#10 明暗
あなたを好きになろうとした努力と、好きになるまいと張っていた意地は似ている。
あなたから離れてみれば、ささやかな力だ。
それで塔を崩せると本気で思っていた。
*
文字を打ちかけて、消す、また打ちかけて消すを繰り返し、碧緒はスマホをテーブルの上に雑に放った。スマホは勢いよく滑っていき、どうにか端で止まったが、落ちかけたことに対して碧緒は何も感じなかった。
それより、どんなふうに槇と関われば良いのか、これまでなら自然と出来ていたことが、全くの未知になってしまっている。
休んでしまった講義のノートを写真に撮って送ってもらうなんて、何の気なしに出来ることだった。だが今は、そんな些細なことさえ震えなしにはできない。現実はただ、昔の同級生と幾らか時間を共有しただけのこと。偶然にも指が触れ合ってしまうようなことすらなく、須磨は碧緒に恋人がいる人間としてのいたって普通の振る舞いをしてみせた。
(私、藤人のこと、好き、なのかな)
須磨のことは確かに好きだった。恋をしていた。だが槇に対しては「恋をした」という感覚はあったのか、少なくとも今は思い出せない。
一緒にいて心地が良かった。変に緊張せずとも会話出来たし、話題選びには知性や教養もあると感じられた。どこか切なげな顔をすることもあったけれど、その多感さゆえに人の気持ちを汲み取るのが得意なのだと思っていた。
でも、心揺さぶられるような瞬間があったかと考えれば、思い当たる節がない。ただ、今は過去と現実とを正しく直視できているとも思えない。本当はちゃんと愛していたようにも思う。
「そこ、一行ズレて書き写してるよ」と隣の席から教えてくれたのが、槇との始まりだった。須磨は特別として、男子と特段仲良くすることのなかった彼女には、槇の距離の詰め方はどちらかといえば引きそうなものだった。けれど、槇の声はすっと耳に入ってきた。
そうだ。槇といると、落ち着くのだ。心がざわつくようなことはない。
でも、そこにはときめきや新鮮な気付きはなかった。最初からそこにいたような安心に、鮮烈さが備わっていなかったのは、事実だった。
須磨との時間は、そのどれもが短いものでありながら、いつだって燦めいて映った。
(私、もう藤人のこと、どうとも思ってないのかな)
そう考えた瞬間、スカイツリーの中でもんじゃ焼きを手際よく作ってしまうのに驚いたり、渋谷のニンテンドーストアで待ち時間の長さに一緒にげんなりしたり、池袋のプラネタリウムで二人とも寝てしまってどんな星空が映っていたかまるで覚えていなかったことなどが次々と思い浮かんできた。
全部楽しかった。須磨との僅かなやり取りには感じられない、穏やかで気の置けない時間だった。
一緒に老いていくなら――得るものより失うものの方が多い年齢になったら、きっと槇が良いと思うだろう。
碧緒は膝を抱えてその隙間にそっと顔を埋めた。
でも今はまだ、碧緒は若いのだ。輝きより大事な何かがあるのだと説かれたとて、それは総て青い春が終わった人の至言なのだろうとしか思えない。
槇の何が悪いわけでもない。
悪いとしたら、そんな槇を一途に思いやれない碧緒自身だと思った。
きっとこの世には、槇をちゃんと幸せにしてくれる女の子がいるだろう。けれどその考えは、一番無責任で身勝手な突き放し方の典型だと知っていた。
でも、と碧緒は想像する。
もし須磨が、自分に手を差し出してきたら。そんなことはないと分かっているから、槇という安寧に浸っているだけなのだと気付いて、涙すら流す資格はないと思った。
微かにだが、バイブレーションが鳴る音がした気がした。もしこれが槇からなら、須磨のことなんてさっぱり忘れてしまおう。もう高校のような頻度で会うことも、話すこともない相手なのだから――そう思って、机の端のスマホを再び手に取った。
世界は彼女に、決して優しくはしてくれない。する理由も、ない。
ロック画面には、母親からの〝あんた最近元気してる? ちゃんとご飯は食べてるの?〟という文字が浮かんでいた。
それにどこか安心したつもりになっている自分を、碧緒は心底醜いと感じた。
悲しげに側を向いていた須磨の顔が思い起こされる。槇の顔は、まるで浮かんでこない。




