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ひとひらの雪  作者: 杉 淳
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小夜香と十和子の物語 5章

 翌朝9時過ぎ、沢井は疲れた顔をしてやって来た。

 「おはよう、小夜。元気そうだね。時ちゃんも、おはよう。」

 「おはよう、沢井さん。疲れた顔してるけど、大丈夫?」

 「ああ、心配ないよ、大丈夫。」

 「おはようございます。今日は、何時までいられますか?」

 十和子はベッド脇の椅子を沢井に譲り、尋ねた。

 「ああ、今日も二時まではいられるかな。」

 「それじゃ。二時前に戻りますから、それまで小夜ちゃんをよろしくお願いします。」

 十和子が部屋を出て、二人だけになると小夜香が気遣って言った。

 「沢井さん、撮影、遅くまでかかったんでしょう?大丈夫?」

 「大丈夫だよ。でも本当言うと、撮影はさっきまでかかったんだ。寝ると今日も来れなくなりそうだから、そのままここへ来たんだよ。」

 沢井は、欠伸をかみ殺し答えた。

 「寝ないと体に悪いよ。そんな時は無理しなくていいから、倒れちゃうよ。」

 「もう歳だって思ってない?」

 その言葉に、小夜香はつい素直に頷きそうになる。

 「心配ないよ。それより検診は、そろそろ?」

 「ええ・・もう九時過ぎたから、そろそろ・・」

 その言葉が合図のように、とんとんとノックされ、

 「おはようございます。大下さん、具合はいかがですか?」

と、入ってきた看護師は、沢井に気づき一瞬驚いたものの、軽く頭を下げただけでチェックを始めた。

 「何かあったら呼んでください。」

 看護師が出て行くと、沢井は照れながら言った。

 「小夜、お願いがあるんだけどいいかな?」

 やがて、長い足をソファからはみ出した沢井は、小夜香の膝を枕に心地よさそうな寝息をたて、小夜香はその寝顔を飽きもせず見つめ続けていた。


 「遅くなってごめんなさい。家事に時間を取られてしまって。」

 昼過ぎに、知子は息を切らせ喫茶店へ入って来た。

 「ゆっくり本を読めましたから、気にしないでください。」

 知子は、閉じられた本を目にして呟く。

 「『がん』ね。」

 「ええ、何か参考になることが書いてないかと思って。」

 「そうね。私も何かいいことが書いてないかとは思うけれど、少し読むだけで怖くなってしまうの。」

 「わかります。実際本を読んでも辛いことだらけですから・・お母さん、無理しないでください。参考になることがあればすぐに教えますから。」

 「ありがとう。本当に読むのやめた方がいいかもしれないわね。そうなったらお願いします。」

 十和子は頷き、本をバッグに仕舞った。

 「お母さん、お昼はまだですよね、何か食べませんか?」

 「ええ、そのつもりで来たから、頂きましょう。」

 十和子が声をかけると、

 「はーい。」

と、真っ赤なメイド服の彼女がやって来た。

 「お待たせしました。何になさいますか?」

 「ピラフと食事の後にミルクティーをお願いします。」

 知子の注文に続き、十和子も、

 「私はナポリタン。それと後から、コーヒーをもう一杯。」

と注文した。するとメイドの彼女は、注文を繰り返した後も何故かその場に留まり、躊躇うように尋ねた。

 「あの、小夜香さん、今日はいらっしゃらないんですか?」

 「えっ?・・あなたも、彼女のファンなの?」

 「はい。小夜香さんの歌が大好きなんです。聞いてると、嫌な事も忘れられて・・あっ、すみません、余計なことを言って。」

 「ねえ、良ければ、お名前教えてもらってもいい?」

 十和子は、頭を下げ戻ろうとした彼女に尋ねた。

 「えっ・・加奈子と言います。あの、一つ聞いてもいいですか・・?悪性の腫瘍って本当なんですか?」

 彼女は、表情を曇らせ尋ねた。

 「ええ・・本当なの。でもね、彼女はまた歌えるように懸命に頑張っているから、どうか加奈子さんも応援してください。」

 「そうなんですね。先日はお元気そうだったので、記事を見てびっくりしたんです。よければ、小夜香さんに頑張ってくださいって伝えて下さい。」

 「ありがとうございます。その言葉、ちゃんと伝えます。」

 「すみません。余計なこと言って。すぐお食事お持ちします。」

 加奈子は、我に返りバタバタと戻っていった。

 「そうね。小夜香には応援してくれるファンの方たちが、たくさんいるのよね。本当にありがたい事ね。」

 知子は、そう言ってふっと微笑みを浮かべる。

 「小夜香は、沢井さんと、今何をしてるんでしょうね。」

 「きっと、二人ベタベタしてますよ。誰かに見られなきゃいいんですけどね。」

 「あら、嫌だ。でも、沢井さん大人だから大丈夫でしょう。」

 「二人っきりなんですから、大人の理性も吹き飛んでいるかもしれませんよ。」

 「時ちゃんたら。でもね、あの娘たちが二人になれるようにしてくれてありがとう。親のエゴだけど、こんな状況の時に沢井さんと言う素敵な恋人が居てくれて、支えてくれていることに本当に感謝しているの。そして、時ちゃんという素敵なお姉さんがいて小夜香を支えてくれてることにも、感謝しているの。ありがとう。」

 十和子は、その言葉に頭を振った。


 沢井は、昼食を運んで来る音に目を覚ました。

 「食事、ここに置いておきますね。」

 看護師は、二人から顔を逸らすようにして食事を置いていった。

 「見られちゃったな。小夜、わるい。重かったろう。」

 沢井は、小夜香の膝から頭を上げ、足を床に下すと一気に体を起こしそのまま大きく伸びをした。

 「小夜、我儘を聞いてくれて、ありがとう。最高に気持ち良く眠れたよ。」

 沢井が、キスをしようと小夜香を引き寄せると、痺れ固まった足も引きずられるように動き、ゾワゾワとした不快感が体を駆ける。

 「ああっ。」

 思わず苦痛の声が漏れる。

 「悪い。足が痺れていたんだ。起こしてくれれば良かったのに。」

 「そんなことできないよ。沢井さんの寝顔、ずっと見られたんだもの。」

 小夜香はそれで痺れが取れるかのように、沢井の背に手を回しキスを求めた。


 二十九日、二回目の抗がん剤の投与と共に、新たに放射線の治療が始まった。その日の夕方、木下がファンからの手紙を数十通持ってやって来た。

 「小夜。調子はどう?これ、ファンからの応援の手紙よ。無理はしなくていいけど、少しづつ目を通しておいて。」

 「わざわざ、ありがとうございます。先週は咳もなく調子よく過ごせました。手紙も、無理なく目を通せますし返事も書かせてもらいます。」

 「そう、良かった。じゃあ、それはお願いね。また手紙が来たら持って来るわね。」

 木下は、用件を済ませさっと帰って行った。

 この後も、ファンからの励ましの手紙は届き、それと同時に友人達も、見舞いに顔を出すようになった。十和子は、そんな時は席を外し喫茶店で過ごした。

 

 六月最初の木曜日、その日が十和子の『クイズ日本発掘』の最後の収録になった。そして翌週からのアシスタントは麻貴に決まり、スタジオには大井戸と田村も顔を並べていた。収録の最後に挨拶をした十和子に司会の村瀬が花束を渡し、その後麻貴が挨拶をして収録は滞りなく終わった。

 「十和ちゃん、お疲れさま。良く頑張って番組を盛り上げてくれたね。ありがとう。」

 「村瀬さん、本当にお世話になりました。それと、私の我儘でご迷惑をおかけして、申し訳ありません。」

 深々と頭を下げる十和子に、村瀬は笑顔で、

 「どういたしまして。こちらこそ番組の進行では、何かと助けてもらったからね。感謝してるよ。」

と答えた後、首を微かに傾けて続けた。

 「あのね、十和ちゃん、今更のことだけどね。アシスタントのオーディションの事だけど、あの時君を見てさ、なんてがちがちに力が入ってんだろうって、ちょっと笑ってしまったことを思い出すよ。本当に私一人で頑張ってますって雰囲気を、バンバン出してたもんな。でもそんな子がどう変わるんだろう?どんなことをやってくれるのかな?って気になっていたら、つい君を押していたよ。しっかりしてるのに、素人くささは抜けなくって、それが良かったと思うよ。一年良く頑張ってくれたね・・・ところでさ、十和ちゃん。ついでだから、最後に一つ聞いていいかな?」

 村瀬は、茶目っ気な表情を浮かべる。

 「えっ?はい。村瀬さん、何でしょう?」

 十和子は、そんな村瀬の表情に少し身構える。

 「あー、あのさ。十和ちゃんのさ、その男を寄せ付けない雰囲気とか、今回の小夜香さんのこととか、あるじゃない?ねっ?」

 村瀬はそこで言葉をいったん切って、十和子に顔を寄せ囁いた。

 「十和ちゃんってさぁ。レズ?」

 思わぬ言葉に十和子は驚き、同時に一瞬カッとして、持っていた花束で村瀬を叩きそうになり、危ういところで思いとどまる。

 「おっと。」

 村瀬は、笑いながら距離を取った。周りの視線が二人に集まる中で、十和子は大きく息を吸い込み声を落として言った。

 「村瀬さん、私をそんな風に見られていたんですか?最後の最後に、そんなことを言われるなんてびっくりしました。はっきり言わせてもらいます。私は、レズ、なんかじゃ、ありま、せん。」

 「いや、悪い悪い。こういう機会でないと聞けないじゃない。ここで聞かないままに、この後ずっと、もやもやするのも嫌だからさ。安心したよ。十和ちゃんが、そっちの方じゃなくって。そうか、それだったら、もっとアタックしとくんだったな。」

 村瀬は、気さくに笑いかける。

 「村瀬さん。今更そんなこと、言わなくってもいいです。私は、村瀬さんのタイプではないって、わかってますから。」

 「あれっ?それは誤解だよ。十和ちゃんみたいにきれいな子が、タイプじゃないわけないだろう?ただね、君の男を寄せ付けないバリアーは、半端無いよ。男性スタッフ皆が言ってたよ、十和ちゃんはにこにこ笑っているのに、何か話しかけづらいって。とにかくさ、これから間違えられないためにも、それに十和ちゃんに声をかけたがってる男のためにも、そのバリアーは解除すべきだね。」

 「・・あの、村瀬さん。そう言われても、私は別にバリアーなんて張っているつもりはありませんから、それを解除だなんて、どうすればいいんですか?」

 「ふーん、そうか。十和ちゃんは自分で意識してないんだ。そりゃ困ったね。そうだね。そう言えばこないだの収録で、なんだか頼りなさ気な雰囲気の君を見て、少し驚いたよ。あれが本当の十和ちゃんだったら、それをそのまま出せばいいのかな。きっと男たちは、君を守ってあげようと押し寄せて来るよ。そこらへんをちょっと考えてみるといいかな。でも、そうだな。あの姿が本当の十和ちゃんの姿なら、本当に良く頑張ったね。大変だったと思うよ。これからは君なりに、自分をだして頑張ったらいいよ。応援しているよ。」

 村瀬の優しい言葉に、十和子の目に涙が滲む。

 「村瀬さん、ありがとうございます。本音を言うと、おっしゃられる通りこの世界は少しきつかったのかもしれません。そんな私を支えて頂いてありがとうございました。後は、麻貴ちゃんをよろしくお願いします。」

 「ふふっ、十和ちゃん。あの子は大丈夫だよ。あの子は、見た目以上にしっかりしてるよ。」

 村瀬は十和子の肩をポンポンと叩いて、その場を後にした。

 「お疲れ様。」

 「ご苦労さま。」

 その後、十和子は出演者やスタッフへ挨拶をして、また彼らからの労いの言葉を受けスタジオを後にした。乗り込んだタクシーの中で、大井戸が言った。

 「十和子、本当にお疲れ様。うまく麻貴ちゃんに後を引き継いでくれて、助かったよ。ありがとうな。麻貴ちゃんもこれから宜しく頼むよ。」

「十和子さん。ありがとうございます。これから私、十和子さんをがっかりさせないように、一生懸命頑張ります。」

 麻貴は間に座る社長越しに、十和子に頭を下げた。十和子は二人の言葉を聞きながら、村井に指摘されたようにいつの間にか纏っていた鎧をこれから脱ぎ捨てられるという想いと、うまく引き継げた満足感に浸っていた。

 「麻貴ちゃん、後はよろしくね。社長には、本当に我儘言ってすみません。麻貴ちゃんに引き継げて、ほっとしています。」

 「あれ?俺には何か一言ないの?」

 助手席に座る田村が、十和子を振り返る。

 「だって。田村さん、何もしてないじゃないですか。」

 「あれあれ。俺に良くしてると、これから穴に籠る十和ちゃんに、外のいろんな情報を教えてあげられるのにな。どう?ほっぺにキスでもいいよ。」

 田村は笑って、自分の頬を指先でつつく。

 「結構です。それより麻貴ちゃんのことお願いします。」

 「本当に十和ちゃん冷たいな。色々な情報の中には、社長と美代子さんの進展状況も入っているのにな。」

ゴン!

