#1 須磨
私たちには、きっと本当の赤い血は流れていない。
幸せを感じる瞬間が、涙する時だけだから。
*
神谷碧緒は、大学のカフェテラスで恋人を待っていた。同じ講義を取っているが、今日は寝坊して出席がつかなくなってしまったから、先に軽食を取ることにした。
行き交う複数のカップルを横目に、自分は幸せだ、と言い聞かせる。暗示をかけていなければ、いつかそうでないことに気付いてしまうようで、怖い。誰もが本当の感情をそのまま表情にしているように思う。その中で自分ただ一人が、模造品を浮かべている気がしてならない。みんな少なからず嘘を吐いているだろうと思ってはみせても、心は安定しない。
「碧緒ちゃん、お待たせ!」
少し背は低めだが、爽やかな顔立ちと、通りの良い声。申し分ない彼氏の槇に、いったいなぜ満足できないのか。さっき通っていったカップルたちの中に、槇より優れた見た目の人はいなかった。性格だって良いし、喧嘩もほとんどしたことがない。
「さっきの時間のレジュメ、碧緒ちゃんの分ももらっておいたよ。ノートも後で写真に撮って送るね」
小走りで来たのか、少し息が上がって見える。それでも暑苦しくは見えないし、何なら少し、輝いても映る。
「またバイト延びたの?」
「新人君が飛んでさ、人手が足りないからって締め作業手伝わされた……」
「そろそろ他のバイトにしてみたら? 碧緒ちゃんならどこでも受かるでしょ」
「うーん、そうだね……」
人付き合いは得意な方ではなかった。社交性は高い方だと自負しているが、自然とできるわけではなく、努力の賜物という感じだ。槇といると、気を使わなくて良い。リラックスして過ごせるし、居心地が良かった。
「どこか美味しいものでも食べにいこっか、今度」
「うん」
もっと愛想よく関わった方が愛らしい彼女でいられるのだろうけれど、素っ気なく対応しても嫌な顔一つしないのが、とても有難い。
ただその優しさゆえだろうか、碧緒にはずっと、ぼんやりとした空虚な気持ちがつきまとっていた。
ザァ、と木枯らしが吹いた。
さらわれて顔にかかった髪をのけた時、信じられないものが目に入った。槇のずっと向こうに、彼――須磨がいた。なぜここにいるのか分からない。それでも、彼を見間違えるはずがなかった。一時期の、彼女の全てだった人を。
「凄い風だったね、今の。わ、ほら、あそこの人、資料飛び散っちゃってる。僕、拾うの手伝ってくるよ」
槇は背を向けているから、その姿を目にしていない。おそらくは、碧緒の表情の変化にも、思い至っていないだろう。
さっと立ち上がった槇が走っていくのを、結婚するならこういう人が良いのだろうと思いつつも、碧緒の心は彼に捕らえられたままだった。
彼は、あろうことか手を振っている。決して自分のことではあるまいと言い聞かせて、後ろを向いたが、誰も振り返してはいない。もう一度須磨の方に向き直ると、クスクスと笑ってから、お前だよ、と言いたげに指を差すジェスチャーをしてみせた。
ドロリ、と心の中で、何かが融けていくのを感じた。何の勇気も出ない碧緒は、ただ小さく、手を振った。木枯らしがもう一度吹いて、自分を連れ去ってはくれないかと思いながら。