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番外編:金木犀の記憶

番外編①クリスマスに間に合わせたかった、間に合わなかった小話です。一話完結。

「シエナ、君、香水とか使っているのかい」


 クロード様にそう聞かれたのは、イリゼを寝かしつけた後、寝室に戻ってからのことだった。

 クロード様にしては珍しい、文脈のないその唐突な問いに、わたしはやや驚きながらも首を横に振った。意図は分からなかったけれど、答えること自体は簡単な質問だった。


「いえ、特には」


「昔から?」


「はい、ほとんど、つけたことはありません」


 わたしのその返事に「そう」と何か考える風にクロード様は口元に手をやって、それからちょっとだけ考え込んでいるようだった。何か悪いことを言っただろうか、と思ったけれど、わたしはクロード様の反応を待つ。


「好まない、ということかい」


 なんとなくトーンが落ちたその声の意味も良く分からなかったけれど、わたしはそれにも首を横に振った。


「いえ、そういう年頃になってからはつけるような機会もなくて、」


 言いかけてから、元旦那様の話につながりそうになってハッとした。クロード様もたぶん、それには気づいただろうと思う。けれど、「そうかい」とその話については流してくれて、わたしは少し安堵する。このまま自分から口を開いてもあまり良いことはなさそうだな、と思って口を閉ざせば、クロード様はわたしの手を引いて寝台へと向かった。

 

 結局その晩は、クロード様がどうしてそんなことを聞いたのか分からないまま、寝台の中でぎゅっと抱きしめられながらすぐに眠りにつくことになったのだった。



*****



 後日、クロード様とわたしはとある公爵家の夜会へと招待されていた。それはクロード様の元婚約者である、ロズリーヌ・ロングウェル様のお父上、ロングウェル公爵の開いたものだった。


 ロズリーヌ様とは公務で何度かお会いしたことがあった。綺麗でスタイルの良い、けれど貴族であることをひけらかさない、雰囲気のある美人という印象の人だった。その外見からは冷たさのようなものも感じられたけれど、お話してみればとても気さくで素敵な人で、仲良くなりたいなとわたしは思っていた。



 夜会が始まる前、公爵家の控室でわたしがニカの手を借りながら支度を済ませた後、ニカは「最後の仕上げをしましょう、少しお待ちください」と言って持ってきた荷物の中を探り始めた。

 なんだろう、と思いながらもニカが戻るのを待てば、その手にははちみつのような色をした液体が入った、綺麗な装飾がされた小さな小瓶が握られていた。



「陛下が、こちらを、と」



 ニカはそう言って、わたしを見て笑った。


「香りを贈られるなんて、陛下はやはりシエナ様を独占したいのですね」


 そのニカの言葉に、先日の寝室での質問の意味が分かったような気がした。おそらく、陛下はこの間から、わたしにこれを贈りたかったのだろう。けれどわたしが香水を好んでいないかもしれない、と確認してくださったのだ。


 特に何かの記念日でもなかった。思いがけない贈り物に、わたしは嬉しくなる。物にというよりは、その陛下の気持ちに。


 わたしはそれをニカから受け取って、自分の耳の裏と手首の内側に少しだけ付けた。ふわりと香るのは、かいだことのある、甘い香り。



「金木犀の、香り」



 そう口にしてから、ああ、陛下と初めてお会いしたというあの小雨の朝、金木犀が香っていたなと思い出す。もしかしたら、陛下もそれを想ってこれを選んでくださったのかもしれない。

 二人だけしか知らないあの秘密の朝に想いを馳せると、なんだかちょっと恥ずかしいような気もしたけれど、わたしはその陛下の選んでくださった香りをまとって、陛下の元へと向かったのだった。



*****



 夜会の日。準備を終えたシエナと合流して、私は自分の中からぐっと、その場では出してはいけない気持ちが湧き出していることを感じていた。ここが王城内で、自分の主催する夜会ならば多少遅れても問題はなかっただろうけれど、これはロングウェル公爵家主催の夜会である。ロングウェル家は個人的にも内政的にも大切にしている家だし、そこは適当にはできない。自分のその気持ちを抑えながら、私は夜会の時間を過ごすことになった。


 それで、自分がこの日、シエナにこの香りをつけてもらうようにとニカにお願いしたのは間違いだったかもしれないと、少し後悔したのだった。



 香水についてシエナに尋ねたのは、その首筋からいつも香る、私を誘惑するような安心させるような不思議な香りがどこから来るものなのかを知りたかったからだった。


香水について「ほとんどつけたことはありません」との言葉に、そうか、これはシエナ自身の香りなのかと驚いた。けれど同時に納得もする。直後にべリス家当主の存在が匂わされて、私はそこで少しの嫉妬を覚えた。けれど、そのシエナの様子から、誰からも香水を贈られたことがないのだろう、ということにも気づいた。