 大井戸の拳が、田村の頭を捉える。

 「痛っ!」

 悲鳴をあげ、田村は頭を抱える。

 「おお、この距離はちょうどいいな。」

 大井戸は、たった今、田村を殴った拳を見つめて満足そうに笑みを浮かべる。

 「なあ、田村。お前、明日から俺の机の横に座れ。余計なことを言ったらこれから毎日、拳骨を見舞ってやるぞ。」

 「社長、勘弁して下さいよ。軽い冗談じゃないですか。まじで痛いですよ。社長といい、十和ちゃんといい本当に野蛮なんだから。」

 田村は、叩かれた頭をなでながら、本気でぼやく。

 そんな田村を見た麻貴の楽しそうな笑い声が、車内に響いた。

 

 十和子は、事務所の前で三人と別れそのまま病院へ向かった。

 「十和子さん、お疲れ様でした。本当にこれで芸能界を引退されるんですか?」

 十和子が一人になると、それまで黙って運転をしていた柏木が声をかけてきた。

 「ええ、多分そうなると思います。柏木さん、今日はありがとうございます。」

 「とんでもないです。わざわざ十和子さんの大切な日に呼んで頂いて、こちらこそありがとうございます。でも、そうですか、引退ですか、残念ですね。十和子さんが出る番組は、楽しみに見ていましたから、楽しみが一つ・・いえ、随分と減っちゃいますよ。」

 「柏木さん。そんなことおっしゃらずに『クイズ日本発掘』は、これからも楽しんで下さい。さっきまで一緒にいた麻貴ちゃんって娘が、アシスタントを引き継ぎますから、これからもよろしくお願いします。」

 「ああ、そうですか。わかりました。そう言うことなら、これからも楽しませていただきます。ところでこんなことを私が聞いていいものかわかりませんが、十和子さんの引退は、小夜香さんの病気の世話をされるためというのは、本当なんですか?」

 「柏木さんは、フライヤー読まれているんですか?」

 「そうですね。たまたま十和子さんの記事が載っているものは、気になってつい買ってしまいますね。半分眉唾とは思ってはいますが、それでも気になるものですから。」

 「それじゃ、私の記事で、フライヤーも一冊は多く売れてるんですね。」

 「ははっ、そうですね。すみません。余計な事をお聞きしました。」

 「いいえ、いいんです。私が引退を決めたのは、小夜香さんのことがあったからっていうのは本当なんです。でも何故そこまでするのか、その理由は違います。こんなこと言っても、信じてはもらえないかもしれませんが、私は、気が狂いそうになりかけたところを、彼女の歌に救われました。だから今度は、私が彼女を支えたいと引退を決めたんです。」

 柏木は、少し驚いた表情でルームミラーをちらっと見た。

 「すみません。興味本位で、変な事をお聞きしてしまいました。今のことは、胸にしまっておきます。ただ、どうか無理はなさらずに、ご自身の体にも気をつけて下さい。それと小夜香さんもこれから大変でしょうが、早く治られるといいですね。」

 「柏木さん、ありがとうございます。小夜香さんは私にとって、大切な親友で、そして大事な妹なんです。本当に早く良くなって欲しいと、心からそう願っているんです。」

 十和子は胸に溜まる思いを、少しだけ口にした。柏木は、ただ黙って頷く。話しているうちに、もう病院の傍まで来ていた。

 十和子は、会話の中にフライヤーの名前が出たことで、ふっと才賀の顔が頭を過る。特に今日は木曜日と思うと、つい窓からその姿がないかと探してしまう。病院の玄関に彼の姿はなく、十和子は安心してタクシーを降りた。

 「十和子さん。またいつでも声をかけて下さい。どこへでも伺いますから。それと、本当に無理をなさらないように、お元気になさっててください。」

 十和子がタクシーを見送り、病院の玄関へ向かうと

 「十和子さん。」

 背後から呼びかける声に、つい十和子は足を止め振り向いた。その瞬間、彼女をフラッシュがまぶしい光が包んだ。

 「いやいや。病院を背景にした、あなたの姿が欲しくて待っていたんですよ。その花束を持っている姿は、特にいいですね。そうか、もしかしたら、今日が『クイズ日本発掘』の最後の収録ですか?どうもお疲れ様でした。」

 建物の陰から現れた雑賀が、ゆっくり近づいてくる。

 「いやー、それにしても、そんな日にこうしてまたお会いするなんて、神様の巡り会わせかもしれませんね。」

彼は近づきながら、再びカメラのシャッターを切る。

 「十和子さんは、カメラを向けても避けないから、助かりますよ。」

 彼は笑顔を見せて、十和子の傍へやって来た。

 (まぶしい!そんなに何度も撮るな!それに神様の巡り会わせだなんて、神様に失礼だ!勝手に神様をひきだすな!)

 十和子は心の中で、才賀を激しく罵りながらも、

 「今日は何ですか。」

と、才賀の馴れ馴れしい態度を無視して、冷静に応えた。

 「いや。そろそろ小夜香さんを、撮らせてもらえないかと思いまして。どうです?彼女に話してもらえましたか?」

 雑賀の気楽なその雰囲気に呑まれないように、十和子は無表情に彼を見つめ返す。

 「まだ、彼女の決心はつかないようです。」

 「それじゃ、彼女の今の状況だけでも、教えてもらえませんか?どこか、あの喫茶店以外で、話せませんか?どうでしょう?」

 断ろうとした十和子に、例の疑問がちらっと過る。

 「ところで、才・・賀さん。あなたにお会いするのは、何故いつも木曜日なんですか?何か理由があるんですか?」

 十和子は、つい疑問を口にしてしまう。

 「ほお。木曜日の訳ですか?どうでしょう、それはコーヒーでも飲みながらお答えしますよ。」

 才賀は、嬉しそうにあらためて十和子を誘った。

 「わかりました。それじゃ、あの喫茶店で少しの時間でしたらお付き合いします。」

 「えっ?あの喫茶店ですか?あの、えー。他の店にしませんか?」

 「嫌ですか?それじゃいいです、失礼します。」

 「あっ、ちょ、ちょっと待って。いいです。わかりました。行きましょう。あそこで結構です。私は全然、問題ありません。」

 十和子は、雑賀のそんな空元気な姿をつい楽しんでしまう。

 「それじゃ、少し待っててください。」

 才賀から離れ、小夜香に電話を入れようとした時、才賀がついでのように、十和子に大きな声で言った。

 「十和子さんの携帯の番号も教えて欲しいな。前に僕のは教えましたよね。」

 「それも考えておきます。」

 十和子は才賀のどうでもいいような質問に、つい返事をした自分にイラッとしながら、小夜香に電話を入れた。

 「どうしたの?遅くなりそうなの?」

 「そうなの。少し遅くなるけど、今日はどう?少し遅くなっても大丈夫?」

 「うん。調子良いから大丈夫だけど、どうしたの?」

 「うーん。病院の入り口で、例の木曜日の男に捕まっちゃったの。話さないとついて来そうだから、コーヒーを飲む間、話をして帰るから。それで、治療は順調って話していい?」

 「そんなことでいいの?彼、何て言ってるの?」

 「小夜ちゃんの写真を撮らせるか。だめだったら、今の状況だけでも、聞かせろって。」

 「まるでやくざだね。撮らせろとか、聞かせろとか怖いよ。そんな人と二人だけで、時ちゃん、大丈夫なの?」

 「あっ、ごめん。少し言い過ぎた。もっと紳士的に話してはいるのよ、ただ私にはそう聞こえたの。安心して、大丈夫だよ。」

 「そう。でも気をつけてね。ママは用事があるって、五時に帰ったから、早く戻って来てね。」

 「わかったわ。出来るだけ早く戻るね。」

 十和子は携帯を切り、暇そうにしている才賀へ声をかけた。

 「それじゃ、今日は才賀さん、あなたの奢りで良いですか?」

 十和子は、才賀の後を距離を置いて喫茶店へと向かった。


 マスターにコーヒーを注文した十和子は、奥の席へ座るなり才賀が質問をする隙を与えず尋ねた。

 「それじゃ、才賀さん。何故あなたが木曜日にだけ、私たちの前に現れるのか、教えてください。」

 「ああ、そんなに身構えて聞かれる事じゃないんですけどね。僕はね、木曜日が休みなんですよ。ただね、休みであって、休みじゃない。くくっ、これは謎かけではないですよ。」

 才賀は、自分の言葉に面白そうに笑う。

 (ミッキーが、笑ってる。) 

 十和子は、その笑い顔に気を許しそうになるが、すぐにこの人物は油断のならない男だと、自分に言い聞かせ気を引き締める。それでも、彼を憎めない想いが残る。

 (それが彼の、ミッキーたる所以なのかもしれないな。)

 そう考え、とりあえず彼の話を聞くことにする。 

 「つまりね。呼ばれたら休みであっても、どこでも行くってことですよ。だから、三茶の時も、連絡があって出かけた。パレットタウンもね。一杯情報源はもってるんですよ。それに十和子さん、あなたに会うのは、休みの方が時間も自由に使えて都合がいい。まっ、そんなところですよ。」

 才賀は話し終えて、気取って手を広げようとすると、

 「お待たせいたしました。」

 煙のように現れたマスターが、コーヒーカップを二人の前に置く。手を広げポーズを決めようとした才賀は、中途半端な状況で驚き、気まずそうに開いていた手をゆっくり下ろし、マスターを恨めしそうに睨みつけた。

 「何で、人が気持ち良く話しているのに、こいつ邪魔するんだ。」

 十和子は、才賀のぼやく様を、顔に出さずに楽しむ。才賀はぼやいたことで気が済んだのか、すぐに気を取り直し質問をしてきた。

 「それで、小夜香さんの状況はいかがですか?」

 十和子は、才賀のペースに巻き込まれないように質問を無視して、逆に問い返した。

 「才賀さんって、おいくつなんですか?もう、結婚はされているんですか?」

 「あれ?少しは、僕に興味を持ってもらえましたか?それではこうしましょう。僕の質問に答えていただければ、こちらの事もお答えしますよ。いかがですか?」

 「それって、別に答えが聞きたくなければ、質問にも答えなくっていいってことですよね?」

 「まいったな、くそっ。前に渡した写真、一枚づつにしとけばよかった。」

 才賀は、失敗したという顔でまたぼやく。

 「ああ、才賀さん。あの写真、小夜香さんとっても喜んでいました。彼女に代わってお礼を言います。ありがとうございます。」

 十和子は、割り切って頭を下げる。

 「いえいえ。それで小夜香さんの調子は、いかがですか?」

 少し調子づいた才賀は、凝りもせずに尋ねる。

 「才賀さん、おいくつですか?奥さんいらっしゃいますか?」

 十和子も、負けじと聞き返し才賀は恨めしそうに見つめ返す。

 「わかりましたよ。才賀丈二、三十六歳。嫁さん無し、恋人一人。これでどうですか?」

 「どちらに住んでるんですか?」

 「北区の赤羽。」

 才賀はやけっぱちで答える。

 「彼女とは、一緒に住んでいるんですか?」

 「まあね。」

 「詳しい住所は?」

 「ちょっと待って。これは何ですか?取り調べ?こちらの住所を聞いてどうするんです。」

 才賀は、いい加減にしろとばかりに手を振った。

 「だって私はいつも、あなたに写真を撮られるばかりじゃないですか。たまには、撮らせてもらうのもいいのかなって。」

 「ああもう、わかりました。どうぞ好きに撮って下さいよ。ただね、住所はご自分で調べて下さい。私は教えませんよ。」

 (ふーん。彼、社長と似てるな。攻めてる時はいいけど、攻められると弱そう。あまりからかうと怒る?あっ、いけない。)

 十和子は、小夜香を待っていることを想い出し、これ以上ふててる才賀を、からかう楽しみを諦める。

 「それで才賀さん、どんなことを知りたいのですか?」

 「えっ?ああ。じゃ、まず小夜香さんの治療経過はどうなんですか?それに彼女の今の状況は?病室では、どんなことをして過ごしているんです?それと悪性腫瘍って、どこのがんなんですか?詳しいことについては、発表していませんよね、悪性腫瘍って、どこですか?あと沢井氏と現在の状況も、お聞きしたいな。」

 才賀は勢いづいてテーブルに肘をつくと、体を十和子の方へぐっと乗り出した。それに合わせるように十和子も、質問への答えをまとめようとして、体を前に預けた。それは十和子の顔が、才賀の顔に近づくことになり、才賀は意に反して身を引いてしまう。

 (あれっ?) 

