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#14 退転

 あなたは私を馬鹿だと思っている。

 実際馬鹿だとは思う。あなたの価値観においては。

 でもあなたを苦しめる人よりはずっと、賢い。



 御嶽が槇を連れてきたのは、キッシュを看板メニューにしている洋食店だった。

 店内は暗めの照明が落ち着いた雰囲気を演出していて、ワインボトルから剥がした数多のラベルも店主の好みを上手く表現していて味わいがあった。

「お気に入りの店なの?」

「ううん、来るのは初めてです」

「おすすめの場所って言わなかったっけ……」

「元気が出ない時は、普段行かないような場所に行くと気分が変わるんです。あ、でも先輩はキッシュとかよく食べたり……」

「しないしない。何なら食べたことすらないから」

 どこかズレたこの感覚が、どうにも槇には好きになれない。碧緒なら必ず槇の好みに合うかどうか確認を取ってくれるし、サプライズなのか思いつきなのか分からないような真似もしない。特段偏食というわけでもないから、碧緒を困らせるようなことは実際のところないのだが、槇にはその配慮こそ喜ばしかった。

 定番らしいベーコンとチーズのキッシュを二人分頼む。

 料理が運ばれてくるまでの間、御嶽は巻いた毛先を弄ったり、伏し目がちに槇の様子をうかがったりする。少し迷った後、「似合ってるって答えたのは本当だよ」と口にした。

「よ、良かった」と御嶽はようやく満足したようで、「キッシュ楽しみです」とほぐれた笑みを浮かべた。

 円いプレートに四角いキッシュとボリューム感のある野菜、マッシュポテトが豪勢に盛り付けられている。碧緒に会わず、一人で鬱屈とした日々を送っている今の槇には、とても新鮮に映った。食が細ってはいなかったものの、こうして視覚的に食欲をそそるものが出されると、自然と気分が上がるのを感じる。

 ナイフがパイ生地を切るサクッとした感覚も心地よく、口にした際の絶妙なあたたかさとまろやかさが、生きる喜びとでも形容できそうな気持ちを抱かせた。

「美味しい」

「先輩、やっと笑ってくれましたね」

「……そう?」

「ここ最近、ずっと思い詰めた様子でしたから。私、先輩には、笑っていてほしいです」

 どう言葉を返して良いものか分からなかった。鈍いとばかり思っていた御嶽の、普段聞くことのない落ち着いた声。

 ほんの一瞬だけ、その好意に甘えようかという気持ちが湧いた。


 中学校の踊り場で、〝彼女〟は突然、思いついたように踊り始めた。ダンスの心得などない槇にもその魅力が分かるほどに、美しく煌びやかだった。澄みきった黒い髪が、一条ひとすじ一条ひとすじ、命を与えられたかのように舞っていく。

 天使に触れてから、しばらく。槇は自分を幸せな人間だと思っていた。思い込まされていた。けれど実際は、その戯れにほんの少し付き合う権利を得ただけだった。


 自分には数の内に入らない人間であると、自覚することが幸せなのかどうかは分からなかったが、少なくとも、槇の価値観はもう書き換えられてしまった。幸せになる権利は誰にでもある。ただ、幸せになれるほどの価値のある人間ではない――それが齢十五にして、聡いまき藤人ふじとが見出した自分についての結論だった。

 槇は自分をつまらない人間だと定義した上で、神谷碧緒と接触した。どうして彼女が彼に心を許したのかは知らない――いや、知ってはいた。彼女はどこかで別の誰かに執心した時の気持ちを捨て去れてはいないながら、心を落ち着けてくれる誰かを欲していた。槇は彼女のうろを埋めるのにある程度合致した凸を持った人間だった。

 最近の彼女を見るに、心を一心に砕きたい相手を見つけたのだろうと思う。それがどんな人なのかには、興味はまるで湧かなかった。

 ――そろそろなんだろうな、と感じる。

 槇が良い、そう示してくれる御嶽は有難い。それでも、槇は碧緒が彼を捨て去るまでは、碧緒の恋人でいることを捨てる気はなかった。

「心配してくれてありがとう」

 努めて自然に。努めて気丈に。

 〝彼女〟も、碧緒も、御嶽も、変わらない。それが槇の思い。

「ここに連れてきてくれただけで、僕はもう、大丈夫だよ」

 誰にも期待しない。

 だって皆、槇のことを、本気では想っていない。ずっとそう思って、生きてきた。

「先輩は私のこと、馬鹿だと思ってますよね」

 引いた手を、掴んで引き戻される、たった今までは。

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