどうかから始まっていた。そしてどれだけの時間を過ごしても、槇が矢印を発さなければ、向こうから生まれてくるということはなかった。どれだけ丁寧で慈しみを持って接しても、本当の意味で槇の方を見ることはない――
「僕には、恋人がいるんだよ」
それでも、碧緒を愛している。
向けられた矢印に応えてしまえば、碧緒の振る舞いを非難する資格は失われる。どれほど差し伸べられたその手が温もりに満ちていても、手の主に心を寄せていなければ、想いを利用しただけに終わってしまう。
「先輩のことを一番に想ってくれない人のために、どうして先輩が胸を傷めないといけないんですか」
そんなことはない――その言葉が喉にすら突っかからない。
「今すぐに私を好きになってなんて言いません。でも、自分を苦しめるばかりの毎日からは、少しでも早く抜け出してほしいです」
御嶽はいつから、碧緒とのぎこちなさにまで気付いていたのだろうか。碧緒が無自覚な部分を持っていたように、槇の心もまた、御嶽には筒抜けだったのかもしれない。
「なんで……そこまで……」
「ハッキリ伝えるのは、先輩がその気になってからです」
槇が腕を引いても、御嶽はもう抵抗しなかった。
背を向けてとぼとぼと歩く。足の裏が地面に吸着してしまったように重い。
今はもう、純粋に碧緒のことが好きだったかさえ、思い出せない。確かにそうだ、絶対そうだと必死に言い聞かせれば言い聞かせるほど、真実から遠ざかっていく気がする。
(それでも、僕は、碧緒ちゃんのことを……)
遊園地のアトラクションが二時間待ちだった時も、花火大会が中止になってしまった夜も、風邪を引いてデートが流れた時も、碧緒は変わらぬ優しさを注いでくれた。
その瞳にたとえ他の誰かを宿す瞬間があっても、確かに映していたのは槇だったはずなのだ。
けれど今、二人は一緒に居ない。
御嶽が入る隙など、これまでは有りはしなかった。
それが全てを物語っているようにしか思えない。
無意識に強く握っていた拳。もう前に踏み出されることがなくなってしまった足。
すぐ傍に立った御嶽の無言の温もりが、心に浸潤しようとするのを、分かってはいても、もう止めることができないと悟った。