 十和子は、才賀の動きに違和感を覚えるが、軽く流し質問に決着をつける。

 「小夜香さんの治療は、順調に進んでます、今、本人は早く復帰できるよう、頑張っています。病室では、ファンの方々から頂いた手紙を読んで、一人一人に返事を書いて過ごしています。後二つの質問は、私が答えることではありませんから、パスします。」

 十和子は簡潔に答えると、才賀が次の質問をする前に、さっと荷物を手に取り立ち上がった。

 「それじゃ、これで失礼します。今日はごちそうさま。」

 「あっ、ちょ、ちょっと、十和子さん。あと一つ、いや二つ。お願いがあるんです。」

 才賀は慌てて、十和子を引き止める。

 「二つも?」

 十和子は、呆れ顔で聞き返す。才賀はバッグから取り出した物を、花束を持つ十和子の左手に握らせた。

 「まず、僕が直接小夜香さんを撮れないのなら、十和子さんが、その使い捨てカメラで撮って、その写真を僕に渡すっていうのはどうです?あっ、ちょっと待ってもうひとつ。さっきお聞きした、十和子さんの携帯の番号の件、ぜひ教えて欲しいな。」

 渡たされたカメラを十和子が、返そうとするのを押し止めて、才賀は一気に自分の言いたいことを口にする。

 「わかりました。ご期待に添えるとは思いませんが、これは預からせてもらいます。ただ、写真を渡せなくても文句は言わないで下さい。それと、番号の件は却下します。それじゃ、ごちそうさま。」

 雑賀は、十和子がドアから消えるまで、その後ろ姿を舐めるような目付きでじっと追った。シュートカットの髪、白いブラウスに細身のジーパン姿、お尻がプリッと上がり、すらりとした後姿。

 「やべぇ。スタイルもいいし、めっちゃ美人じゃないか。」

 才賀は間近に見た十和子の顔を思い出し、思わず呟く。携帯の番号を聞けなかったのが本当に残念だ。才賀は少し冷めたコーヒーを口にしながら、そのことを大いに悔やんでいた。


 「遅くなってごめん。」

 「わあ、すごくきれい!お帰り。」

 小夜香は、十和子が手にした花束を見て声を上げた。

 「番組から?本当にお疲れさま。」

 「ありがとう。事務所に預けてもよかったんだけど、どうしても見せたくて持って来たの。喜んでもらえてよかった。」

 「ねえ、それで木曜日の彼はどうだった?大丈夫?」

 「それは、後からね。まずは、これをどうするか考えなくっちゃ。はい、小夜ちゃん、持てて。」

 そう言って、十和子は手にした花束を小夜香に渡した。

 「花瓶はあったよね。小夜ちゃん、花瓶に挿す分そこから、そうね、五、六本選んで。残りは明日にでも富田さんに渡して、ナーステーションに飾ってもらうから。」

 「時ちゃんが頂いたのに、私が選んでいいの?」

 「ここに飾るんだから、小夜ちゃんの好きなもの飾らなくっちゃ。」

 着替えを済ませた十和子は、小夜香が選んだ花と残りの花束を受け取り、花瓶に花を挿して窓際のサイドテーブルに置いた。

 「わあ、それだけでも綺麗だね。」

 「うん、綺麗ね。しばらくは楽しめそう。」

 「ありがとう。明日、この花を見たらママも喜ぶわ。」

 「そうね。今日も、調子良さそうね。」

 「うん。大丈夫だよ。それより、最後の収録お疲れ様でした。ねえ、後悔はないの?」

 「うん。後悔はしてないよ。芸能界って場所は、必死にしがみ付いていたとこだから、辞められてほっとしてるの。逆に、辞める理由に小夜ちゃんを使って悪いと思ってるの。ごめんね。」

 「そんなことで謝られても、困っちゃうよ。でも、落ち着いて楽しそうだったから、そんな風には見えなかったよ。時ちゃんきれいだし、テレビ映りも良いのにもたいないな。」

 「そんな外見のことじゃないの。気持ちなの。必死に頑張っていたんだよ。」

 「ふーん、そうなの。」

 「それより、これからは毎日傍にいるんだから、鬱陶しいなんて言わないで喜んでね。」

 「なーに言ってるの。思っても言わないよ。」

 「あっ、そんなこと言う?」

 「嘘だよ。時ちゃん、ありがとう。これから一緒にいられるの本当に嬉しいよ。」

 「そう言ってもらえると、嬉しいな。」

 「どうぞ、よろしくお願いします。」

 「うん、こちらこそよろしく。何でも遠慮なく言ってね。」

 「ありがとう。頼りにしてるね。」

 頷いた十和子は、立ち上がりソファーへ向かった。

 「じゃあ、木曜日のミッキーのこと話してあげるよ。」

 十和子は、ソファーに置いたバッグから何かを取り出し言った。

 「えっ?何?ミッキー?」

 「そう、ミッキーよ。」

 十和子は一人納得して頷き、ベッドへ戻ってくる。

 「もちろんミッキーって、木曜日の彼の事よ。彼の耳だけど、大っきくて横に立ってとっても目立つの。それに睫毛も長くって、目はパッチリかわいいから、どう考えてもミッキー以外に考えられないの。そのミッキーからのプレゼントだよ。」 

 十和子は、使い捨てカメラを小夜香に手渡す。

 「これってプレゼント・・じゃないよね?」

 「まあ、プレゼントじゃない・・ね。実はね、それで小夜ちゃんを摂った写真が欲しいって、無理やり渡されたの。」

 「何それ、都合が良過ぎない?いい加減なミッキーだね。」

 「そうね。それだけネタに困っているのかもね。でもね、考えたら私たち写真、全然撮ってないよね?だから、これはミッキーからのプレゼントってことで使っちゃわない?捨てるのはもったいないし、置きっぱなしも嫌だからね。それに、沢井さんとツーショットも撮ってあげられるよ。どう?」

 「それでいいの?でも・・そうね、いいよね!沢井さんとの写真って、ミッキーさんが撮ったものだけだし、時ちゃんとの写真は一枚も無いものね。使っちゃう?」

 「そうしよう。使っちゃおうよ。」

 「じゃあ、明日は沢井さんも来るから、一緒の写真、撮ってもらってもいい?」

 「もちろん。でも、ちゃんと写せるか保証できないよ。」

 「何言ってんの。それって誰でも上手に撮れるんだから、時ちゃんでも大丈夫だよ。」

 「でも?それ失礼だよ。そんなこと言うとブスなとこ狙って撮るからね。」

 「もう、時ちゃんが言いだしたんだよ。本当に捻くれてるんだから。」

 小夜香の顰めた顔は、すぐ笑顔に戻り、

 「沢井さんに、私達の写真も一杯撮ってもらおうね。なんだか明日が楽しみになってきちゃった。」

 「そうだね。それでミッキーが何故、木曜日に私たちの周りをうろつくのかもわかったよ。彼ね、木曜日が休みだって。でも、連絡があれば動くし、かえって自由がきいて都合がいいって。三茶の時もパレットの時も、連絡があって動いたって言ってたわ。」

 「それって、私たちがミッキーの休みの日に、たまたまデートをしてたってこと・・?それがわかってたら別の日に変えたのに・・でもミッキーも、休みの日はちゃんと休めばいいのにね。」

 小夜香は、もっともな感想で締めくくった。


 翌日の昼前に顔を出した沢井は、小夜香の歓迎ぶりに驚いた。それでも、説明を聞くと喜んで即席の撮影会に参加した。それぞれポーズを決め互いをカメラに収め、それは昼食が運ばれるまで続いた。   

 「今から、アパートの部屋を片付けてくるね。買い物もして来るから。沢井さん、小夜香ちゃんをお願いします。」

 十和子は、撮り終わったカメラをバッグに入れ病屋を出ると、途中のカメラ店に現像を依頼し、久しぶりにアパートへ帰った。部屋は冷蔵庫、洗濯機、小さなテーブルと椅子そしてタンスを残し、すっきりと片付いていた。そして奥の部屋の襖に寄せて、段ボールの箱が一個置かれ、その上に叔母の書き置きがあった。

 『時和ちゃんへ お疲れ様。段ボールの中には、食器が入ってます。あと私の着ていた服を、タンスに入れています。良ければ使ってね。お義姉さんの形見分け頂いて行きます。    美代子

 追伸 お世話になりました。体に気を付けて。』

 以前よりも部屋らしくなったのに、書置きを読んだ十和子はなぜかそこが寂し場所に思えてしまう。それでも、気を取り直し窓を開け放すと、梅雨の合間の気持ちの良い風がすーっと流れ込む。さっさと片付けようと気持ちは焦るものの、十和子の体は動かず、そのまま窓辺に座り込み物思いに耽ってしまう。

 (ここで、私は、小夜ちゃんに会えたら、友達になれたらってずっと考えてた。友達になれたら、渋谷で買い物をして、食事をしてその間おしゃべりを楽しんで、なんて考えてたんだ。そんな楽しいことを考えて、あの頃はまだ消すことのできなかった闇を抑えていた。それでも、こんな寂しさを感じることはなかった。もしまた、ここに暮らすことになったら、その時は孤独に怯えるの?私はまた弱くなった?)

 十和子は、強く頭を振る。

 (止めよう!こんなこと考えるの。今、先の事考えて落ち込むなんてもったいない!今は、小夜ちゃんとの時間を楽しむの・・あっ、そうだ!小夜ちゃんが結婚で家を出たなら、部屋借してもらえないかな?そうしたらお母さんもいる、お父さんもいる。いつか、お願いしてみよう。) 

 十和子は、立ち上がり叔母が残した箱の前に座り直し、中を確認した。食器は、食器棚を買ってから取り出すことにして、また仕舞い込んだ。タンスの服は、取り出してハンガーに掛け直した。片付けを終えた十和子は、クロスのネックレスに母のトパーズの指輪、そして美代子の薄いピンクのブラウスに濃紺の少し長めのスカートという出で立ちで駅へと向かった。


 沢井は、昼食に合わせ弁当を買ってきた。食後、二人はソファで寄り添い、小夜香は歌を口ずさんだ。

 「今は、お料理もできないから、歌うことしかできないね。」

 「小夜香の歌を、独り占めできるんだよ、どれだけのファンが悔しがるだろうね。それに、手料理を諦めてはいないよ。」

 「だって・・」

 小夜香の唇に、唇が重なり言いかけの言葉は消え、沈みかけた気持ちを掬い上げる。

 「入院した頃は心配したよ。でも、今はこんなに元気だよ。もしかしたら検査の結果次第では、退院って言われるかもしれないよ。」 

 「ふふっ、そうね。本当に退院できたら嬉しいな。そうしたら、お料理も作ってあげられるね。」

 「確かに気は早いかもしれないけど、楽しい未来のことを考えよう。ずっと傍にいるから、二人で頑張ろう。」

 「ありがとう。そうね。おいしいって言葉も聞きたいし、また歌いたい。そのためにも、頑張るね。」 

 「そうさ、退院したら誰が何と言おうと小夜を家へ連れて帰るよ。そして、料理を作る姿を楽しんで、ゆっくり料理を味わうんだ。それから、もう小夜を抱きしめて離さないよ。あと、皆の前で歌う小夜の姿を楽しむのもいいな。最高だな。」

 「そうね。それが叶うのなら、他に何もいらない。入院した頃は、夢なんてもう持てないって思ってたの。でも、今はもしかしたら、沢井さんともっといられるかもしれないって思えるの。」

