変わり目と泣けない理由
この後も私が転校するまでに何度かコンクールで受賞した作品を見せてもらった。そのどれもが私には到底描けないようなもので、描こうとすら思わないものだった。精々、いいなぁ、すごいなぁとはたからながめているだけだ。この時は、私からは遠い世界の話でしか無かったのだから、この感想になるのも頷ける。その後色々あり、兄の卒業とともに私は隣町の学校に転校した。その三年ほど前に引越しをしていたためである。転校する時期が遅くなったのは兄が卒業したことと私が問題をとこした時期はが重なったためだ。この辺りは確か兄が合唱を習っていて、親がそれに付きっきりになっていたため拗ねていたのだ。親の注目を引きたくて学校の子に誘われてコンビニで窃盗を働いたのだ。所謂万引きである。案の定捕まり、問題になった。ぶっちゃけてしまうと兄の卒業よりもこちらの方が大きな理由である。
転校前最終日、特になんの感慨もなくいつも通りに『友達』と別れ、いつも通りに帰路に着いた。もうその道を辿って学校へ行くことは無いとわかっていたが特に何も感じなかった。その前の別れの時は盛大に泣いたというのに、この時は全くと言っていいほど涙は見せなかった。それどころか視界が軽く歪むことすらなかったのだから驚きだ。その別れが本物ではないとわかっていたからかもしれない。
転校の2年と少し前、引っ越してからしばらくたったあとに飼っていた猫が車に跳ねられて死んだ。その時のことは未だ鮮明に覚えている。私たちが学校に行く少し前、母親が会社に行くために家を出た。その数分後、と言っても二分とたっていなかったと思うが、母が家に駆け込んできた。それも酷い顔色でだ。何かあったのかと思った。しかし母は父にだけ何かを告げると、私と兄には家を出るなと言い、急いで玄関を飛び出して言った。私たちは何も分からないまま、きっと何か面白いものでも見つけたんだろうと気楽にそんな話をしていた。好奇心旺盛だった私は親のいいつけを守らずに外に出た。家の前の坂を下った少し先。道が少しだけ細くなる部分で、写ったものを見て、私は目を疑った。見慣れた柄の猫が寝転んでいたのだ。右の手足から大量の血を流しながら。その光景に私は言葉が出なかった。理解が出来なかったのだ。いや、理解が出来なかったと言うよりは理解しなかった、しようとしなかったと言った方が正しいかもしれない。私は急いで家に戻り、楽しそうに私の帰りを待っていた兄に静かに目に写ったものを伝えた。兄は急いで家を出た。
それもそうだろう。兄はその猫のことをとても好いていたのだから。私は小さい頃に脛をズタズタにされたことがトラウマになってあまり自分から関わりに行くことはしなかったが、他の家族は違う。両親はその猫が赤ん坊の時から知ってるし、兄は生まれた時から一緒だ。私ですらこんなにショックを受けているのだ。仲の良かった兄からすれば親のいいつけなど守ってる場合ではない。その後、どんなことがあったかは覚えていない。私の記憶に残っている次の光景は大きな動物病院で獣医さんに猫の状況を話されているところだ。今まで通りに暮らすのは無理だと、どうにか延命はできるが、猫にとっても私たちにとっても辛く、大変になるだろうと言われた。
「今まで自由に生きていたのだから、そんな生活を彼女は望まないだろう」
獣医さんの説明が終わり、静かな部屋の中で父がそう言い、母がそれに頷いた。兄は何も言わない。私は何も言えなかった。悲しかった、とかそういうことではない。確かにそれもあったのかもしれないが、それより何より空気が重かったのだ。三つの鼻をすする音が聞こえる中、なんの知識も持たない、一番関わりの薄い私が何を言えようか。重く、苦しい空気の中、私たちは安楽死という選択肢をとった。安楽死させてあげるといえば聞こえはいいが、実際は自分の愛するものを自分の判断で殺すということだ。決めた直後、私たちは涙を流した。しばらくして少しは落ち着いた時、獣医さんに案内され、彼女が治療を受けている部屋を訪れた。横たわる彼女の足には包帯が巻かれ、それには血が着いていた。
「今から注射をします」
そう言って獣医さんは注射器を取りだした。中に何が入っていたかは覚えていない。何も入ってなかったのかもしれない。佐野所の細い腕に針が刺さった。私たちはダメだと思っていても思わず目を逸らした。自分たちが殺したのだと、奥の方から何かが僕を殴りつけていた。
「にゃー」
か細い声が響いた。私たちはその声に驚き、声の主に目をやった。彼女だ。彼女が鳴いていた。さっきまで声をかけても、撫でても反応してくれなかった彼女が鳴いていた。もがいていたのだ。その声に胸を打たれた。僕をを殴っていた何かは既に消えていて、代わりに頬を涙が滴った。私たちだけではなく、獣医さんも驚いていた。私はもがくその姿に、声を振り絞る彼女に、嘆く家族の涙に感動した。
その後、動かなくなった彼女を私たちは火葬場に連れていき、壺に骨を詰めた。私は初めて魚以外の骨を見た。彼女の骨はしっぽの部分だけ異様に綺麗だった。「しっぽはずっと大切にしていたから」母がそう呟いた。
軽いはずなのに重いその小さな骨を丁寧に詰めて言った。
これが私が本当の別れを知った日。そして感動を知った日だ。
それと比べると、隣町なんて歩いて行ける範囲だ。どれだけ手を伸ばしたところで届きはしない彼女とは違うのだから特に何も感じないのも無理はないのではなかろうか。




