それが多分初めての出会い
「すげぇ!めっちゃうまいじゃん!」
それは私の一人称が未だに僕だった頃、コンクールで受賞したんだととても嬉しそうに自分て描いた絵を見せてきた男の子に言った言葉だ。文字に起こしてみると感情が篭っていない、まるで馬鹿にしたような文書になってしまっているが、そんなことは無い。だってこれはまだ純粋無垢だった頃の私が発した言葉だ。みんなといるのが楽しくて仕方がなく、『友達』なんて不確かな言葉を笑顔で使っていた頃の話なのだ。そんな幼子が果たして自身が親友と称したものに世辞など言えるだろうか。っと、話が逸れた。まぁつまり、これは心の底からの賞賛だったとわかってくれればいい。
「めっちゃ嬉しい!」
無邪気に笑っているのは私が僕だった頃に親友だと定めた男の子だ。空が鮮やかな橙色に染まった頃、学校の校庭で練習着を着た2人は楽しそうに話していた。この時初めてこの話を聞いた、みたいな反応をしているが、実際は学校のHRの時間に担任の教員がクラスの人間にその話をしていたので2回目だ。とはいえこの時の私の席は一番後ろの一番窓際の席だったせいでほとんどその絵は見えていなかった。なのでちゃんと作品を見たのはこれが初めてなのだ。だからこの反応は間違ってはいない。と思う。なにぶん幼少期の頃の話だ。間違っていたところでさほど不思議ではない。
「どうやって描いてるの?」
私のそんな質問に彼はめっちゃ頑張ったー!と答えた。実際頑張ったのだろう。絵も習っていたようだし、彼の母親もとても絵の上手い人だ。きっと彼にも才能があるのだろう。それならば少し頑張ればかけるものなのだろう。この時は純粋にそう思った。実際に彼には才能があるのだろう。絵の上手い母親の元に生まれた、というのも絵を好きな彼にとってはとても幸運だと言える。親が絵に理解がある、というのはなかなか見れないからだ。最近はどこかのコロ助が悪さしてとある深夜アニメが流行ったことでアニメ文化というものが世間に認められつつあるが、それでも私たちの親世代はそこまで理解がある訳では無い。後で少し詳しく書くかもしれないが、私もネット通販で買った荷物が届いた時なんかは毎度毎度親が中身を見てなにこれーだの、何がいいのー?だのと聞いてくる。それ自体は悪いことでは無いのだが、心底それが好きな人からすればその目が、またその喋り方が自分の好きな物をバカにされてるような気分にされるのだ。アニメが浸透したこの頃に好きになった小さい子は違うかもしれないが、私たちのようにアニメに対する風評が非常に悪かった時期に好きになった人間は、嫌っていたであろう世代から興味の目線を向けられると、嘲笑っているように見えるのだ。
もしかしたら私の心が腐っているからそんな思考になるのかもしないが……。まぁ、ここではそれも問題にならないだろう。だってこの世界は私が作った世界だ。登場人物は実際に私があった人間を元にしてはいるが、所詮作り物である。しかも私の視点から覗いたものだ。つまり他人の価値観など今この中で私が語る分には関係の無いことなのだ。
……うん。もしかすると何よりもこの世界、所謂2次元空間を疎んでいるのは私なのかもしれない。差別される側が一番差別を意識しているせいで差別が無くならないのと同じ感じで。
閑話休題
つまりは彼の周りは彼が絵を上達させるためのより良い条件が揃っていたのだ。私が見る限りでは、だが。まぁ少なくとも私なんかよりは揃っていた。この頃はこれらを才能の一言で片付けていたが、今は少し違う。才能、確かにそれもあるのだろう。それを好きになること、好きでい続けること、上を目指し続けること、これらを含めて私は才能と呼ぶ。だから彼には才能があった。でもおそらくそれらは彼の中にあった才能のほんの一部分なのだろう。今なお伸び続けている彼の持っている本当の才能は、『努力し続けること』だった。誰にでもできると言われている努力こそが、彼の本当の凄さだったのだと今は思っている。
今現在の話も混ぜてしまったからわかりづらかったかもしれないが、これが私と絵の初めての会合。いや、絵自体との初会合という訳ではなく、絵に並以上の興味を持って、一瞬でも目を向けた、という意味でこれが初の会合と言えるだろう。何気ない学校生活で未だに私の前を私に見えないところを走り続けている彼とのある意味での出会いである。