 「小夜。そんな弱気なことじゃダメだよ。小夜が望むことは、なんでもできるから、もっと将来のことを話し合おうよ。」

 「うん。そうだね。一杯聞いてね。ありがとう。」

 微笑む小夜香は、沢井の背中に手を回し目を閉じた。午後を廻ってやって来た母がノックするまで、二人は満ち足りた時を過ごした。


 食事が終わる頃に、大きな紙袋を抱え戻って来た十和子の姿を見て、小夜香は驚きの声を上げた。

 「時ちゃん。そのスカートとっても似合ってるよ。素敵。ブラウスもかわいいし、それにネックレスも、えっ、指輪もしてるの?」

 「似合う?服もネックレスも叔母にもらったの。指輪は母のだけどおかしくない?」

 「ううん。全然似合ってる。服も何もかも時ちゃんにピッタリで、魅力的だよ。本当に時ちゃん綺麗。ねえ、ママ。」

 「ええ、本当に綺麗よ。」

 「ありがとうございます。じゃあ、褒めてもらったから、はい、これはお礼よ。」

 十和子は、バッグから取り出した写真を手渡した。

 「えっ、もうできたの?早いね。」

 「あら、それいつ撮ったの?」

 「今日、沢井さんと撮ったの。昨日、時ちゃんまた例のカメラマンに捕まって、私を撮ってって無理矢理使い捨てカメラを渡されたの。しゃくだから、それを使って楽しく撮らせてもらったわ。」

 「まあまあ。そんなもの使ってよかったの?それに時ちゃん、そんな人につき纏われて、大丈夫なの?」

 「そんなに悪い人でもないから、大丈夫です。それに、カメラを使おうって言ったのは私なんです。写真を渡す必要はないけど、捨てるのはもったいないじゃないですか。」

 小夜香は、一枚々々嬉しそうに目を通す。

 「きれいに撮れてるね。何で、今まで写真を撮ろうって考えなかったのかな。」

 小夜香は、半分ほど見終わるとそれを母に渡した。

 「そうね、家族の写真もしばらく撮ってないわね。今度パパに頼んで、皆で写りましょう。あらあら、これはパパには見せられないわね。」

 「ねえ、時ちゃん。少しはミッキーさんに、感謝しなとね。」

 「そうね。カメラがなければ、写真を撮るなんて考えなかったものね。」

 小夜香の手が、一枚の写真で止まった。

 「ねぇ、時ちゃん、ママ。この写真、彼に渡してもいいんじゃない?ちょっと見て。」

 そこには、上半身を起こし微笑む小夜香の姿が写っていた。 

 「うーん、そうね。それだったらいいとは思うけれど、でも、それはミッキーの思う壺じゃない。」

 十和子は、才賀が調子に乗りそうでそれには躊躇する。

 「今度、木下さんに聞いてみる。いいって言ったら、ミッキーさんに渡そうかな。」

 「ねえ、ミッキーって、カメラマンのこと?」

 知子が、たまらず会話に割り込む。

 「あっ、そうよ。彼って長い睫毛に目はぱっちりして大きな耳で、ミッキーにしか見えないって。ねえ、時ちゃん。」

 「そういうことなの?」

 「ええ、本当に彼、ミッキーにしか見えないんです。」

 「そうなの。でも、そうなると、いたずら好きなミッキーね。」

 あまりにもピッタリな表現に、二人はおもわず笑った。

 写真を見終わると、十和子は紙袋を持ってきた。

 「実はね。思い切ってカメラを買っちゃったの。ジャーン。」

 十和子はそう言って、紙袋から箱を取り出した。

 「すごい!デジタルカメラ?」

 「そう。お店の人に教えてもらった、最新式だよ。」

 十和子は、すぐに使えるようにセットしてもらったカメラを箱から取り出すと、また撮影会を始めた。知子が帰ってからも、二人だけで楽しみ『メモリーがいっぱいです。』という表示が出てもう写すことが出来なくなるまでそれは続いた。

 「ねえ、時ちゃん。あれにフィルムはないんだよね。現像ってどうするの?」

 「メモリーカードって言うのが、フィルムの代わりなんだって。」

 「そうなの。それでプリントはどうするの?」

 「えっ?それはわかんない。」

 今度、沢井か父にそれを聞くことにして、とりあえず、二人は満足して眠りについた。


 三回目の薬の投与の日、小夜香は手紙を持って来た木下に、さっそく例の写真を見せた。

 「その写真、フライヤーの人に渡そうと思ってるんです。」

 「えっ?急にどうしたの?乗り気じゃなかったじゃない?」

 「ええ、そうなんですけど。時ちゃんがまた、彼に呼び止められたんです。何かがあってからじゃ遅いから、早めに渡した方がいいと思って。どうでしょう?」

 小夜香は、小声で説明をした。

 「そうなの。そうね、これだったら良いんじゃないの。社長には言っておくけど、渡すのはどうするの?私が預かっていいの?」

 「たぶん、時ちゃんが連絡先を知ってるはずだから、時ちゃんに頼みます。渡す時は、母か沢井さんに付いて行ってもらいます。」

 「わかったわ。でも調子はよさそうね。検査は来週だったよね?良い結果が期待できそうね。」

 「ありがとうございます。早く戻りますから待ってて下さい。」

 「そうよ。きっと復帰は早いかもしれないわね。」

 木下は、ちょうどやって来た知子に挨拶をして帰って行った。

 その日の夕方、ひょっこりと顔を出した沢井にも写真のことを伝え、その理由に彼も同意すると、小夜香は十和子を急かして才賀に電話をかけさせた。


 「はい。」

 才賀は見慣れない電話番号に、ぶっきら棒に応えた。

 「突然すみません。十和子ですが、才賀さんですか?」

 「えっ?ああ、そうです。才賀です。十和子さん、どうしました?」  

 才賀は、思いがけない十和子の声に気持ちが一気に昂る。

 「あの、今、お話をしてもいいでしょうか?」

 「ああ、十和子さん!あなたから電話を頂けるなんて、どうぞ構いませんよ。何か良い話でしょうか?」

才賀は、我を忘れついテンション高く答えてしまう。

 「何?十和子?女なの?」

 連れだって歩いていたナオが、敏感にチェックを入れてくる。

 (しまった!こんな時になんでナオが一緒なんだよ・・あっ、俺が誘ったんだ・・) 

 才賀は慌てて携帯を手で覆う。

 「仕事の相手だよ。ちょっと黙ってな。」

 ナオにそう言って、才賀はまた携帯を耳にあてた。

 「どなたかご一緒なんですか?かけ直しましょうか?」

 「いいえ、失礼しました。大丈夫ですよ。それで十和子さん、ご用件は何でしょうか?」 

 才賀がそう応える傍から、ナオが茶々を入れる。

 「失礼しました?ご用件は?へん、何気取ってるんだい。声の調子までお上品に変えちゃって。気持ち悪る!」

 そんなナオを、才賀は手で追い払う。

 「えっ!小夜香さんの写真を頂ける!ええ、結構です!明日夕方五時ですね。わかりました。ああ、例の楽しい喫茶店で。はい、どうも助かります。いえいえ、こちらこそありがとうございます。それじゃ失礼します。」

 (ネガじゃないが、写真がもらえる!やったラッキーそれに十和子の番号も手に入った!今はこれが一番うれしいぞ!)

 「十和子って、知ってるよ。クイズ番組のアシスタントやってる子でしょう。名前珍しいから覚えているけど、あんた、勝手にそいつに逆上せたら、承知しないよ。」

 (ああ、こんな時に何故、こいつが一緒にいるんだよ。) 

 記憶に残る十和子の顔と、目の前のナオの顔を比べていると、

 バチッ!

 ナオのパンチが才賀の顔面をとらえた。

 「何デレデレしてるんだい!自分の貧相な顔見て、釣り合うかどうか考えな。この変態ねずみ男!」

 ひっくり返った才賀に、捨て台詞を残し、ナオはさっさと行ってしまった。


 うきうきとバイクを飛ばして来た才賀は、約束の十分前には喫茶店のドアの前に立ち、睨みつけるように一言、

 「くそが、こんな店さっさと潰れろ。」

と、毒づいてドアを開けた。

 昨日は、ナオの機嫌を取り繕うために安く上げるつもりの食事が、焼き肉になり散々飲まれて、財布から一万円が飛んで行った。殴られ奢らされ、わけのわからない理不尽さに昨夜は涙した。

 (まいったぜ本当に。しっかし、女の勘って怖いもんだ。今日も、帰ってからご機嫌を取らなきゃ。)

 一方で、そんなことも考えながら店に入った才賀だが、奥の席に座る十和子の姿を目にすると、切ない思いに胸が痛みナオの事は消し飛んでしまう。それも、マスターの姿を目にするまでで、薄気味悪い不快さと怒りがまた沸いてくる。何故、素敵な十和子がこんな店を好むのかと、不思議でならない。才賀は、恐る恐るアイスコーヒーを頼むとさっさと十和子の待つ席へ向った。

 「早いですね。待たせてすみません。」

 「いいえ。私が早く来たから、気にしないで下さい。」

 十和子は、微笑む。

 (ちくしょう。笑顔が、またかわいいじゃないか。ナオもかわいいと思ってたけど、格が違う。) 

 才賀は、十和子を眩しそう見つめる。

 「お待たせしました。」

 「うわっ、」

 驚きに、才賀の切ない想いは吹き飛ぶ。

 (何だこいつ、早すぎやしないか?このコーヒー、飲みかけじゃないのか?) 

 文句の一つもぶちまけようとした才賀の目は、十和子の楽しげな笑顔に吸い寄せられる。

 「どうぞごゆっくり。」

 その声も聞き流し、才賀は十和子の笑顔に釘づけになる。

 「笑って、すみません。マスターの趣味には、誰も慣れないみたいですね。それで、これがお渡しする写真です、確認して下さい。」

 真顔に戻った十和子が手渡した封筒には、上半身をベッドに起こした小夜香の写真が入っていた。才賀は手にした写真を見つめた。

 (見た目は、元気そうだな。痩せてもいないし髪も抜けてはいないか?とにかく良い笑顔だ。)

 「すみませんね、お手数おかけしてしまって。それで、小夜香さんは変わりないですか?」

 「ええ、調子はとても良いみたいです。本当にこのまま、良くなってくれるんじゃないかって、少し期待もしているんです。」

 嬉しそうな十和子の表情を堪能しながらも、才賀はカバンに写真を入れる前に、もう一度小夜香の顔を確認する。

 (へぇ、こちらも美人じゃないか。純和風ってとこか。十和子とは対照的だがいるもんだね、すげえ美人って。) 

 そう思うと、十和子への関心がむくむくと湧き起こり、

 「ところで十和子さん、恋人はいるんですか?」

と、つい尋ねてしまう。十和子の表情が、硬く引き締まる。

 「あら、今度は私がターゲットですか?」

 「あっ、いやいや。今のは、個人的な質問なんで気にしないで下さい。ただ、あなたのような美人を男がほってはいないだろうと思ったもんで、口が滑っちゃいました。」

 才賀は、十和子の警戒心を解こうと精一杯の笑顔で取り繕う。

 「気になるのなら、後をつけますか?何も面白いことはないと思いますけど。」

 十和子は冷たく言い放つと、すっと席を立った。

 「今日は私がお支払いします。どうぞごゆっくり。」

 伝票を手にした十和子は、そう言い残して去って行く。

 「まったく。せっかくのチャンスに、もっと気の利いたことが言えないのか。」

 才賀は自分を詰りながらも、その目はしっかりと十和子の後姿を追っていた。

 (今日は黒いデニムのズボンに、薄いピンクのブラウスか。まいったね、惚れちゃうぜ。おっと、またナオに気持ち読まれたら、顔面パンチだけじゃすまないぞ。)

 才賀は心を落ち着けようと、コーヒーに口をつけた。


 初めての検査の日の夕方、結果を気にかけながらやって来た沢井は。エレベーターを出てきた知子に出くわした。

 「あら、沢井さん。こんな時間に来てもらって。すみません。でも、無理はなさらないでください。」

 「お母さん、帰られるところですか?ちょうどよかった。検査の結果はどうでしたか?よければ少しお聞かせ頂けませんか?」

 沢井は、知子の手提げバックを手に取り、ロビーに向かった。

 「強引にすみません。結果を小夜に会う前に、誰かに尋ねられればと思っていたんです。お母さんに会えて助かりました。」

 「ごめんなさい。お電話ででも、ご連絡すればよかったですね。」

 沢井は、その落ち着いた表情に安堵したものの、人気のない薄暗いロビーの椅子に座るとすぐに尋ねた。

 「結果は、どうでした?」

 「ええ、肺のも他のところのも、この一週間大きくはなっていないそうです。今の薬が合ってうまく効いていると、先生はおっしゃられていました。」

 沢井は、説明を喜びと残念さの入り混じった思いで聞く。

 (大きくなってはいない・・小さくなってもいない。始まったばかりだから、今はそれで良しとしないといけないのか。) 

