5 声と冷えた手
意味がはっきり分かったわけではなかったけれど、その陛下のその笑顔からは嫌な予感しか感じ取れなかった。なんと返すのが正解かと考えて逡巡すると、その一瞬の隙を陛下は見逃さなかった。
やや前のめりな姿勢になって陛下はすぐに口を開く。
「女としての君、余ってるって言ったよね」
いえ、全く言っておりません。そういう意味で言ったのではございませんと頭の中では否定したけれど、適切な言葉で失礼のないようにするためには何と伝えれば良いのかと思考が巡って、わたしの口は動かなかった。陛下から見ればおそらく、わたしはただただ固まっているように見えたはずだ。
楽しそうな陛下は、今度はソファから立ち上がってこちらへと近づいてきていた。こんな動作まで優雅なんだなと全く別のことは頭に浮かんだけれど、陛下への返答はそれではない。距離を詰められる前に何か言わないとと思って、もう考えるのを半ばあきらめて勢いで声を絞りだす。
「もうわたくしは若くありませんので、」
若さを武器にする女としての自分ではなく、経験を武器にするトラッドソン家を支える者としての自分を高めたいのだと伝えたくて出た言葉だったけれど、言葉足らず過ぎて陛下には伝わらなかったようだった。
「へえ、……君、何歳だっけ。私の方がだいぶ上だけど、それは嫌味か何かかな」
ゆらりと陛下の影が揺れた。そうではない、そうではなくて……と内心焦ったけれど、感情を表に出さないようにと過ごした9年間のせいでわたしの感情はおそらく陛下には伝わっていない。やはりただ固まっている人に映っているだろう。
「ん?シエナ」
陛下は何も言えないでいるわたしの顔を間近でのぞき込む。その整った顔にサラリと髪の毛がかかって影を作っていた。妙な圧を感じる。
存在感のある瞳にはわたしの顔が映っている気がした。それからすぐに自分の表情が取り繕えていないのではないかと不安になった。わたしは、こんな表情のままいてはいけない。
「いえ、あの、女としてのやり方しかできないのでは未熟なわたしですので」
やっとそれらしい言葉に結びつけることができて陛下を窺うと、今度は瞳が細められていた。今わたしはどんな顔をしているのか。取り繕えているのだろうかいう焦りから冷や汗が背中を伝う。
「そう、……それは確かにね。じゃあ、女としての君以外にはどんな君がいるの」
もう政治の話とは全くかけ離れていて、わたしが話すべき内容ではないのではないかと頭の片隅では思ったけれど、相手は国王陛下である。慌てているわたしの頭の大半は、陛下に尋ねられたら失礼のないように答えなければいけないという思考に占められていた。
「トラッドソン家を支える者としての自分です、この、2年間のような」
先程から余裕がなくてかなり言葉は砕けてしまっていたけれど、それに関して陛下は全く気にしていない様子だった。それどころかどこか空気が緩まったようにすら感じられる。
「そうかい、それは良いね」と陛下は頷く。良かった、分かってもらえたようだと内心胸を撫で下ろした。
しかし、予想外にも陛下は急に身体をかがめてわたしの耳元に顔を近づけた。わたしは驚いて、ただ固まる。近すぎる距離のせいで、陛下の表情はもう見えなかった。
「どっちも使えるようになると良いんじゃない、必要に応じて」
陛下の声は笑っていた。けれど、どこか底の見えない不気味な声だった。
その言葉を完全に言い終わらない内に、陛下はわたしの左腕をぐいとつかんでソファから立たせた。気づいた時には昨日と同様、わたしは陛下の腕の中に収まることになってしまっていた。
「陛下、」
身をよじるけれど、陛下は動じない。線が細く見えるのにどこにこんな力があるのかと思った。陛下相手に反抗的なことはできないと、わたしの中にいる臣下のわたしはそう言っていた。
「陛下」
また呼びかけても、陛下はしばらく反応しなかった。わたしの身体は力のこもった陛下の両腕に閉じ込められて、しばらくの間拘束され続ける。
一方で女であるわたしは「こんな自分本位な抱擁には怒っても良い」と言っていた。そして同時に「でも相手は国王陛下だし、求められているなら女であることを活用して取り入るっていう手もあるけれど」と囁く。
