第9話 ハグの練習台
リアナ様との恋人つなぎ散策デートの翌朝。
私とガイゼル様は、アーノルト殿下の次のレッスンに向けて準備をしていた。
タイミングや距離感こそおかしかったが、昨日のお茶会でアーノルト殿下が少しリアナ様に近付けたことは事実だ。それにリアナ様の反応を見る限り、リアナ様の方もかなりアーノルト殿下に気持ちが向いていると見える。
近くにいた私に嫉妬したり、アーノルト殿下の振る舞いに照れて赤くなったりしていたのがその証拠だ。
リアナ様の方もアーノルト殿下を恋の相手として意識し始めているに違いない。リアナ様が私に代わってアーノルト殿下の運命の相手になる日も、遠い未来のことではない気がする。
(これなら、アーノルト殿下の誕生日の夜までには間に合うんじゃないかしら。次回の満月の夜の占いでは、リアナ様が運命の相手だという結果になっていますように……)
目を閉じて祈っていると、なぜだか私の胸や背中がチクチクと痛む。
侯爵令嬢のリアナ様がお相手ならば、アーノルト殿下だけでなくイングリス王国全体が大歓迎だろう。何と言ってもリアナ様のお姉様は、あの筆頭聖女候補のローズマリー様だ。それに父親であるヘイズ侯爵もこの国の政治の重鎮と聞く。
私とは違って、何もかもが揃った素晴らしいお方。
それなのになぜイングリス神は、私のことを殿下の『運命の相手』だと仰るのだろう。アーノルト殿下にふさわしいのは誰がどう考えたとて、私ではなくリアナ様なのに。
平民で落ちこぼれ聖女の私が殿下の隣に立つ姿なんて、想像するだけで体が震えてしまう。
(兜を取った殿下の姿を見てから、私ったら何だかおかしいわ。殿下のことを考えるとすごく懐かしい感じがして背筋がピリピリするの……)
「おい、ディア。今日はどんな馬鹿なレッスンをする気だ?」
珍しく深刻に悩んでいる私に、ガイゼル様は今日も刺々しい口調で声をかけてきた。
「馬鹿な、というのは余計ですね。昨日はリアナ様だってまんざらではなさそうでしたから、レッスンは大成功です。そして手繋ぎの次のステップと言えばもちろん……アレですよね!」
「アレとは?」
「ハグですよ! 手を繋ぐよりももっと至近距離で相手の熱量を感じられます。キュンキュンするわぁ」
頬に手を当て、抱き締め合う美しい二人の姿を想像してうっとりする私の目の前で、ガイゼル様の表情は石のように固まっている。
また何か言い返してくるかと思ったのに、フンっと息を吐いて黙り込んでしまう。
「ガイゼル様。拗ねないで下さいよ」
「拗ねてなどいない。お前と一緒にいると、殿下がどんどん馬鹿になっていく気がして耐えられん」
「……あと一月の辛抱ですよ。一月後には私はここを出ますし、そうしたらもう二度とお会いしないかと思います」
自分でそう言って少し寂しくなる程度には、私は殿下のこともガイゼル様のことも大切で離れがたい友人だと思っている。でも殿下の呪いさえ解くことができれば、そこで私たち三人の関係は終わり。
十二時を迎えたシンデレラのように、私にかかった魔法も解ける。またあの街に戻って、恋占い屋として生きていくだけだ。
「ディア、ガイゼル。待たせてすまない」
アーノルト殿下が息を切らせて部屋に入ってきた。騎士団と共に剣術の訓練をした後のようで、額には汗がにじんで暑そうだ。
「殿下。そんなホカホカな時に申し訳ないのですが、今日はハグのレッスンをしようと思っています」
「手を繋いだあとは、ハグか。今日もガイゼルを抱き締める感じでよいのかな」
拗ねて反対を向いていたガイゼル様はハッとした顔で殿下を見ると、青ざめてブルブルと震えあがった。
「無理無理! ハグは本当に勘弁してくれ! 何が楽しくて汗臭い男同士で抱き合わなきゃいけないんだよ」
「ガイゼル、汗臭いとは失礼だ。一応汗は流してきたから臭くはないはずだ!」
言い争う二人を横目に、私はパラパラと恋愛本に目を通す。
「ふむふむ。ハグをする男性の心理とは……相手を愛おしいと思う気持ちの現れなのね。なるほど」
相手のことが好き! という気持ちが溢れ出た時に、男性は女性をハグしたいと感じるようだ。自分よりも華奢な体を抱き締めることによって、「ああ、この人を守りたい!」という気持ちになる……らしい。
体だけでなく頬や耳や髪の毛、色んな場所に触れて相手の存在を確かめましょう、と書いてある。愛おしそうに抱きしめられたら、相手の女性もイチコロでホの字になります! だって。
(さすが恋愛の教科書。三十年前の本だからちょっと言い回しが古いけど、詳しく書いてあって助かるわ)
ガイゼル様をハグしたところで、こんなゴツい男性が相手では良い練習台にならないだろう。ここはやはり、女性である私が相手を買って出るべきだろうか。
ちょうど小柄で薄っぺらい体をしているので、練習台にはちょうどいいかもしれない。
「それでは今日は、ガイゼル様ではなく私が練習のお相手を致しましょうか……?」
「当然だ、お前がやれ」
ガイゼル様はプンプンと拗ねて、腕を組んで椅子に座る。足を組んで偉そうに、私と殿下のハグを高みの見物といくようだ。
「時に殿下。リアナ様との恋人つなぎはいかがでしたか? ハグをする時の人間の心理は、相手のことを愛おしいと思う気持ちなんだそうです。手を繋ぐ時は、いかがでしたか?」
「いかがでしたかと言われると、説明が難しいな。私はただ、いかに短時間で効率よく恋人つなぎを達成するかを考え、まずは相手との距離を最小限に詰めることを念頭に……」
「いや、もういいです」
せっかく意中の相手と恋人つなぎをしたというのに、こんなにも色気のない感想しか出て来ないなんて。
「それでは殿下。今日は兜をお脱ぎください」
「兜を? なぜだ?」
「それは教科書のこのページに書いてあります」
私が先ほど読んでいた『恋愛一年生が学ぶ! 最強に甘酸っぱい初恋ホの字術』の該当ページを開き、アーノルト殿下に手渡した。殿下は小さく頷きながらその章を読み終えると、「やってみよう」と言って兜を脱ぐ。
脱いだ兜を受け取るガイゼル様の顔は、完全に『無』。ドン引きだ。
「さあ、ディア。いつでもどうぞ」
殿下は両腕を大きく広げ、運動したばかりのホカホカの胸を私に向ける。
(なんだか、ものすごく温かそう)
思い返してみれば私にとって、こうして改めて誰かとハグするのは初めてかもしれない。両親は私が幼い頃に洪水で行方不明になったし、育ててくれた修道院のシスターたちは忙しくて、ハグしてもらった記憶はない。
(聖女候補生だった時にローズマリー様に背中をマッサージしてもらったことくらいなら経験あるけど……)
何となく気恥ずかしい思いを抱えつつ、私は「えいっ」と殿下の胸に飛び込んだ。長身の殿下の胸のあたりにすっぽり私の顔が収まると、殿下は私の背中に腕を回した。
――私が想像した通り、やっぱり殿下の腕の中はとても温かかった。




