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後日談:「おいで、イリゼ」

「ママ」


 愛らしい声がわたしを呼んだ。

 季節は秋。ここ数日で一気に、空気に金木犀の香りが広がりはじめたとある日のこと。


 窓の外は既に暗い夜。わたしは王城の居住区画に設けられた子ども部屋で、目の前にいる世界で一番大切な人を見ていた。


「イリゼ、おいで」


 小さな身体で懸命に立ち、こちらへと足を踏み出そうとする。


「ママ、マーマ」


 わたしの目を見て笑い、意志を持ってわたしに呼びかけるのを見ると、本当に人間らしくなってきていると実感する。子どもの成長とはすごいものだと思いながら、愛おしさに顔がほころぶ。


 クロード様とわたしの娘・イリゼは、数か月前に無事1歳の誕生日も迎えて、日々成長を続けていた。振り返れば出産は想像以上に大変だったし、初めての子育てで不安なこともたくさんあったけれど、今はそれを上回る喜びや嬉しさの記憶が胸に残っている。



 1歩、2歩、3歩。


 イリゼは小さな足を前に踏み出して、わたしの元へと歩みを進めようとする。けれど、途中で急に足から力が抜けたようにぼすんと尻もちをついた。

 一瞬イリゼはきょとんと固まって、それから目を見開いてわたしを見た。すると視線が合って数秒、くしゃりとその表情が崩れる。

 かなりはっきりとしてきた顔立ちは、間違いなくクロード様に似ている。ああ、クロード様も泣きそうなときこんな顔をしていたなと思い出されて感慨に浸りかけ、けれど目の前のイリゼが泣き出したのでそうする暇はなかった。


 その泣き顔すら可愛くて、思わず笑いながら、「びっくりしたね」と大人では数歩の距離を駆け寄って抱きしめれば、「ママぁ」とひしりとイリゼもわたしに密着して、すぐに落ち着いた。


「あ、あー」


 何かを求める声に、背中をとんとんと一定のリズムであやせば、今度はご機嫌そうな声で「あい」と笑う。


「イリゼは今日もかわいいですねぇ」


 ぎゅうと抱きしめれば、「きゃあ」とまた嬉しそうだ。

 ドクタードゥノワからも、小児の専門医からも、発達はある程度順調と言われている。あれやこれやと初めての育児は分からないことだらけだけれど、頼れるドクターもいれば、わたしが王妃としての実務でイリゼとの関りが難しいときにお世話をしてくれるニカを始めとする侍女もいる。とても有り難い環境で子育てに臨めていると、改めて実感する。今も、侍女のアンバーがそばでわたしたちを見守ってくれていた。

 

 そして。


 そのタイミングで部屋の扉がコンコンと軽くノックされ、こちらが返答をしないうちに扉を開けて顔をのぞかせたのは、わたしの最愛の人、クロード様だ。



「シエナ、イリゼ」


「クロード様、おかえりなさいませ」


 わたしがイリゼを抱き上げてクロード様を出迎えれば、イリゼはクロード様に「あい」と言いながら手を伸ばした。イリゼはママ、は言えるけれど、パパはまだ言えない。けれどおそらく歴代の国王陛下とは異なり、クロード様はかなり積極的にイリゼの育児に関わってくださっている。イリゼもパパを認識していて、他の人のことは嫌がることもあったけれどクロード様のことはこれまで嫌がることはなかった。



「おいでイリゼ」


 そう言ってクロード様もイリゼに手をのばして、慣れた手付きでイリゼを抱きあげる。この最愛の人ふたりが幸せそうに触れ合う姿を見るのは、この世での最上の幸せなのではないかと最近思うのだ。


 「今日はたくさん遊んだかい」と優しい顔でクロード様はイリゼに問いかけて、イリゼはクロード様の着ている服をつまんで遊び始める。「イリゼは手先が器用だね」と声をかけると好きにさせながら、クロード様はわたしへと視線を向けた。


「さっき来客があったと聞いた。顔を出せずすまなかったね。問題なかったかい」


「はい、皇太后様がイリゼにとそれを持ってきてくださって」


「ああ、母上か。本当にイリゼが好きだね」


 クロード様は苦笑してから皇太后様が持ってきてくださったイリゼのおもちゃを見る。はじめの頃はクロード様がわたしに関係を強要しているのではと考えていたであろう皇太后様は、時々偵察するかのようにここにやってきてはわたしの状況を確認してくださっていた。けれどイリゼが生まれてからは彼女の(とりこ)で、今日のように贈り物を見繕っては直接渡しに来てくださるようになっている。


 クロード様の口から出た自分の名前に、イリゼは「あい」と言って、だんだんと大人の話していることも所々理解しているような素振りだ。


「周りから『次は男の子を』と言われても、気にしなくて良いのよと心配してくださって」


 皇太后様との関係はおそらく良く、顔を合わせれば今も色々なことを心配してくださることが多かった。元々心配性なのかもしれない。実の両親からそうして直接的に心配された経験があまりないので、わたしにとってはとても新鮮だった。