 「そうですか。彼女の姿を見てると、もっと良い結果を期待していました。そうですね。今はそれを喜ばないといけないですね。」

 自分に語りかけるような言葉に、知子は頷く。

 「私は、娘が今のままで過ごせるのなら、それでも良いと思うんです。このまま大きくならずに共存して、あの子が少しでも長く生きてくれないかと。最悪でも、そうであって欲しいと願っています。」

 「そうですね。小夜が生きていてくれるなら、それだけで感謝するべきですね。お母さん、引き止めてしまってすみません。教えて頂いて、ありがとうございます。」

 立ち上がった沢井は、軽く頭を下げた。

 「沢井さん。いまあの子は苦しむことも無く、あなたや時ちゃん、それにファンの皆さんに支えてもらっているんですから、本当に感謝しないといけませんね。沢井さん、これからもどうか娘をよろしくお願いします。」

 知子も腰を上げると、丁寧に頭を下げた。

 「もちろんです。これからもずっと傍にいます。安心して下さい。それじゃ、玄関まで送ります。」

 玄関を出ると、小雨が音も無く降っていた。

 「傘はお持ちですか?」

 「ええ、大丈夫ですよ。降るって聞いてましたから、こうして持ってきましたよ。」

 知子は、バックから折り畳み傘を取り出しポンと開いた。

 「お母さん。小夜には何て伝えてますか。」

 「あの子には、良くなっているから頑張りなさいと伝えています。あと、これからが副作用も出てくるかもしれないと話してます。」

 「そうですか、わかりました。気をつけて帰って下さい。」

 頭を下げると、知子は小雨降る中を帰ってゆく。雨が降っていなければ、もう少しは明るいはずの夕暮れ時。沢井の胸の中と同じ、どっちつかずの薄明の世界。知子を見送った沢井は、そんな気持ちを払うように大股で中へ戻って行く。      

 沢井のノックで、漏れ聞こえてきた楽しげな会話が止んだ。

 「お帰りなさい。」

 沢井の姿を見た、小夜香の嬉しそうな声が彼を迎える。それはもう、二人の間で普通になった挨拶。『お帰りなさい』と迎える小夜香の言葉を耳にするのが、今では沢井の楽しみになっていた。

 「ただいま。さっきお母さんに会ったよ。結果が良かったって聞いたから、嬉しいよ。」

 沢井は、十和子が譲ったベットの横に立ち、半身を起していた小夜香を抱きしめた。

 「沢井さん、何か食べられましたか?」

 「いやまだ、これからだよ。」

 「私たちはもう済ませたから、よければ何か買ってきますけど、何がいいですか?」

 「それじゃ、カツサンドとコーヒーをいいかな?悪いね。」

 「いいえ。それじゃ、小夜ちゃんをお願いしますね。」

 十和子は、バックと赤い傘を手に出て行った。

 「いつも時ちゃんには、気を使わせて申し訳ないな。」

 「そうね。でもね、退院したら一杯お礼をするから、それまでは少しだけ甘えさせてもらうの。」

 「少しだけ?そうは思えないけど、そうだな、早く良くなって彼女に歌を聴かせてあげるのが、一番の恩返しだよ。」

 「そうよね。私は素敵な人たちに支えられているんだから、本当に早く良くなって、皆に喜んでもらわないといけないね。」

 「そう、俺のためにもね。それで、早く良くなるように頑張る小夜に似合いそうなプレゼントを持ってきたよ。」

 沢井は、ポケットから取り出した細長いケースを手渡した。

 「・・いつももらうだけだね。」

 ケースを手に、呟く小夜香の唇に指が当てられる。

 「俺へのプレゼントは、俺の嫁さんになってくれることだよ。これは、その願いを込めたプレゼントだよ。開けてみて。」

 ケースには、青いサファイアのネックレスが輝いていた。沢井が掛けてくれたネックレスを小夜香は手に掬い見つめる。

 「ありがとう。願いの籠ったネックレス、大切にします。早く良くなって、お嫁さんに行くから待っててください。」

 沢井は、両手で小夜香の顔を包み込み、その目を覗き込む。

 「本当だよ。早く良くなってお嫁さんにおいで。」

 沢井は、そっと小夜香にキスをした。


 翌日、朝からやって来た沢井に小夜香を任せ、十和子が喫茶店で過ごしていると。急に、

 「時ちゃん。」

と、知子に強い口調で呼びかけられた。

 「おはようございます。」

 穏やかに返事を返した十和子に、知子は険しい表情を崩さない。

 「時ちゃん。部屋代の事、前にきちんとお話ししたはずよね。病院の費用は、部屋代も含めて私たちで何とかするって。今の病室をしばらくは使っても、他の病室に移るから時ちゃんは余計なこと考えないでって言ったはずよ。ねえ、時ちゃん。今、先月の費用を払いに行ったら支払いは済んでます、って言われてびっくりしたわよ。だめよ!そんな勝手なことをしたら。お金のことは、私たちの問題だから。あなたに迷惑をかけるわけにはいかないの。」

 知子は一気にそう告げると、バッグから取り出した封筒を十和子の前に置いた。

 「あの、ご注文よろしいですか?」

 ウエイトレスの加奈子が、その場の険しい雰囲気に呑まれおずおずとメニューを差し出す。

 「あら、加奈子さん。ごめんなさい。ミルクティーをお願いします。」

 加奈子は、注文を聞くとそそくさとその場を離れた。

 「勝手なまねをしてすみません。でも、あの部屋は私の我儘で借りています。そんな我儘の費用を、お母さんたちに支払わせる訳にはいきません。部屋代は私に払わせて下さい。お願いします。」

 十和子は、さっき支払った明細書をバッグから取り出し、置かれた封筒と共に知子に戻す。

 「これが先月の明細書です。このままでは頂けないので、収めてください。後から部屋代以外は頂きます。でも部屋代は受け取れません。どうか私の我儘を許して下さい。」

 「お待たせいたしました。」

 不意に、緊張した雰囲気に水を差す声が割り込んでくる。

 マスターは、その場の雰囲気などまるで無視して、カップを置き「ごゆっくり」と言って去って行く。二人が、顔を見合わせ思わず笑いだすと、その場の雰囲気は一気に和んだ。

 (まったく、何てタイミングなの。) 

 マスターへの感謝の気持ちを、十和子は胸の中で呟く。

 「わかったわ。とりあえず、もう一度パパと相談するわ。この件はあらためて話しましょう。」

 気が抜けてしまった知子は、封筒をバッグに戻すとミルクティーを口に運んだ。

 「時ちゃん。良く聞いて。いい?あなたは若いんだから、まだまだ長い人生があるのよ。いつお金が必要になるかわからないんだから、お金は大切にしないとだめよ。」

 「ええ。それは分かっているつもりです。だからこそ、使うのは今なんです。小夜ちゃんのために使えるなら、全て無くなっても後悔はしません。私にとって、小夜ちゃんは大切なかけがえのない存在なんです。彼女がいないと、私には何にもありません。小夜ちゃんの役に立っている喜びを、私にも分けてください。あの部屋代は払わせて下さい。お願いします。」

 その時、知子には必死に訴えかけるその姿が、何故か小さく儚ない幼子のように思えた。

 「ねぇ、時ちゃん。あなたもし・・もしも、よ。このまま小夜香が、いなくなることがあったら、どうするつもりなの?」

 知子は、それが自らを傷付ける言葉であることはわかっていても、十和子のことを想うと、どうしても口にせずにはいられなかった。十和子は、投げかけられた言葉に戦き知子の顔を凝視する。そして、ゆっくりと首を振る。

 「お母さん、今、何故そんなことを言うんですか。小夜ちゃん、あんなに元気じゃないですか。そんなこと言わないで下さい。」

 知子も、今の娘を見ているとつい、娘のがんはこのまま消えるんじゃないかと期待してしまう。でも、実際にはがんが小さくなっているわけではないし、薬も今は効いていてもいつ効かなくなるかもわからない。そんな現実から、皆が目を反らし希望だけを思い描くわけにもいかない。誰かが、現実をしっかり見る必要がある。知子は、彼女のためにも今そうする必要があると、自分に言い聞かせる。

 「時ちゃん。あなた、恋をしなさい。小夜香に沢井さんがいるように、あなたも素敵な恋人を見つけなさい。このまま小夜香だけを見ていたら駄目よ。小夜香が良くなっても、それはそれで沢井さんと結婚して、今のようにあなたたちは一緒にはいられなくなるのよ。だから自分の事もちゃんと考えなさい。ねえ、時ちゃん。どなたかいないの?気になる方?」

 十和子は、思わぬ流れに狼狽えてしまう。

 (恋人?私に?)

 彼女の歌が、事故の悪夢から救ってくれてから、十和子には小夜香だけしかいなかった。それ以前にも恋人がいたわけでもなく、十和子に恋人とか考える余地は無かった。

 「お母さん。私、どうしたら恋ができるのか、わかりません。」

 十和子が首を振る姿は、まるで幼子がいたずらを見つけられた時のようにおずおずとしていた。

 「えっ?時ちゃん。あなた今まで付き合った人、いないの?」

 知子は、意外な返事に声を上げた。

 「時ちゃん。男の人たちが、あなたみたいな美人をほっておくわけないでしょう?主人とか沢井さんとか、ちゃんと普通に話してるから、男の人と話すのが苦手なわけではないわよね?」

 「別に誰とでも話せます。でも恋人になるってどういうことなんですか?どうしたらいいのか、私にはわかりません。」

 知子は、恥ずかし気に打ち明ける十和子の姿に、ようやくこの子は本当は自分を出せない、引込み思案な子なんだと気づいた。

 (そんな子が、芸能界で必死にまるで違う性格を装い頑張ってきたっていうの?それもただ小夜香に会うために?だとしたら、小夜香の何が、彼女をそこまで頑張らせたのかしら?) 

 知子は、そんな疑問と共に十和子を愛おしく見つめた。

 「あなたが、今見せている本当の自分の姿を、そうね、半分でも出してみたら、素敵な男性がすぐにでも声をかけて来るわよ。今装っているその姿を捨てろとは言わないけれど、小夜香への想いの半分をこれから外に向けて、あなたはあなたのために恋をなさい。小夜香のためだけに、自分の全てを注ぎ込んだらだめよ。時ちゃん、あなたはもっとあの子から自由になりなさい。」

 それは、以前聞いた村瀬の言葉と重なる。

 「お母さん、私には本当の自分の姿を晒すなんて、怖くてできません。それに小夜ちゃんへの想いの半分を外に向けろとか、お母さんの言ってることが分かりません。私には難し過ぎます。」

 首を振る十和子は、皆にはわかることが、何故理解できないのかと情けない思いに沈み込む。

 「そうね。今、時ちゃんは小夜香の事で一杯一杯なのね。でもね、いつか時ちゃん、あなたにも、今私が言ったことがわかる時がきっと来るわ。今はね、小夜香といるばかりじゃだめよ。まだ、事務所には籍があるのよね。こんなこと今更だけど、少し外でお仕事をした方がいいわ。考えておいてね。」

 十和子は頼りなげに、微かに首を動かした。それは頷いたとも、首を横に振ったとも、どちらとも取れるような動きだった。


 また、薬の投与が始まり二、三日経つと、小夜香は体のだるさを訴えるようになった。そして、二回目の投与の後は起きているのがきついと、横になることが多くなった。さらには出される料理も、アイスクリームや飲み物さえも苦いと口にしなくなり、点滴で栄養を摂る日が増え、髪の毛も抜ける本数が増えていった。


 十和子は、知子に頼まれ、渋谷でロングのストレートのものと、ショートのかつらを買ってきた。そして知子は別に、普段被れるように毛糸の帽子を編み上げた。

 「おかしくない?」

 小夜香は、母が編んだ帽子をさっそく試した。

 「うん、かわいい。なかなか似合ってる。」

 「本当?沢井さんに笑われたくないから、おかしかったらちゃんと言ってね。」

 小夜香は、怠さを堪えながら鏡を見つめる。

 「小夜ちゃんこそ、見ててわかるでしょう。あなたのためにお母さんが編んだんだから、似合ってるよ。」

 小夜香がのぞき込む鏡の横には、昼食がそのまま残されている。

 「小夜ちゃん。帽子のチェックも大事だけど、点滴だけで食べないとどんどん痩せちゃうよ。まだ何もかも苦いの?」

 小夜香は、気力が尽きたようにベッドの背に寄りかかり答えた。

 「うん、まだ、苦い。ねえ、こんなことってある?食べないといけないとは思っても、食べると苦いし、吐き気もするから嫌になっちゃう。時ちゃん、ベッド元に戻してもらってもいい?」

