3 相応しさと「らしさ」
ニカはとりあえずわたしが危なくないようにとその場でわたしを横にしてから、「ドクターを呼んでまいります」と言って急いで部屋を出た。医務室にいたであろうドクタードゥノワがすぐに来てくれて、わたしをひょいと抱き上げて寝台に寝かせてくれた。
ドクターの指示でニカが水を持ってきてくれて、それをゆっくりと含めば気持ち悪さは少しだけマシになる。くらくらとしためまいは横になると少し収まるようだった。
わたしがふうと息をゆっくり吐くと、あまり表情の豊かでないニカが珍しく心配そうな表情を浮かべていた。心配をかけてはいけないと、わたしは笑顔を作った。
「大丈夫、……この時期でもまだつわりが起きるのね」
わたしがそう言ってドクタードゥノワを見れば、ドクターは頷く。
「人にもよるみたいですが、妊娠中はいつ起きてもおかしくはない。ただ、今日は疲れていないはずがない、王妃様。疲労から明日以降も続くようなら、産科の医師を呼びましょう」
懐妊を公にした今、定期健診はドクタードゥノワではなく専門の産科医に見てもらうことになっていた。わたしは頷いてから、「少し寝るからしばらくひとりにしてくれる?」とニカにお願いした。
そしてしばらく、本当に眠っていた。疲れていたし、身体も休息を求めていたようだった。
意識が浮上したのは、ふと、わたしの頬に温かくて安心する何かが触れたからだった。
ゆっくりと目を開ければ、そこにはわたしの顔を覗き込んでいる陛下がいた。薄暗くてはっきりとは表情が見えない。外はすっかり暗くなっているようだと分かって、それなりに長い時間眠っていたのかもしれないと思った。
「陛下」
二人のときは名前で呼んでほしいと言われているけれど、まだしばらくはスムーズにできそうにないなと口に出してから思った。
「具合はどうだい」
心配そうな声だった。それを聞くとまた、無意識に心配させてはいけないと言う思考が働いた。笑顔を作って、上半身を起こそう、そう思ってぐっと腕に力を込めたけれど、それは陛下の力で制された。陛下はそのまま、わたしの手を優しく取る。少し冷えた手だった。
「ニカから聞いた、部屋に入ってすぐ倒れたと。……ずっと具合が良くなかったんだろう、気がつかず、すまなかった」
「いえ、少し疲れただけだと思います」
わたしは取り繕おうと笑ったけれど、陛下はそれを見て眉を下げた。その表情の理由が、すぐには分からなかった。けれど陛下はそれを言葉にして伝えようとしてくれる。
「笑わなくて、良い。君に無理をして欲しくないんだ。……私の前でまで、隠してほしくない」
陛下のその声は、少し悲しげだった。わたしはその声にハッとする。
「……君はそれを望んでいないのかもしれない。けれど、私は君がひとりで耐えているのは嫌だと思う。それ以上に、それを私に言えないことも」
それは、言われて初めて知る陛下の気持ちだった。けれど、わたしがもしそうされても、陛下と同じように思うだろう。わたしは申し訳なさで切ないような気持ちになった。そして、陛下はわたしに取り繕われるのは嫌なのだ、と理解する。
「いや、……すまない。気が付けなかった私の責任なのも分かっているんだ。……嫌な思いをさせたくなくて、周りへ対処する方にすべての力を注いでしまった。それで君のことを見えなくなっているのでは、本末転倒だったのに」
悔やんでいるような声に、わたしは反射的に首を横に振った。
「陛下のせいではなく。どうにかしなければと、思っていて」
それから、思い出して自分の不甲斐なさに悔しくなる。
「……陛下にふさわしい人でありたかったのです」
思わずこぼれたそれは、わたしの本心だった。陛下はまっすぐ、わたしを見ていた。
「何も、できず。動けず。お役に立てず恥ずかしくて」
泣きそうだ、と思った。
けれど、陛下の前では泣いて良いのだということも、今なら知っている。涙がこぼれて、陛下はわたしの不甲斐なさを否定せずにわたしの頭を抱き込んだ。しばらくの間、何も言わない大きな手が背中を撫でてくれる。