「……世継ぎのことは牽制もしてるんだけど、やはりしつこく言ってくる者もいるか」


 血筋が第一で例外はあるとは言え、これまでは基本的に世継ぎとしては男性が求められてきたのだ。それはすぐには変化しないだろう。けれどイリゼを大切そうに見ているクロード様は、その変革を進めようとしている。



 「あー」とイリゼは声を上げてから、くわりと大きなあくびをした。今日のお昼寝は少し短めだった。そろそろ眠くなる時間だろう。


「イリゼ、ねんねしに行こうね」


 わたしがイリゼにそう言えば、イリゼは「やい」と拒否のような言葉を浮かべてから目をこする。意思表示なのかは分からないけれど、最近応答性が本当に高くなったと思う。クロード様はその返事を聞いて笑いながら「嫌なのかい?」と背中にぽんぽんと手を添える。

 イリゼはそのクロード様の手に、なんとなくとろんとした顔になっていく。クロード様の腕の中で安心するイリゼに、わたしも優しい気持ちになる。


「このまま私が寝かしつけて来るよ、シエナは先に寝室にいて」


 ここで交代しても良いけれど、クロード様もおそらくイリゼとのふれあいの時間が欲しいのだろう。わたしが「お願いします」と言えば、クロード様は「起きててくれると嬉しいけど」とわたしに笑ってから、そばに控えていたアンバーを伴ってイリゼの寝室へと向かった。



 歴代の王妃は、乳母や育児のための侍女に子どもの世話の大半を任せて公務を行うことが多かったようだった。けれど、わたしは自分でイリゼを育てたいという気持ちを強く持っていた。クロード様も最初からそれを予想していたようで、外せない公務があれば時には離れることがあっても、現状わたしはイリゼの子育てにほとんど専念している。もちろんひとりでは無理で、周囲に手伝ってもらうことは多いのだけれど。


 そしてクロード様は国王陛下として多忙な仕事もこなしながら、イリゼにも関わってくださっている。お疲れだろうと思うけれど、わたしと同様にイリゼが癒しでもあるようだった。そんな二人の背中をなんと表現すれば良いのか、くすぐったいような気持ちで見送ってから、わたしはクロード様と自分の寝室へと向かった。




「すぐに眠ったよ、今日もイリゼをありがとう」 


 クロード様が寝室へと戻ってきたのは、それから30分程後だった。ソファに腰掛けているわたしに、クロード様はそう声をかけてくださる。もう1年半ほどの期間をクロード様のそばで過ごしているけれど、やさしさとマメさは変わらない。いや、変わらないどころか日々増していっているような気さえしている。

 

 イリゼがかなり長い時間まとまって睡眠をとるようになったこともあり、最近イリゼとわたしたちは別々の部屋で寝ることになった。夜の間はイリゼのことは育児のための侍女が見てくれている。

 

「いえ、可愛いイリゼを堪能していますので」


 クロード様は「そうかい、イリゼの可愛さには同意するけど」と笑いながら寝台に置いてあった寝間着へと着替える。その行動から今日はもう寝台に入るつもりのようだと分かって、わたしも移動して先に寝台へと座った。わたしは陛下を待っている間に、すでに自分の支度は済ませていた。

 

 始めの頃はイリゼもこの夫婦の寝室で寝起きしていたのだけれど、睡眠間隔が短かったり夜泣きが酷かったりという時期もあり、クロード様のお仕事に差し支えないようにと次第にわたしがイリゼの寝室で寝起きを共にするようになった。クロード様がとにかく休めるようにという配慮をしたつもりだった。けれど。



 着替え終わると、クロード様も寝台をぎしりと言わせながらわたしの隣に座った。そして、クロード様はわたしの身体に布団をかけて、横になるようにと促す。


「……君をとられたという気持ちになる父親は、大人気がなさすぎるかい?」


 眉を下げながらそう言うクロード様は、可愛く見えた。イリゼの前では、決して見せない顔。


「どうでしょう」


 わたしが笑えば、クロード様は面白くないという表情で急にわたしを抱き寄せる。片腕はわたしの枕になり、クロード様のもう片方の手はわたしの腰を抱く。あたたかくて心地良かった。わたしもクロード様の身体に腕を添わせる。イリゼがすぐに眠たくなってしまうのも頷ける。クロード様の胸にすり、と顔を寄せて目を閉じれば、わたしもすぐに眠れてしまいそうな気がした。


 けれど直後、摺り寄せた額に触れた熱くて柔らかい感覚に、わたしはクロード様の顔を窺うことになった。


「イリゼは可愛い、世界で一番大切だと思うのに、……君はいつもその上を行く」


 はあ、となぜかクロード様はため息をついている。今度はクロード様が目をつぶって、全く警戒心のない穏やかなその整った顔立ちを眺める。ああ、好きだなあと思いながらしばらく眺めていると、クロード様は腰に回した手に力を込めた。ゆっくりとクロード様の目が開いて、その瞳がわたしの視線を捕える。



