#16 衝動
それは堕落ではない。
初めから資質は持っている。
天使も、人間も。
そして、悪魔も。
*
カスミソウのハーバリウムをローテーブルの脇に置いて眺める。正直、よほど好みでもないものでもなければ、何だって買うつもりでいた。あの店の雰囲気は須磨自身好みだったし、置いてある商品のどれもが、彼のシックな部屋を彩るには十分だった。
それでも、ハーバリウムそのものには何の思い入れもないはずだった。実際、インテリアにこだわる趣味はない。もちろん、だからといってむげに扱うつもりまではないが、特別感動を覚えたりもしない。
だから、勧められた内のどれかを適当に選べば良かっただけなのに、どうしてわざわざ二択を迫ったのか。
どうしてこう、思案しがちになると、〝彼女〟のことが思い浮かんできてしまうのだろうか。
〝肇は運命って信じる?〟
須磨は運命の人ではなかったのだろうか。
それとも、肇が運命の人がどうか確かめたかったから、肇を裏切るような行為に及んだのだろうか。
どちらにせよ、思いつきで生きる無垢なる〝彼女〟に振り回されて、須磨の心は歪められてしまった。
だからといって、それを理由にして別の誰かで憂さを晴らすことなど、許されるはずもない――だが、二年ぶりに声をかけた須磨に、神谷が向けた戸惑いを含んで揺れる瞳を思い出すと、言いようのない衝動が湧き上がってきた。
それが好意ではないのは明白だった。神谷自身に惹かれるものは残念ながら何もない。目鼻立ちは整っている方だと思うし、何か際立って貶めるものがあるわけでもないが、恋人にしたいという欲求は覚えない。大学生になったからか、恋人ができたからか知らないが、より申し分ない容姿になってなお、彼女に女性としての魅力を覚えることはない。
芽生えた感情は、極めて濁っていた。上手く運ばなくとも、神谷は簡単に須磨のものになるだろう。今の恋人に満足しているというのなら、あんな目をするはずがない。言ってしまえば、〝彼女〟には生じ得なかった、恋人がいるのだから踏みとどまるという倫理観――それが神谷の行動を押し留めている。神谷は真っ当な人間だ。
その理性を乗り越えさせ、須磨を選ばせる。その先に何があるのか、須磨には見当もつかない。〝彼女〟だって何も感じなかったかもしれない。ただ、こんなものか、と知るだけかもしれない。
須磨は恋人を寝取られたわけではない。〝彼女〟は帰るべき場所は須磨のところだと思っていたかのように、けろっとした顔で帰ってきた。だから、神谷を今の恋人から寝取ってやってみせたところで、心に生じたわだかまりがどうなるとも思えない。
それでも、誰かを歪めてみたいという邪な心が、どこからか膨れ上がって無視できなくなっている。当然〝彼女〟には為し得ないことを、神谷になら、やってしまえる。
ハーバリウムを手に取って、そのまま床に落とそうかというつもりになった。とにかく何だって構わないから、何かを無意義にしたい。そうできないのは、ひとえに後始末の面倒さを考えてしまうからだ。都内のどこだったかに、ひたすらモノを壊せる施設があると聞いた。そういう〝許された〟ストレスの発散ではなく、取り返しのつかない破壊だけが、今の彼を慰めてくれるような気がしていた。
結局何もせずハーバリウムを元の位置に戻すと、須磨はこの浅ましい考えを実行に移すかを真剣に考えはじめた。
きっと救いはどこにもない。神谷の恋人に見せつけるような仕方で壊してやろうとまでは思わないが、間違いなく、二人は破局するだろう。そして事を成した後の神谷について、どう責任を取るつもりもなかった。
(俺は神谷を奪って、それでどうしたいんだろう)
ただ一夜限りの関係を持ちたいということではないから、そこに至るにはそれなりの用意が要る。踏みとどまらせている理性を決壊させて、自らの手で恋人を棄てさせて。
それで満たされるものが何もないことは、分かりきっている。
須磨もまた神谷に惚れているのなら、得るものもあるだろう。だが、それではいけない。ただ、破滅的なゴールに神谷が辿りつくことだけが、歪んでしまった彼の求めるところだった。
人の心を捻じ曲げる。ただ、それだけ。
しかも〝彼女〟とは違って、須磨は悪意を持ってそうしようとしている。
あの日、木枯らしの向こう側に、神谷を見つけなければ。もっと〝彼女〟に作られた傷が和らいでから、再会していれば。
様々なifを考えながら、どうせ他の誰かで同じようにしたのだろう、なんて言い聞かせて。
須磨の手はスマホに伸びる。
〝またどこか出かけないか〟
神谷が拒みさえしてくれれば。なんて、あるはずもないことを考える。
(きっとあいつも分かってて話を持ちかけたんだろうな)
天使も悪魔も、相手を選んで声をかける。ひたすらに、自分の都合だけを考えて。