 自分以外の誰かがシエナに香水を贈るよりも前に、自分が贈りたい。


 他の誰かから贈られる可能性などほとんどないのだけれど、私はその思いからシエナに香水を贈ろうと決めたのだった。


 けれど、問題だったのは、私はシエナ自身の香りがとても好きだということだった。香水をつけてもらったら、その香りが消えてしまうかもしれない。どうにかシエナの香りと、私が選んだ香りが両立しないものか、と考えた。


 そこで思い出したのは、あの小雨の朝の、空気に漂う金木犀の香りだった。あの日、初めてシエナと出会った日。私の発作がどうしてか収まった時に嗅いだのは、思い出せばシエナの香りと金木犀の香りがまざったものだったような気がした。

 それだ、と、私は短絡的に思った。


 それから、時々王城へと行商に来る商人にお願いして、いくつかの金木犀の香りの香水を取り寄せてもらった。その中でも、一番私が気に入って、シエナに合いそうな香りを選んだのだ。


 私の手からではなくニカに渡してもらったのは、寝室で、ではなくて、外でつけて欲しいという思いからだった。私が贈った香りをまとったシエナを、私は他の人間に見せびらかしたかったのだと思う。



 けれど、それは失敗だったな、と頭を抱えたくなった。


 なぜなら、その香りは、どうやっても私の頭に、あの小雨の朝のシエナを思い起こさせてしまったからだ。



*****



 夜会中、クロード様は珍しく、どこか落ち着かない様子だった。いつも仕事中はわたしといても仕事モードに切り替わるクロード様なのに、今日はやけにため息が多かった。もしかして、疲れているのだろうか、と心配になった。


 けれど大勢の人の前、嫌でも国王陛下は注目を集めてしまう。夜会にいても、もちろん主賓扱いである。わたしはクロード様の隣で、何かあったらわたしが体調が悪いことにして泥をかぶれば良いと思いながら、彼の体調を気遣いつつ過ごしたのだった。



 夜会も(たけなわ)、最後に主催のロングウェル公爵と、その娘であるロズリーヌ様が陛下のもとへとご挨拶へ来た。公爵は笑顔で、陛下も穏やかそうに挨拶をしている様子だったけれど、その後に陛下に話しかけたロズリーヌ様は、なんだか面白いものを見るような目でクロード様とわたしを見ていた。



「陛下、余裕のない人は嫌われますよ?」



 ロズリーヌ様にそう囁かれた陛下はぐっと悔しそうな顔を一瞬したけれど、「ご忠告どうも」と笑顔を張り付けてそう返していた。

 わたしはそのやり取りの意味が良く分からず、とりあえず力なく笑うことしかできなかったけれど、綺麗な元婚約者とクロード様のそのやり取りに、少しだけ嫉妬のような感情が浮かんだ自覚はあった。

 


 夜会はお開きになって、クロード様とわたしは王城へ帰るために同じ馬車へと乗り込んだ。陛下は馬車には侍従を乗せず、その空間には二人きり。


 わたしの隣に座ったクロード様は、まずため息をついた。それから、わたしが座っていない方へと頭を傾けて、窓にこつんと頭をもたれさせた。

 動き出した馬車の中で、かき消されそうな小さなため息だったけれど、わたしはやはり陛下の体調が気になった。



「……クロード様、今日はどうされたのですか」


 わたしがそう尋ねれば、陛下は一瞬、反応をしなかった。固まるようなその反応に、わたしには知られたくないことなのだろうかと胸が痛くなる。


 ロズリーヌ様は、分かっているのに。わたしには、分からない。


「……いえ、出過ぎたことでしたら、申し訳ありません」


 わたしが謝れば、その姿勢のままで陛下は苦笑した。それから、またため息をつく。今度ははっきりと、大きなため息だった。そして、陛下は目元を片手で覆う。


「……駄目だ、」


 それから聞こえてきたのは、小さな声で。


「……駄目、ですか?」


 意味が分からず聞き返すと、陛下はちらりとわたしを見た。


「……あの時の君を思い出してしまって」


「あの時、ですか」


 陛下は顔を、また窓の外へと向けた。表情は見えなくなったけれど、今度は口元をその手で覆っているのが見えた。

 何か、過去のわたしが陛下にとって害のあることをしたのだろうか、と不安になった。


「……14歳の、君を」


 けれど、聞こえてきたのは、よく聞けばどこか浮ついた、照れているような声だった。その言葉と声に、わたしは陛下の言っている意味を理解した。クロード様は、あの日を思い出しているのだ。


 多分、この香水のせいだ、と分かった。


「……ごめん、ちょっと、思ったよりも刺激が強くて」


 陛下はちらりとわたしの顔を見てから、また窓の外へと視線を向けた。外を見たいのではない、わたしを視界に入れないようにしているのだということを理解する。

 14歳の自分を、クロード様が王子であったことを知らずに失礼な態度をとったであろう自分を思い出すのは、恥ずかしかった。


 けれど、よく考えるとなぜクロード様が照れているのかが分からない。


「……あの、14歳のわたしが、何かを?」


 もう聞かないとそれは分からなかった。体調が悪いわけではなさそうだし、そこまで口に出してくれたのなら聞いても良いということだろう。そう思って、わたしは陛下に尋ねることにした。