「……君は、二人目は欲しいかい」



 先ほどよりも小さいその声は、どこかわたしを気遣うような、言いづらそうな響きを含んでいた。

 ……もしかして、皇太后様が言っていたことを気にされているのだろうか。そう思って、わたしは少し考えてから返答する。


「男の子が欲しいというわけではありませんし、世継ぎを作らなければということも思いませんが……」


 変革をしようという展望はあるけれど、皇位継承問題は当面の間はどうなるか結論は出せないだろう。けれど、男の子がいないといけないとはわたし自身は思わなかったし、わたしにそう思わせてくれているのは他でもないクロード様だ。

 言葉を一旦区切れば、クロード様は続きを促すように口を結びながらわたしを見つめていた。


「けれど、尊い存在が増えてイリゼにも兄弟がいたら素敵かな、とは思います」


 イリゼの可愛い姿を思い出して顔がほころぶ。おそらく皇太后様の思惑があるのだと思うのだけれど、クロード様に兄弟はいない。けれど、わたしは兄弟にたくさん助けられてきている。

 その言葉を聞いたクロード様は、なぜかぐいっと私の頭を自分の胸元へと押し付ける。予想できなかった唐突なその行動にやや驚きつつも、わたしはクロード様の心音をそこで聞いた。


 そして気づく。いつもより、その音が少し早い気がする。

 

 クロード様の心音に巻き込まれるかのように、わたしの鼓動も少し早くなった。そうすれば、それまで安心と思っていたその体温が、急に熱を帯びたように感じた。


 わたしがちらりとクロード様を窺えば、彼はわたしの頭に置いた手の拘束を解く。視線が合う。


「……いや、子どもを()()に使うものでもないね」


 どこか反省のようなニュアンスでまたため息をついてそう言ったクロード様の目は、想定した通り、わたしを求める熱が宿っていた。



「シエナ」



 名前を呼ばれると急に恥ずかしくなった。クロード様との関わりから、最近はずっとじわりと温かい気持ちを得ることが多かった。イリゼを宿した時以来、クロード様はこの1年半以上わたしを()()()()()に求めては来なかったのだ。クロード様がわたし自身を求めることはもうないのかもしれないと、どこかさみしく思いながらも子どもが生まれたらそういうものなのだろうと思っていたけれど。


 わたしは目を閉じる。また、愛してもらえるのかもしれない。自分がそう思ったことに内心動揺しながらも、そこにあるのは期待だった。

 クロード様の唇が、わたしの唇をふさぐ。優し気に触れるいつものキスと明確に違うそれは、とても長くて深かった。それだけで、身体の芯がしびれるような感覚がした。



「……そろそろ、駄目かな」


 唇がほんの少しだけ離れて、クロード様はすぐそこで吐息をはくように小さな声でわたしに言った。圧倒的なその熱量に、顔が熱くなるのを感じた。おそらくわたしの顔は赤くなっているだろうと思う。


 もしかして、クロード様は今まで待っていてくださったのだろうか。直観的にそう思って、そしてそれはおそらく正しい勘なのだろうと思った。

 ドクドクとなり始めた自分の鼓動を感じながら、わたしはクロード様の唇に自分のそれを重ねる。

 不思議な感覚だった。恥ずかしさや少しの不安もあるけれど、この人に触れてもらえることが、とても幸せで。後から考えれば、あの時はひたすらに気を張って、緊張していたのだ。関係性を積み重ねて触れ合うのは、こんなにも幸せなのかとめまいがしそうだった。


「もう、君を傷つけない」


 宣言のようなクロード様のその声は、わたしとは反対に緊張しているような色を帯びていた。気づかなかったけれど、もしかしたらこの1年半程の間、この人はこうやってわたしに触れることにためらいがあったのかもしれない。

 わたしはクロード様に添えていた手にぎゅうと力をこめる。そのためらいに、伝わってほしかった。わたしもクロード様を求めていることを。



「……ただ、余裕はないんだ、悪いけど」


 情けなさそうな声で、けれどどこか開き直ったようなようにも聞こえたその言葉にわたしが返事をする前に、クロード様はまたわたしの唇をふさいだ。

 

 気づかいはあっても迷いのないクロード様に、わたしの想いは伝わっているのだろうと思えた。わたしはクロード様の思いを受け止めて応じる。反対に、クロード様もわたしの想いを受け止めて応じてくれる。


 ああ、幸せだなあと思った。けれどそれに浸る余裕はなく、わたしはクロード様の熱に圧倒されながら、すべてを溶かされていくのだった。




 番外編の更新にまでお付き合いいただき、ありがとうございました!

 この直後の大人なエピソードをムーンに掲載しました。(『国王陛下に捧げる、二度目の初夜は果てなく甘く』 https://novel18.syosetu.com/n1691hj/ )


 ご興味のある大人の方はぜひ、そちらも読んでいただけると嬉しいです。本当に、ひたすらふたりが甘く夜を過ごすお話です。幸せそうで良かった。

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