 十和子はリモコンで、ベッドの背を横に戻した。

 「ありがとう。楽になった。ちょっと頑張り過ぎたかな。」

 小夜香は、ほっと息をつく。

 「ごめんね、心配かけて。食事、後から少し口にして我慢できるか試してみるね。本当にこれ以上痩せたくもないし、体力も落としたくないから、少しづつ頑張ってみる。」

 「そうね。できることを少しづつ試してみよう。」

 「うん。そろそろ頑張らないとね。」

 「そうね。でも、そんなこと考えられるって、少しは元気になっているの?先生、言ったよね。薬に体が慣れてきたら、副作用も軽くなってくるかもって。」

 「そうだといいな。この怠さが無くなったら嬉しいな。」

 その日、小夜香は沢井を毛糸の帽子を被り迎えた。

 「その帽子似合ってるね。お母さんの手作り?可愛いよ。」

 沢井の言葉に、小夜香は嬉しそうに微笑んだ。


 三回目の投与の日の夕方、十和子が知子を送って戻ると、寝ていた小夜香が目を覚まし、

 「時ちゃん、また、これで酷くなったらどうしよう?前と違って今度の検査、怖いよ。私の体どうなってるのかな?」 

と、母には見せない弱さを見せる。

 「心配ないよ。傍で見てると一日一日少しづつだけど、元気になってるよ。もう、体が薬に慣れて来てるんだよ。」

 十和子は、椅子をベッドに引き寄せる。

 「どう?自分でもそう思わない?今日だって、怠いってあまり言ってないよ。今こうして薬を入れてるから、二、三日は確かにきついかもしれないけど大丈夫だよ、怠さが戻ってもそれも二、三日我慢すればそんなこと忘れてるよ。食事だってそう、時間かけてもちゃんと食べてるじゃない。小夜ちゃんは、少しづつ元気になってる。苦しむのももう少しの間だよ。薬はしっかり効いてくれている。だから検査のことも心配しないの。」

 十和子は、少し痩せた手をそっと握り語りかける。

 「本当に、時ちゃんがいてくれてよかった。そうでないと、ずっと悪い事ばっかり考えてたよ。ありがとう。」

 「ううん、そんなことないよ。でもそうだよね、うつにもなることもあるっていうから、一人思い悩むよりはいいかもね。小夜ちゃんは間違いなく元気になってるよ。自信を持て。」

 「ありがとう、時ちゃん先生。うん、自信が出てきた。そうだよね、月曜、火曜までは、確かに話すのきつくって嫌な思いさせたよね。悪いなって思ってても、こうして口にもできなかったから、やっぱり良くなってるんだよね。」

 小夜香は、握られた手に力を籠め握り返した。


 七月七日の処置を最後に、放射線治療が終わった。どうしようもなかった倦怠感も我慢できるほどには収まり、放射線治療から解放された安堵感もあって、その日の午後、小夜香は以前のように十和子とのおしゃべりを楽しむ余裕さえもあった。そんな二人の会話に、知子は耳を傾けながら刺繡をしていると、遠慮気味にノックがされた。そして、ドアから友人二人が顔を覗かせた。

 「サーヤ、調子どう?」

 「お邪魔しても、大丈夫?」

 二人は、中の様子をそっと窺う。

 「あっ、ナホ、リサ、入って来て。」

 入って来る二人の代わりに、出て行こうと立ち上がった十和子に、

 「時ちゃん。もう遠慮はいらないから、このままいて。時ちゃんには、ナホとリサの友達になって欲しいの。」

と、小夜香は声をかけ引き止めた。

 「そうね。時ちゃん、小夜香の大切なお友達だから、時ちゃんもお友達になってあげて。」

 「あっ、でも・・」

 「十和子さん、どうぞいて下さい。いつも追い出すみたいで申し訳なかったし、ずっと、十和子さんともお話ししたいって思っていたんです。」

 「私もいてもらえると、嬉しいです。」

 躊躇っていた十和子は、二人からも引き止められると頷き、また椅子に腰かけた。小夜香は、座るのを待って奈穂に言った。

 「ところで、ナホ。背中に隠しているの何?」

 入って来た時から、菜穂はずっと右手を背中に回して、手にしている物を小夜香に見せないように苦心していた。ただ、それは彼女の体では隠しきれず、あちこちから緑の葉っぱが顔を覗かせていた。驚かそうと頑張っていた奈穂は、それでも小夜香に問い返した。

 「へへっ、病院だと季節も忘れるって思ったの。今日は何の日?」

 「あのね、ナホ。その答え後ろに見えてるよ。七夕だよね。」

 「もう。ちゃんと隠したつもりだったのに。はい、サーヤ。私たちはもう願い事は書いたから、あなたも願い事を書いてね。」

 奈穂が、隠していた五十センチ程の竹を差し出すと。葉と葉が擦れてざっと音を奏でる。

 「ありがとう。でもこれ電車で持ってきたの?」

 「その通りよ。他にどうするのよ。少し恥ずかしかったし、ナースステーション通る時に呼び止められたけど、喜ぶ顔を楽しみに頑張って持って来たの。さあ、願い事を書いて。お母さん、十和子さんも書いて下さい。リサ、あれ出して。」

 「ナホ、これ?」

 「違うよ、リサ。短冊。あっ、でもそれもいいか、そこに置いて。」

 亜里沙が、手にした笹を立てるために作ったらしい細い筒を取り付けた板を床に置くと、奈穂はさっそくその筒に笹を挿した。

 「さあ、これでOK。後は願い事よ。リサ、短冊。」

 奈穂は催促するように、亜里沙に手を伸ばす。

 「あん、待ってよ。そんなにすぐには探せないよ。」

 リサが探している間に、知子が声をかけた。

 「奈穂ちゃん、亜里沙ちゃん。こちらに座りなさい。外は暑かったでしょう?飲み物でも飲んで、少しゆっくりなさい。何が良いかしら?」

 「あっ、すみません。冷たいコーヒーをいいですか?何も入れなくっていいです。リサには砂糖を入れた温かいコーヒーお願いします。いいよね?リサ。」

 「すみません。それでお願いします。」

 「すぐ用意するから、座って小夜香と話でもしてて。小夜香もリンゴジュース入れましょうか?」

 「うん。少し喉が乾いてたから、お願い。」

 「ねえ、サーヤ。まだ食べると苦いの?」

 「そうなの、ナホ。でも、何故か水とリンゴジュースだけは苦くないの。不思議だよね。」

 「時ちゃんは何にする?」

 「お母さん、お手伝いしますから、自分で淹れます。」

 十和子はそう言って、椅子から立ち上がった。


 十和子は奈穂と亜里沙に飲み物を渡し、ソファーに座る知子の横に腰を下ろして、三人の会話に聞きいった。

 「サーヤ、調子は良くなったの?怠いとか、もうない?」

 一口コーヒーを口にして、亜里沙が尋ねた。

 「怠さは少しづつ治まってきてるかな。その分気分も良くなってきてる・・ねえ、この前は。せっかく来てくれたのにすぐに帰らせてしまって、嫌な思いをさせたよね。ごめんね。」

 「そんなことないから。逆に、辛い時に顔を出して悪かったって思ってるの。でもよかった、元気になって嬉しいよ。」

 奈穂が、何の嫌味もなく嬉しそうに答える。

 奈穂と亜里沙、そして小夜香は幼稚園から中学校までを共に過ごした幼馴染で、二人は小夜香にとっての数少ない友人だった。高校からは別々の道を歩んだ三人だったが、小夜香の病気のことが報道されてから二人は、時間を合わせて何度も見舞いに来ていた。身長百七十センチを超える奈穂は、最近七十キロを超えたと嘆くほどの大柄で、逆に亜里沙は中学生に間違えられそうな小柄で華奢な体をして、天然も入ったおっとりとした性格をしている。

 「サーヤ。それじゃ、ちゃんと食べてる?」

 「うん。少しずつだけど、食べる回数を増やして出された物は全部食べるようにしてるの。今は、何とか体重も落ちなくなったよ。」

 「今、何キロ?」

 奈穂が少し羨ましそうに、小夜香を見つめる。

 「それでも四十キロ切っちゃった。」

 「えーっ、すごい!」

 「ナホ。羨ましがるところじゃないよ。」

 リサが、珍しく突っ込む。

 「そうだ。これからもっと食べて、体力付けなくっちゃね。」

 奈穂は慌てて言い直した。

 「私のお肉を分けてあげたい。」

 それでも、ぼそっと奈穂は呟く。

 「そうだ、短冊!リサ出して。願い事、書いてもらわなくっちゃ。」

 奈穂は、話題を変えるように亜里沙に指示を出した。

 「ああ、そうだ。ちょっと待って。」

 亜里沙は、バッグを膝に置き中を探し、取り出した短冊の束から一枚を抜き出して小夜香に渡すと、椅子を立って知子と十和子に一枚づつ手渡した。

 「お母さんも、十和子さんも、書いて下さい。」

 「ボールペンかマジックあります?」

 小夜香にマジックを渡していた菜穂が、二人に尋ねる。

 「ボールペンはあるけど、良ければ後からマジックをお借りしようかしら。奈穂ちゃんいい?」

 「ええ、構いませんよ。」

 「それじゃその後に、私も借りします。」

 十和子がそう言ったのをチャンスとばかりに、菜穂は尋ねた。

 「じゃあ、十和子さん。待っている間に一つお聞きしてもいいですか?」

 「ええ、いいけど、何?」

 「あの、サーヤが、十和子さんの事『時ちゃん』って呼んでいるのが気になっちゃって。それって何故なんですか?」

 亜里沙も横で、私も聞きたいというように頷く。

 「ナホ、それはね。」

 小夜香が、願い事を書いていた手を止めて、代わりに答えようとすると、知子が娘を諫める。

 「小夜香、だめよ。菜穂ちゃん、時ちゃんに聞いているのよ。」

 「はーい。」

 十和子は、不満そうな返事に苦笑しながら答える。

 「奈穂さん、たいした意味はないの。私の名前は、本当は『時』と書いて時和子なの。だから、『時ちゃん』って呼んでもらっているだけなの。」

 「そうなんですね。じゃあ、これから私たちも『時ちゃん』って呼んでもいいですか?」

 「ええ、どうぞ。そう言ってもらえたら嬉しいです。」

 「じゃあ、私も「時ちゃん」って呼んでいいです?」

 「もう、だから私たちって言ったじゃない。」

 奈穂は、慌てて会話に加わった亜里沙に突っ込みをいれる。

 「あっ、そうか。じゃあ時ちゃん、よろしくお願いします。」

 亜里沙は、突っ込みが無かったかのように、早速呼びかける。

 「まったく、その天然どうにかならないの。それじゃ、時ちゃん。私たちはナホとリサって呼んでください。私はそのままじゃんって突っ込まないで下さいね。」

 「リサ、ごめん。願い事書いたから、マジック、時ちゃんに渡してもらっていい?」

 小夜香が、マジックを亜里沙に手渡した。

 「それじゃ、時ちゃん。お願いします。」

 「リサちゃん、ありがとう。」

 一旦マジックを受け取った十和子は、それを知子に渡した。

 「お母さん、先に書いて下さい。」

 「ありがとう。それじゃ、書かせてもらうわね。」

 「時ちゃんって、出身はどちらなんですか。」

 亜里沙が、また十和子への質問タイムに戻る。

 「出身は福岡なの。」

 「福岡?それじゃ『とっとっと。』ですか?」

 奈穂が口をとがらせておどけてみせる。

 「そう、『とっとっと。』よ。」

 十和子は笑って答え、書き終えた知子からマジックを受け取った。十和子が願いを書くのを待って、小夜香の分は奈穂が預かりそれぞれが短冊を笹に結んだ。小さな笹に五人の願いが揺れる。四つの短冊には『小夜香が早く良くなること』が書かれていたが、残りの一枚には、『コンサートが出来ますように』と書かれていた。

 小夜香の疲れた様子を見て取ると、

 「また、来るからね。サーヤ、頑張ってね。」

 二人の親友は、短冊の下がる笹を残し帰って行った。


 日曜日、沢井が昼前にやって来ると小夜香を彼に任せ、両親と十和子は、喫茶店に移り食事をすることにした。ただ、父はずっと不満そうな雰囲気を漂わせ、知子と十和子の会話も湿ったものになってしまう。