「……ああ、うん、ちょっとね」


 クロード様は、言葉を濁した。

 それを見て、わたしは少し胸が痛む。


「待ってシエナ、違う」


 少し視線を下げたわたしに気づいたのか、自分ではどんな表情をしていたか意識していなかったけれど、クロード様はわたしを見て少し慌てた。


「君がどうこうじゃない、その、……」


 わたしがクロード様を見つめれば、クロード様は一度また目元を覆ってから、「あー」と小さな声を出した。なんだろう、と思いながら、わたしにあるのは不安な気持ちと、小さな嫉妬。


「……嫌いに、ならないでくれるかい」


 クロード様は言いにくそうに、わたしの目をちらりと見てそう言った。わたしが、クロード様を、嫌いになることなどあり得ない。それだけは間違いなくて、わたしは「なりません」とすぐに返事をした。

 すると、クロード様は観念したように、ゆっくりと口を開いた。


「……14歳の君を思い出して、君への愛おしさが増してしまっている」


 ふっと合った目は、どこか鋭かった。わたしを、求めるときの陛下の目。どくり、と自分の心臓が鳴るのが分かった。



「……君と再会するまでの間、私はあの時の君に、触れたくて仕方がなかったから、その、色々と考えていた時期もあって……」



 クロード様はそう言うと、顔を覆ってまた窓の外の方へと顔を向けた。言ってしまった、というような雰囲気が漂う。

 わたしはと言えば、その言葉に、ただただ驚いていた。


 クロード様がわたしを求めたのは初めから、発作が収まるから、だけではなかったということなのか。

 もしかして、最初から、そういうことをしたいと、クロード様は14歳の頃のわたしに思って――。


 クロード様の言葉の意図を理解して、わたしも一気に恥ずかしくなった。わたしの知らないところで、きっとクロード様は何度もわたしを思い描いていたのだということが分かってしまったから。


「……ごめん、気持ち悪い夫で」


 弱弱しいクロード様の声が聞こえてきて、わたしは思わず笑ってしまった。

 クロード様はそれに気づいて、わたしをそっと窺う。


「……君が金木犀の香りをまとうと、あの日に戻ったみたいで……」


 言い訳のようなその言葉は、けれどクロード様の本心だろう、ということは分かる。

 わたしの顔には、たぶん、クロード様が可愛くて笑みが浮かんでいるだろう。


「14歳の、わたしの方がお好みですか?」


 わたしはちょっと、クロード様に意地悪をしたくなってそう言った。くすりと肩を揺らせば、きっとクロード様は慌てるだろうと思ったのだ。


 けれど、そのわたしの想像は、間違っていたとすぐに気づいた。



「……いや、出会ってからの君の方が、断然好みだけど」



 先ほどまで弱弱しかったのに、なぜか一瞬でクロード様は持ち直してしまった。照れなど一切なく、今度はわたしへとぐっと近づいてきて。今度は、わたしの方が照れてしまうような距離で。



「今の君と昔の君が、本当に存在する同じ人なんだって思うと……」



 目の前にまで迫ったクロード様の顔は、今日も整っていて綺麗だった。わたしも、自分のまとう金木犀の香りに包まれながら、なんとなくあの日を思い出す。


「出会えて良かった」


 クロード様はぎゅっと、わたしを抱きしめる。

 

 あそこでうずくまるクロード様の顔を、あの時のわたしはきちんと見なかったけれど。きっと、一人で耐えていたのだろうと思うと、胸が痛くなった。わたしはあの時のクロード様を抱きしめたくて、目の前にいるクロード様を抱きしめた。


「……ありがとう」


 クロード様のその言葉が、何を指しているのかは分からなかったけれど。でも今、こうしてわたしがいることで、少しでもクロード様の幸せにつながっていれば良いな、と思った。



 それからしばらく抱きしめ合っていれば、「あー」と、唐突にクロード様はわたしの首筋で声を出した。


「どうされましたか」


 わたしが尋ねれば、また、クロード様は「駄目だ」とつぶやいたのが聞こえた。わたしはクロード様の顔を窺った。その真意を、知りたかったから。



「……今日、抱いても?」



 聞こえてきた予想もしなかったストレートなその言葉に、わたしは赤面した。けれど、クロード様はわたしのことを大切に思ってくださっているのだということは伝わった。

 わたしは、それに頷いた。



 それから、わたしたちは馬車に揺られながら、王城への岐路を進んだ。

 その中で、今日はお風呂から上がったら、もう一度、この香りをつけても良いかもしれない、と思ったのだった。

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