#17 湧出
その本は資格を得なければ読み進めることはできない。
決して取るべきではない、罪の資格を。
*
〝またどこか出かけないか〟
須磨からのメッセージに、碧緒は返事をできないでいた。
四角いクッションをぎゅっと抱きしめながら、壁に背を当ててベッドに座った状態が、もう一時間は続いている。
通知を見た瞬間、飛びはねたいような喜びを覚えてしまったのが、最早言い逃れできない事実として、重くのし掛かっていた。槇よりも、須磨を優先したい気持ちが明らかに大きくなっている。
自分は須磨に相応しくない、頭ではそう理解しているうえに、槇と別れたいという気持ちもない。だが、いざという瞬間には、そうしたことが全て吹き飛んで、心の最奥が欲するところに随わずにはいられない。
予定が詰まっていて都合がつかない、そんなふうに適当にはぐらかしていれば、自然と機会は失われるだろう。碧緒のことなど、須磨にとってはどうでも良いのだから。
たったそれだけのことがどうしてもできない。かといって、槇に意識を振り向け直すということも、自身の心の中には湧き上がってこない。
槇に対しては、もうとっくの前から裏切りに等しいことをしていると認識している。槇と別れて、須磨との恋に舵を切る、それが自然で、誰の謗りも受けないのは分かりきっている。その果てに須磨に棄てられてようやく、碧緒は全てを清算できるだろう。
(踏み出せない……)
クッションに顔をうずめれば、自然と涙が溢れた。キルト地は、決して彼女をやさしくは包まない。
須磨は良い男だ。けれど、槇のようなあたたかさを兼ね備えているわけではない。彼は興味のない相手にはいたって素っ気ない振る舞いをする。表立って人のことを悪く言ったりはしないが、高校の時、彼に好意を抱いて近付いてきた女子たちに、ほとんど目もくれてやらなかったのを何度も目にしてきた。
〝名前も学年も知らないやつをどう好きになれって言うんだろうな〟
それは、名前も学年も知っていたとしても、そういった素振りを見せない時点で、碧緒もまたさして変わらない存在として認知していたと言えるだろう。
何万人も通う総合大学というだだっ広い空間で、気心の知れた存在を見つけて、懐かしさに浸っている内は良いだろう。だが、その余韻が完全に去ってしまった時、彼は極めて平然と、碧緒から距離を置くだろう。
つまるところ、須磨は何一切保障してくれない。槇との日々を選べば、間違いなく安定は得られる。
どうせ枯れると分かっている器に、満ちるとも知れないくせして酒を注ぐのか。それほどまでの魅力が、須磨のどこに――
春。例年より早く咲いたために絨毯すら敷いてくれない桜並木に、ぽつんと憂いを帯びた表情を浮かべる少年。
みんな嬉しそうにしているのに、彼だけは酷く物憂げだった。
それが須磨を見かけた最初の瞬間だった。
幼く見えて仕方ない同い年の男子たちに比して、彼は既に完成されて見えた。
その第一印象が、根本から書き換わることはついぞなかった。
(そういえば、須磨はどこかから陰をまとった雰囲気があった。日ごろの言動はそれを感じさせなかったけど、もし、私の知らない間に何かあったんだとしたら――)
彼の誘いに乗るということ、それは彼への想いがまだあると認めること。
その事実を心配という言葉で覆い隠してしまうのは、碧緒の内側で声が膨れ上がり続けるからだ。
たとえ何もかも失ってしまうのだとしても。
須磨の憂いを、少しでも払ってあげられるのなら。
碧緒の頭はクッションから離れた。