 「いつから、小夜香は『お帰りなさい』なんて、嫁さん気取りで彼を迎えている?」

 やっと父は、抑えられない思いを吐き出した。

 「あら、あなたは初めて聞いたんですか?もう結構なりますよ。」

 「別に悪いとは言わないが、沢井君も『ただいま』なんて、まるで夫婦気取りじゃないか。病院だぞ。場所をわきまえないと。」

 「小夜香があんな状況なんですし、個室なんだから、認めてあげてもいいんじゃないですか?沢井さんもお忙しい中、本当に仕事を控えてまで来てくれているんですから。婚約もして、もう二人の想いは夫婦とかわらないと思いますよ。他に何もしてあげられなくて、もどかしく思っているのは小夜香の方ですよ。」

 「ああ、わかっているよ。だが病院だぞ。先生や看護師さんに聞かれたら、笑われるだけじゃないか。」

 武雄はまだ言い募る。

 「そうですね。わかりました。笑われないように、ちゃんと大人として振る舞うよう注意はしておきます。」

 知子はそう言った後、十和子に告げた。

 「それで時ちゃん、来週、支払日がまたくるけど、部屋代のことは、けっして無理しないようにね。今は時ちゃんの言うように、部屋代は出してもらうけれど、大事なあなたのお金なんだから、そして私たちもまだお金に困っているわけではないから、これからもよく考えて気持ちが変わればちゃんと話してね。いい?」

 「お母さん、それにお父さんも、私の我儘を聞いて頂いて本当にありがとうございます。これからも我儘を許して下さい。」

 十和子は、しっかりと頭を下げる。

 「世の中、不思議なこともあるもんだね。お金を払ってもらってさらにお礼を言われるんだから。とにかく、今は借りておくから必要になったら、その時はいつでも遠慮なく言って欲しい。」

 「あの、それじゃお父さん。代わりに一つお願いがあります。聞いてもらってもいいですか?」

 十和子は、武雄の機嫌が良くなったのを見計らうように、考えていた頼みごとを切り出した。

 「お願い?どんなことかな?だいたいの事は断らないよ。」

 「あの、小夜ちゃんが元気になって、沢井さんと結婚をしたら、彼女の部屋が空きますよね。その時は、小夜ちゃんの部屋を貸してもらえませんか?」

 それを聞いた武雄の表情が、再び曇る。

 「もうあなたったら、いい加減にしてくださいよ。娘がお嫁さんに行くのは、嬉しい事じゃないですか、ねぇ時ちゃん。でもその話だったらいいわよ。いつでもいらっしゃい。」

 知子は、答えながらも微妙な想いに胸は騒めく。

 (どうか、小夜香を喜んで送り出せますように・・)

 明日は、二度目の検査がある。何とか少しでもいい結果を、それがだめでもせめてがんが大きくはなっていないように、知子はそう祈らずにはいられなかった。

 そこにカランカラーンとドアベルを鳴らして、温かく明るい七月の光を背景に、沢井と小夜香が店に入って来た。


 十日午後、緊張した雰囲気の中、三人は主治医の宗像が検査の結果を携えて来るのを待っていた。そして、きわめて順調に治療の効果が現れているという報告を受けた。

 その日の夕方、知子とその帰りを見送る十和子は、宗像に呼び止められ診察室でより詳しい説明を受けた。緊張する二人は、胸骨へ転移していたがんは消え、さらに肝臓へ転移していたがんも、かなり小さくなっているという説明を画像を見ながら説明を受け、その緊張感は喜びに変わった。ただ、肺については大きくはなっていないが小さくもなっていないと続く説明に、また表情を曇らせた。それでも、二人共にこのことを喜ぶべきこととして受け止めた。説明の後、知子はこの結果を慣れないメールで沢井に送った。


 十七日、抗がん剤の三クール目の点滴が始まると、回診で訪れた宗像は、この一週間様子を見て副作用が酷くなければ、通院に切り替えてはどうかと提案をした。その提案に、小夜香は顔を輝かせ、肺の状況は変わってはいないことを知っている知子も、喜びの表情を浮かべその提案に同意した。

 点滴の針が取れた小夜香は、ホッとした顔で十和子に頼んだ。

 「ねえ、時ちゃん。今夜はベッドに一緒に寝てくれない?」

 その夜、隣に横になった十和子が体を横に向けて、小夜香に、

 「よかったね。あと少しで退院・・」

 そう言いかけ、見つめ返す真剣な眼差しに言葉を飲み込む。その緊張感を湛える目と、表情はこれまで十和子が目にしたことのない張りつめたものだった。じっと視線を注ぐ小夜香と、視線を逸らすことのできない十和子の間に、静寂が漂う。その静寂を破る言葉が、小夜香の口から放たれる。

 「ねえ、時ちゃん。私、後どれくらい生きられるの?」

 それは、『ねえ、明日どこへ行こうか?』そんな普段の何気ない会話のように十和子の耳に流れ込み、その意味が理解された瞬間、十和子の体は凍りつく。さらには、考えないように閉じ込めていた恐怖が放たれ、鋭い鉤爪で心臓を締め上げる。

 「ごめんね、・・驚ろかせるつもりじゃなかったの。」

 小夜香の言葉は、遠い氷原の遥か彼方のかすかな音、風に飛ばされ届かない。ただ、認めろと暴れる恐怖を必死に抑え込むだけ。

 「小夜ちゃん、何を言ってるの。あなたは治る。治るから・・」

 やっとそう言った口は、凍り付いたように強張っている。出た言葉は、気持ちの籠らない冷たい氷の欠片。

 (このままじゃダメ。起き上って、何か支えが欲しい。) 

 起き上ろうとした肩に、小夜香の手が重しのように圧しかかる。

 「このままで聞いて・・そして教えて欲しいの。」

 その言葉に籠められた決意が、さらに重く圧しかかる。

 「退院の話がでたのは、私が、もう治療をしても治らないから?」

 十和子は、微かに頭を横に振る。

 「それじゃ・・効果は出ているの?だから退院が許されたの?私のがんは、今どうなっているの?」

 十和子は首を縦にも横にも、動かすことができない。ただ目だけが瞬きもせず、小夜香の瞳を見つめる。小夜香は、十和子の目をじっと見返し、やがて彼女をそっとその胸に抱きしめた。

 「そうか。私のがんは、良くも悪くもなっていないのよね。でも、それだけでも若い私には奇跡なんだね。」

 それは、独り言か十和子へ語ったものかは判断がつかない。十和子は、小夜香の胸に抱かれトクントクンと鳴っている心臓の鼓動を意識する。それは、小夜香が生きている証、そして十和子の中で暴れる恐怖を鎮めるおまじない。伝わる温もりと鼓動の響きの中に浸る十和子は、自分がまるで赤ちゃんから子供へ、そして少女へ、やがて大人の十和子へと、再生してゆくような不思議な感覚を味わう。

 「・・何故?」

 自分に返った十和子は、言葉を絞り出す。

 「何故?あんな質問をしたこと?それとも私が、どうしていろいろなことを知っているかってこと?」

 「・・両方。」

 十和子は、小夜香が浮かべた表情にぶっきらぼうに答える。すると、小夜香は薄笑いを浮かべ答える。

 「・・ママがバッグに入れてる本を読んだの。最近のママは部屋を出る時バッグを置いて行くから、あとは、私が本を読もうと決心するだけでよかったの。時ちゃんは、必ずバックを持って行ってたでしょう。だから、ママがバックを置いていくのは、ありがたかったわ・・・本のしおりは少しづつしか動いていなかったから、もうママより私の方が知識はあるかもね。」

 軽い感じで言ってた小夜香の目に、涙が滲むが話はまだ続く。

 「私のがんがどうなっているのか、知りたいと思ったのはね。沢村さんと退院できたらどんなことをしたいかって話合った時・・その時は、まだ悪くなる前だったから、どこかでそうできるかもって期待もして、本を手にしたの・・でも、それからどんどん悪くなるんだもの。本にも書いてたわ。もうどうしようもなくなったら、一度家へ帰すこともあるって・・だから、退院って言われた時は、どうしようもなくなって、帰れるうちに一度家に帰そうってことなのかなって覚悟をしたの・・・入院した頃は、まだコンサートができるように頑張ろうって考えていたのに・・今はね、せめて沢井さんに料理を作って、おいしいってたくさん言ってもらいたいの・・だから、後どれだけ生きられるのか知りたくなったの・・」

 言葉が途切れ、沈黙に耐えられず十和子が、何か言おうとした時、小夜香がまた口を開いた。

 「・・皆、演技が下手だよ・・・沢井さんだけ、上手に隠したのは。さすがだね。パパも、ママも、時ちゃんだって、退院を喜んでくれてても、胸に何かがつかえているのがわかったわ。だからなの、退院って言われて、自分では調子が良くっても本当は見捨てられたのかなって、焦っちゃった。そうじゃないってわかっただけでも、少しほっとした。」

 語り終えた小夜香には、覚悟を決めた落ち着いた雰囲気を纏う。

 「ねえ、知ってることを教えて。今は、ちゃんと聞けると思うの。泣いたり喚いたりしないから、本当の事を話して。」

 小夜香の言葉の一言々々が、十和子に重く圧し掛かる。十和子は、小夜香の苦しみを悲しさを理解し受け止められなかったことを後悔し、激しく己を詰る。そして、小夜香の傍に居ることに、有頂天になっていた自分の身勝手さ、さらには支えようという覚悟の薄っぺらさを炙り出され、その恥ずかしさに身もだえる。

 (私が、ここにいるのは何故?私が小夜ちゃんと一緒にいたのは、自分の満足のため?だから、彼女が悲しんでることも苦しんでることも、わかってあげられなかった!私はなんて卑劣な人間なんだ!)

 十和子は、小夜香を見ることができないまま、何とか言った。

 「・・飲み物飲んでいい?」

 何か縋るものを求め、十和子はぎこちなくベッドを抜け出し、背中に刺さる小夜香の視線に体を強張らせながら、遠い先の冷蔵庫へ重い足を運んでゆく。それでも足裏に触れる冷たい床の感触は、十和子の縮こまった感情を刺激して、少し気持ちを落ち着かせた。

 「小夜ちゃんも、リンゴジュース飲む?」

 冷蔵庫に辿り着いた十和子は、そう聞くこともできた。

 「ええ、お願い。」

 十和子は、冷蔵庫からリンゴとコーヒーのパックを取り出すと、気持ちを落ち着かせるようにゆっくりとベッドへ戻った。そして、上半身を起こした小夜香にリンゴジュースを渡すと、十和子は小夜香から距離を置くようにソファーへ座った。十和子は、ゆっくりとストローを刺し込み一口啜る。口の中に、甘く冷たい癒しが染みわたり、自分の口がカラカラになっていたことに気づいた。その一口に癒された十和子は、さらに飲んだ後に一言呟いた。

 「強いね。小夜ちゃん・・」

 その一言に、小夜香の顔はみるみる強張ってゆく。

 「・・強いなんて言わないで!」

 冷静な仮面が剥げ落ち、後ろに隠されていた死の恐怖に必死に耐える弱く脆い素顔が剝き出しになる。

 「そんなこと!そんなこと、時ちゃんに言われたくない!知ってるでしょう?私はそんなに強くなんかない!そんなこと言われたら・・もう・・もう弱音を押さえられないよ!強くなんてない!私は強くない・・・時ちゃん、怖いよ!怖いんだよ!死ぬの嫌だよ!死にたくないよ、助けて・・・助けて!助けて!」

 溢れ出る悲鳴に、十和子はなす術もなく飲み込まれてゆく。動けず固まったままの十和子に、小夜香は必死に布団をその両手に握りしめ、バラバラになりそうな心を繋ぎ止める。そして、再び剥げ落ちた仮面をその素顔の前にかざす。

 「・・ごめん・・小夜ちゃん・・・ごめんなさい。」

 そう呟く十和子は、また、小夜香の本心を見抜けなかった自分を詰る。小夜香は、布団を握りしめガチガチになった指をゆっくりと剥がし、その震える手でジュースを掴むと一口すすった。その冷たさと甘さに心癒された小夜香は、再び仮面をあてる。

 「・・だからね、時ちゃん。私は弱いってわかってるから、最後まで私を支えてくれる人が欲しいの・・・   パパやママや沢井さんには今までの私でいたいから・・私は支えてくれる人に・・時ちゃんを選んだの・・嫌だと言ってもだめだからね!」

 落ち着きを装う小夜香の言葉は、容赦なく十和子を鞭打つ。小夜香の言葉に秘められた覚悟に当てられ、十和子は竦みあがる。

 (勝手に決めるなんて、そんなのずるい!何で私なの!私はそんな覚悟なんてできてない!できてないよ!) 