陛下を誘惑するという選択肢をもつ自分がいることに気づいた瞬間に、わたしは心底ぞっとした。
「女としてでもトラッドソン家の君としてでも良いけど、僕を手に入れようとは思わないの」
考えていることが読まれたのかと思うタイミングで、先ほどとは打って変わった無機質な声で陛下がそんなことを言う。
ビクリと肩が跳ねた。たった今、その思いが頭をかすめていたなんてまさか言えるわけがなかった。そして、わたしにはそんなことはできない。
そんな関係にわたしは9年間も縛られていたのだと、どこかで何かを悲しんでいる自分が言った。どうしてか、身体が震える。
「……シエナ?」
わたしの身体の震えに気づいたのか、陛下は今度は心配そうな声でわたしの名を呼んだ。それからその両腕の力が少しだけ緩められて身体の距離があいた。陛下が、わたしの顔を覗き込む。その途端、陛下の眉が下がったのが印象に残った。
「ごめん」
そう言って、陛下は完全に身体を離した。なんだか子どもみたいな声だった。今度は陛下の両手が慎重そうにわたしの両手をとる。全く力のこもっていない陛下の手は、冷たかった。
「いえ、」
言葉を続けようとしたけれど、それ以上の声を出せずにわたしは立ち尽くす。
誰にも必要とされないことが、9年間怖かった。女として飽きられたら、わたしに価値はなかった。立場で結ばれてしまった関係性がいかに不安定で悲しいものか。わたしは身をもって思い知っていた。あの家には思い入れや未練なんて全くないけれど、苦い気持ちだけがわたしの中でわだかまり続けているのだ。
求められたら嬉しいのに、いつか不要とされる時がくるかもしれないことは怖い。
求められると喜んでしまうのに、それはわたし自身を求めているのではないと知るのが怖い。
だから、誰にも頼らずに生きていきたいのに。
冷たい陛下の手がわたしの手から離れて、頭の中を流れる濁流に自分がのまれていたことにぼんやりと気づいた。
「……部屋を用意させている。君は、そっちで休むと良い」
どことなく他人行儀な声で陛下はそう言った。不思議な人だなと思った。そこまで声色に違いはないはずなのに、声で陛下の心情が分かるような気がした。今は、わたしと距離を取ろうとしているように思える。
わたしも臣下としての自分を意識した。そうすると不思議なことに言葉がするすると出てくるのだった。
「ありがとうございます。ですが、自分の部屋に帰れますのでご心配には及びません」
はっきり断ったつもりだった。けれどそれには「だめだ」とやや固い声が返ってくる。
「今の時間は私は外に出られない。君に護衛を割く余裕もない」
陛下に送ってもらう臣下なんて聞いたこともないし、護衛がいなくても1人で帰れるのにと思ったけれど、夜も深まってきている時間になっていた。普通の感覚なら令嬢を一人で外に出すことはしないのだろうとその判断に納得はできた。
父上はその辺りに無頓着だったため、自分が普通の令嬢と少しズレていることがあるのは自覚もしていた。それに、重ねて陛下に断り続けるのも気が引ける。
「……では、そうさせていただいてもよろしいですか」
改めて尋ねると、陛下はまた他人行儀な声で「ああ」と言って扉へ向かった。しばらくすると今朝お世話になった侍女が迎えに来てくれた。「頼んだ」と陛下は言い、「もちろんでございます」と侍女はにっこり笑った。その笑顔に、わたしはどこか呼吸が楽になったような気がした。
わたしは陛下に「申し訳ございませんでした」と頭を下げた。失礼な態度を取ったと思ったから。けれど陛下は何も言わなかったし、何かしらの反応をしたかもわからなかった。顔を上げた時には陛下はわたしに背を向けていたから。
侍女にそっと背中を押されて、扉へと導かれる。扉が閉まる前にもう一度、陛下の背中に向かって「失礼いたします」と頭を下げた。すぐに扉は閉められる。
扉の模様を見つめながら、陛下は何を思っているのだろうかとぼんやり思った。
それからわたしは、今朝シャワーを使った寝室へと案内された。ずっと添えられていた侍女の手は、とてもあたたかかった。