「……これから、たくさんやれることがあると実感しました。がんばりますね」
こうして泣いても良いと思える場所があったのだと思い出しただけで、気持ちがほぐれていくのが分かった。今日のことは悔やんだけれど、わたしにはこれからやれることがある。陛下の優しい手を感じながら、素直にそう思えた。
「……君の対応は間違っていなかったけどね」
わたしが落ち着くまで何も言わずにわたしを安心させ続けてくれていた陛下が少ししてそう言ってから、ゆっくり身体を離してわたしと視線を合わせた。
「もっと君らしくて良い。そういうやり方を、探して行こう」
今までの王妃のような振る舞いをしなくて良いと、ことあるごとに陛下は言ってくださっていた。けれどそれでは駄目だと、自分も立派にならなくてはとどこかで焦っていたことをわたしはやっと自覚した。
けれど、陛下が言っていたのはわたしがわたしらしいままで、王妃としての在り方を模索すれば良いということだったのだと理解する。それがどんな形かすぐには分からないけれど、陛下はどうやら一緒に探そうとしてくれているようだった。
ああ、わたしをこんなに大切にしてくれる人と、一緒にいられて幸せだな。自然とそういう気持ちが浮かんで、わたしは陛下に笑いかけた。
「ありがとうございます、陛下」
とりあえず、彼の名前をすんなり呼べるようになる頃には、今よりも成長していられるようになりたいなと思った。
陛下も応じるように笑って、けれどすぐにわたしの横たわる寝台に上半身を倒れこませた。いきなりの行動に、どうしたのだろうとわたしは目を瞠る。
「……心配した。倒れたと聞いて焦ったし、なんだか今日は君が私と距離をとっているような気がしていて」
「距離……というか、今日の陛下は、国王陛下でしたので、どうしたら良いのかと、少し戸惑って……」
陛下は少しだけ顔を上げてわたしを見る。なんだかバツの悪そうな顔をしていた。
「ごめんね、あまり君の前ではあれをやりたくないんだけど、今までそうしてきてしまったから、私のやり方はあれになってしまった」
「いえ、あの、……すごいなと思いましたし、かっこよかったですが」
「……つまり、いつもの君の前での私はやはり女々しいということかい……」
あの陛下とどう距離を取ればよいかは確かに測りかねていたけれど、堂々として凛々しい姿は素直にかっこいいなと思った。けれどなぜかそれは変な風に陛下に受け取られていて、陛下はうなだれるように更に寝台に沈み込む。それが少しおかしくて、わたしは思わず笑みがこぼれた。
わたしはゆっくりと上半身を起こす。めまいも気持ち悪さも、もう収まっていた。
「わたしが一番好きなのは、そのままの陛下ですから」
寝台に顔を突っ伏す陛下の頭をわたしがそっと撫でれば、陛下は心許なげに顔を上げる。わたしが陛下の手を軽く引き寄せれば、陛下はわたしの意を汲んでわたしの方へと身体を寄せてくれる。
「ありがとうございます、クロード様」
軽くわたしからキスをすると、そのあとで陛下はゆっくりとわたしの身体を抱きしめたのだった。
「……シエナ、体調は?」
「少し眠れたようで、今は大丈夫みたいです」
「……今日は、一人で眠る方が良いかい?」
窺うような、少し寂し気な声にわたしはまた笑いそうになりながら「いいえ」と答えた。婚姻関係を結んでから、可愛い人だなと思う機会が格段に増えている。
「クロード様の隣が一番、よく眠れますから」
陛下はわたしに負担にならない程度に腕に力を込めてから、「そうかい、……多分、私の方がそうだけどね」とちょっと拗ねているような声で言った。わたしはまた笑みがこぼれる。わたしにしか見せないであろう、そんな姿が心から愛おしい。
このクロード様は生涯、わたしだけが独占できれば良いなと思いながら、わたしは陛下を抱きしめ返したのだった。