 十和子が心の中で上げた悲鳴は、言葉になり溢れ出る。

 「嫌だよ!嫌だ!ずるい!そんなこと勝手に決めないで!」

 「何よ!時ちゃんってもっと強いと思ってた!ちゃんと支えるよって、言ってくれると思った!弱い時ちゃんって、嫌だよ!私を支えてよ。強くなって、強くなって、私を支えて!大丈夫だよって、私がいれば大丈夫だよって言ってよ!大丈夫だよって!大丈夫だよって!言って!」

 一度外れてしまった仮面はすぐにずれて、その隙間から本音が溢れ出す。泣き声交じりに迸る救いを求める叫びは、十和子の心を貫く。十和子は、小夜香の想いを弾き返すことも、受け止めることもできないままにボロボロに崩れてゆく。

 「小夜ちゃん、ごめんなさい。私はそんなに強くない!強くないよ!私はできない、何もできないよ!こんなの嫌だよ!」 

 十和子は頭を弱々しく振り、かすれた声を絞り出す。そして、一度は抑え込んだ恐怖が、十和子を襲う。

 (死んじゃう!小夜ちゃんが死んじゃう!小夜ちゃんが死んでしまう!嫌だ!嫌だ!小夜ちゃんがいなくなるよ!嫌だ!嫌だ!嫌だ!助けて!小夜ちゃんを助けて!誰か、誰か助けて!) 

 小夜香の死!考えることを拒否し、胸の奥深く閉じ込めてきた恐怖。久しぶりのぞっとする冷たい感覚に震えが迸る。恐怖が目の前に立ちはだかり、十和子の全てが『小夜香の死』という感情に占められる。

 「何で時ちゃんが、泣くのよ!」

 小夜香の叫び声に、びくっと体が反応し十和子は我に返る。泣いている意識はなかったのに、確かに頬は涙で濡れそぼっている。十和子は慌てて、小夜香の姿を求める。

 「おかしいでしょう!私なのよ、死んじゃうのは!泣かないで、私を助けて!何よ、大事な時に逃げ出すの!時ちゃんの弱虫!逃げないで、逃げないで助けて・・」

 叫んでいる小夜香の顔も、涙でぐちゃぐちゃに濡れている。

 「死ぬなんて言わないで。お願いだから、私を一人にしないで!生きて!生きて!生きて!生き続けて!」

 「生きたいよ!生きたいよ!生きたいよ!助けて!死にたくないよ!時ちゃん、怖い、死ぬの怖いよ。助けて・・」

 救いを求め差し出された小夜香の両手に、十和子は何もかも忘れて駆け寄り、その華奢な体を強く抱きしめた。小夜香も痛いほどに十和子にすがりつく。

 「助ける!きっと、助けてあげる!どんなことをしても助けてあげるから、生きていて。ずっとずっと傍にいて。」

 二人は、涙流れるままに互いにしがみ付くように抱きしめ合う。

 「・・・時ちゃん、痛い。」

 やがて、痛みに耐えられず小夜香が訴えた。

 「・・小夜香ちゃんも、痛い。」

 十和子も応え、それぞれの腕を緩めひしっと抱き合っていた体をぎこちなく離した。目を真っ赤にした二人は、互いの顔を見た瞬間笑い出した。一笑いした後、小夜香は涙を拭い尋ねた。

 「手術をしなかったのは、転移があったからだよね。先生から聞いてることを教えて。私に時間は、どれくらいあるの?」

 十和子は、その問いかけに首を振る。

 「先生は後どれくらいかなんて、何も言っていないわ。だからお願い、そんな事聞かないで。私たちは小夜ちゃんが、きっと治るって、元気になるって思っているの。それだけは信じて。」

 小夜香は、驚きの表情を浮かべそして頷いた。

 「信じるよ、時ちゃん・・でも知ってることは教えて。もう自分の事は、ちゃんと知っておきたいの。そう決めたから。」

 小夜香の覚悟に抗う術も無く、十和子は知っていることを伝えた。

 「がんは、本当に大きくなっていないの?それじゃ思っていたよりも、ずっといいんだ。そうだね。本当に 治るかもって期待しちゃうね。退院も出来るんだもの、尚更だね。」

 小夜香はカーテンをまだ閉じていない、暗い窓に映り込む室内の光景の先に、視線を漂わせる。

 「ソファーに座らない?」

 ソファーへ向かう十和子の後を追って、小夜香は横に座った。

 「時ちゃんの前でやっと泣けた。言いたいことも言えて、少しすっきりした。今までね、不安でどうしようもない時はお手洗いで泣いてたの。ママにも時ちゃんにも悪いと思ったし、泣いてるの見られたくなかったの。でも、もう限界なの。私は弱虫だよ。一緒に泣いてくれる人が欲しいの・・ごめんね。私の我儘で、時ちゃんを引きずり込んで。」

 小夜香は、十和子の知らないその心のうちを静かに語った。

 「私こそ、ごめんなさい。あなたを支えるために、傍にいようと決心していたのに、小夜ちゃんの覚悟に比べたらなんて薄ッペラいの。でも、支えたいって思ったのは本当なの。それでも、私は現実から逃げてただけなんだ・・身勝手にうかれてしまって・・」

 「もういいよ。そんなに自分を責めないで。」

 「ううん、もう少し聞いて。そうでないとまた、私は身勝手な想いに逃げちゃうから・・私は、小夜ちゃんが・・いなくなるなんて、考えたくなくって逃げてたの・・ずっと、小夜ちゃんがいなくなるなんて考えたくもなかった!だから、そんな想いは、胸の奥に閉じ込めてた。でもそうすればするほど、逆にそれはどんどん大きくなっていったの。そんなこと、もうわかっていたはずなのに・・今、現実が見えてほっとしてる。そうだよね、もう現実を見ないといけないんだね。都合のいいことだけ考えで、本当に身勝手に振舞ってただけなんだから、終わりにしないと・・ね。でも・・辛いよ」

 そう話す十和子の体は、小刻みに震えている。

 「身勝手だなんて、そんなことない。いつでも私の事を考えて動いてくれてたよ。それにこうして一緒にいてくれたから、私は安心していられたよ。そうじゃないと、私は不安や心細さでもっと悪くなってたよ。傍にいてくれて、どんなに救われているのかわかって。心から感謝してるから。」

 十和子は、ただ首を振る。

 「・・ねえ、時ちゃん・・どうして、こんなに私に尽くしてくれるの?私は、時ちゃんに何にもしてあげてないよ。それとも私は時ちゃんに、何かしてあげたの・・?教えてくれない?」

 小夜香が前に尋ねた時には、笑ってはぐらかされた。でも、今は話してもらえる気がした。十和子はソファーの上で両膝を抱え、ゆっくり顎を膝につけ目を閉じて、

 「私は、小夜ちゃんの歌を聴かなかったら、きっと狂ったまま死んでいた・・」

と、今まで話すことのなかった過去を語り始めた。

 「両親が事故で亡くなったことは知っているよね・・・家族で乗ってて、私だけが助かった。でも、本当は死んでいたんだと思う。顔に当たる雫の感触に呼び戻された。意識が戻った一瞬、母の顔が目に入ったの。母の顔だとわかったのに、目も鼻も口も何もかも漆黒の闇に覆われていた。その漆黒の闇に、恐怖してまた意識を失った。次に意識が戻った時、目の前に浮かぶ漆黒の顔に、私は震えあがった。ずっと闇は目の前にあって、時と共に実体を持つものになっていったの。現実にはありえないとわかってても、どんどんそれは実体を持って、いつからか私を引きずり込もうと、闇から触手まで伸びてきた。引きずり込まれた先には、死が待ち受けている、そう思い込むようにもなった。振り払うことも、逃げることもできず、誰にも話せず、助けを求めることもできなかった。でも、明かりをずっと点けて、テレビも点けっぱなしにすることで、少し闇を遠ざけられた。時間が経って、記憶から引き出した母の笑顔を闇に重ねて、蓋を出来るようになったけど、それには必死に集中して蓋を押さえ続ける必要があったの。だから、人から声を掛けられるのは恐怖でしかなかった。人が傍にいることも恐怖になった。気が狂いそうだった。ううん、多分、もう心は壊れていた・・・もう後少しで、私は狂っていた・・そんな時にね、小夜ちゃんの歌が耳に流れ込んできたの。最初は邪魔だと思った音が、歌となって私を狂気から救い出してくれた。」

 痛いほどの沈黙が降りる。十和子は背中に、手の温もりを感じ目を開けた。そこには、涙する小夜香がいた。

 「辛いこと思い出させて、ごめんね。話してくれて、ありがとう。」

 「今度は、私のために小夜ちゃんが泣いてるね。でも、今はもう大丈夫だから、泣かないで。小夜ちゃんと出会えて、もう闇は消えたから。それにここまで話したんだから、もう少し付き合って。」

 十和子は、また話し始めた。

 「事故の一年後、叔母はプレイヤーと小夜ちゃんのCDを持って来たの。彼女は私が閉じ籠る部屋の片隅に、曲を流したままそれを置いて帰って行った。その邪魔な音を止めようと、私は近づいていった。それを消そうとボタンに指を伸ばした一瞬、邪魔だった雑音が歌になって耳に流れ込んできたの『あなたにできること』が・・・」

 十和子はその時のことを思い出し、声が震える。

 「気づいた時には涙が零れて、本当に空っぽになるくらい泣いた。そして、『あなたにできること』を何度も何度も翌日まで聞き続けた。友人たちを遠ざけ、叔母も遠ざけようとした。誰からも助けてもらえないと思ってた。皆、邪魔だった・・違うのに・・助けようと皆は手を伸ばしていたのに、わかろうとしなかった・・それを歌が教えてくれた。小夜ちゃんの声は天使の声、歌は救いの愛に満ちていた・・皆が手を伸ばしてくれている。そう気づかせてくれた。漆黒の闇も、薄れていってもう闇に飲み込まれることはないって思えるようになった。この歌があれば大丈夫だって。」

 小夜香を求め、十和子は言葉を切った。

 「そうなってから、これからどう生きるのか、何をするのか、そんなことを考えると何にも思い浮かばなかった。そんな時、急に、小夜ちゃんに会いたいって思った。そうなると、もうそれしか考えられなくなって、それだけが私の支えになったの。東京に出るのも、ここで頑張れたのも、小夜ちゃんに会いたいっていう思いがあったから。でも、会えるとは思ってなかった。友達になるなんて、想像の世界の楽しみでしかなかった。だから、こうして小夜ちゃんと一緒にいることは、今でも信じられないの・・会えてよかった。小夜ちゃんが傍にいて、私はもっと救われた。小夜ちゃんは、私の天使。小夜ちゃんのためだったら、何でも出来る・・そう・・何でもしてあげないといけないんだね。」

 最後に思いつめた表情を見せて、十和子は全てを曝け出した。

 「・・なんだかくすぐったい。私は天使じゃないよ。でもね、時ちゃん。私はそんなに思ってもらえる人間じゃないけど、とっても嬉しい。私も時ちゃんと会えてよかった。本当に良かった。」

 「ありがとう。小夜ちゃんに会いたかった理由を話したら、引かれると思ってた。自分勝手な思い込みで気持ち悪いって。」

 「大丈夫だよ。ちょっと意地悪なとこも、自分勝手なとこもみんなひっくるめて大好きだよ・・でもね、弱虫は嫌い。私を支えてくれる時ちゃんでいて。」

 「・・そうだね。でも、もう少し時間が欲しい。強くなるから。小夜ちゃんを支えられるように強くなるから・・今はもう少しだけ、時間が欲しい。」

 十和子の肩の震えが、小夜香の手に伝わる。

 「いいよ。今は私が支えてあげる。時ちゃんのために歌うね。」

 小夜香は、涙を拭うと十和子に体を寄せ歌う。


  ♪ねえ 泣きつづけて涙におぼれる あなたがいるの

    少しだけ 顔を上げて あなたに一筋の光を贈るよ

     それは私の想い 触れたらきっと心温まるの

       わたしはずっと あなたの傍にいる  気づいて・・・・♪


 小夜香の声は、十和子の心を癒すように優しく包み込む。

 この夜、互いをより深く分かり合えた二つの心は強く結ばれる。十和子は、あらためて現実から目を逸らさず、小夜香を支え続ける覚悟を深め、脱ぎかけていた鎧を強く身に纏った。



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