愛おしさと信じること
気づけば、それまで以上に彼女のことを目で追うようになっていた。とは言っても、もう接点は戦略会議くらいのものだ。私が距離を置こうとしたのだから、それは当たり前の結果だったのだけれど。
他者の目がたくさんある以上ひたすらに眺めるというわけにはいかなかったけれど、私は時々彼女を盗み見て充足を得ていた。物足りなさは、あの夜の彼女を思い出すことで埋める日々だった。
そして同時に、どこか彼女の様子がいつもと違うことにも気づいた。なんだかぼんやりとしているような、調子が万全ではないような、そんな風に見えた。あんなことをしてしまった私と同じ空間にいることが負担になっているのかもしれないと思ったし、愛着のあるであろうトラッドソン領が危機に曝されている現状なら心配になるのも当然ではあるかとも思った。
そんな中、情報収集室のバダンテール室長が、戦略会議の場で彼女の過去を暴こうとし始めた時、私の中には抑えられない怒りが湧いた。
彼女を傷つけるようなことは、誰にも許さない。会議中に、公の場であるあそこで、本来ならば私は声を上げるべきではなかったと思う。バランスを重視して、私自身の意見を強く打ち出さないようにとしてきた私があの場で発言をすることを、もしかしたら他の参加者たちは不思議に思ったのではないかとも思った。
けれど、他の者たちの下卑た感情に彼女をさらしたくなかったし、私自身があの場で彼女と元夫との関係を聞いてどうにかなってしまうのも避けたかった。仕事上確かに必要な情報には思えたために聞かないわけにもいかなかったけれど、出来ることなら聞きたくはなかった。彼女が嫌がるだろうという気持ちもあったし、彼女がいまだに元夫に情があるかもしれないと思うと怖くもなった。
私の執務室で、私はふつふつと自らの内で湧く嫉妬のような感情を隠しながら、けれどどうしても彼女が元夫をどう思っているのか知りたくなってしまった。まだ元夫のことが好きだ、と言われても怒りが湧いたと思うけれど、「それはありません」と言われても信じきれなかった。
話が終われば彼女は逃げるように私の部屋から立ち去ろうとしていて、ああやはり、私と一緒にいるのが怖いのだろうと思った。けれど反面、どうにかして引き留めたくもなって、「また部屋に来てくれないかい」と彼女に言いかけた。
言いかけたけれど、それは私が言ってはいけないことだとすぐに理性が働いた。言ったら、彼女はそれに従うだろう。それで私の欲が満たされたとしても、おそらく私自身はもうそれだけでは満たされないだろうということも自分では分かっていた。
私は彼女の身体だけでなく気持ちまで欲しくなっていて、身体だけを許されたとしても、おそらく虚しく苦しい気持ちになっていただろうから。
そしてまさか、彼女が身籠っているなどということは、想像すらしていなかった。
彼女からそれを聞いたときに私の中に最初に湧いたのは、これでやっと、彼女を縛ることができるのだという感情だった。それはとても昏い、外に出してはいけないようなものであることは明らかだった。それを治めるために少し反応が遅れた私を横目に、彼女は私とのことをなかったことにしたいような口ぶりで話し出して、私の中では更に怒りのような悔しさのような、そういう感情が大きくなった。
それを彼女にぶつけそうになってから、でもそれでは駄目だとブレーキをかけた。彼女がどうしたいか、彼女の幸せとはなんなのか、きちんと聞かないといけないと思った。
けれど彼女は私のことばかりを考えていて、なのに私が彼女を大切に思っているということは否定しようとした。その怒りはどうにも抑えられず、思わずこの内にあるものすべてを彼女に思い知らせてやりたいと思った。
彼女をソファの上で追いつめながら、けれど同時に、冷静にならなければ、彼女を大切にしたいんだろう、と、そう言っている自分もいた。
どうにか治めて謝ってから、不甲斐なさで自分に嫌気がさした。けれどそんな私に、彼女は私のエゴで私が孕ませたその中に宿るものを「産みたい」と言うのだった。それが本心かどうか分からないとは思ったけれど、でもきっと、そうでなかったとしても彼女は覚悟を決めて私に話してくれたのだということは分かった。
だから私は決めたのだ。彼女を、そしてその中に宿る命を、大切にしていくのだと。
それはある意味で、私にとってはプロポーズのような言葉だった。そしてそれは、彼女にも伝わったような気がしていた。
べリス家には行かせたくなかった。グランデ将軍から内々で彼女を派遣する提案を聞いたときにまず、そう思った。将軍の前でも私の周りには少し渋った雰囲気はにじみ出ていたと思うけれど、しかし、トラッドソン家当主も将軍も関わっている提案を私の一意見でつぶすことを、私自身が許せなかった。
会議の場でも案の定すんなりと可決されてしまって、しかしそのあとに彼女の妊娠を聞いた。そうしたらもっと強く、行かせたくないと、そう思った。
けれど彼女はそれを聞くと憤った。彼女の言うことは正しかった。普段の国王としての私ならば、そんなことを言うなどあり得ないことでもあった。
けれど、彼女をどうしても元夫に会わせたくなかった。彼女の中から、出来る限り自分以外の誰かを排除しておきたかったのだと思う。
結局彼女の正しさには太刀打ちできず、彼女は9年間を過ごしたその場所へと向かうことになってしまった。その夜、ややぎくしゃくしたままでの別れになったことを、私はひどく後悔した。すぐに会って仕切り直したいと思ったけれど、翌日に会うことは叶わなかった。
オグウェルトはおそらくそんな私の様子を察して、出立の朝に彼女がドゥノワの所へ来ることを教えてくれた。
ドゥノワのいる医務室を訪ねれば、彼は面白そうに私を見たけれど、何も言わなかった。ドゥノワも付き合いの長い臣下で心からの信用は置いている。けれど、元々私に対して遠慮というものをほとんどしない。だからこそ良いと思っている部分ではあるのだけれど、相変わらず良い性格をしているなと思いながら、実害があるわけでもないのでその場ではそれを受け流した。
ドゥノワが気を利かせてくれて彼女と二人きりになった医務室で、私は彼女にできる限り無茶をしないで欲しいと思って言葉を尽くした。そして女々しくもまた、私は痕跡を残したくなった。
好きだ、大切にしたい。そんな風に思いながら口づければ、彼女の反応は私が思っていたよりも穏やかなものだった。
そんな彼女を見ると、少なくとも怖がられたり嫌がられたりはしていないのかもしれないと思えた。べリス家へと行かせること自体は気がかりではあったけれど、私はあまり激しい気持ちにはなりすぎずにいられて、そのまま彼女を見送った。
ベリス家当主との話し合いは、大きな事件が起きることなく終わったようだとオグウェルトから聞いてまずは安心した。けれど直後に聞かされたその交渉の要求内容に、私は愕然することになった。
彼女が、あの家に戻るというのかと。私の気持ちは、彼女に伝わっていなかったのかと。
怒りのようなものが湧くのと同時に、けれど彼女のことだからきっと理由があるのだろうとも思えた。そして強引な元夫の要求に、彼女がその場で断れなかっただけだろうと結論付ける。べリス家当主からはすぐに念書が届き、それがあればこちらが強気でいても問題はないと思えて安心した。
彼女の手紙によれば、べリス家当主の求めるものは今後ヴァルバレーでやっていくための方法や力だと言う。それであればと交渉材料である彼女の代わりとして、他の役人を一定期間つけることや王城内で当主自身が働くことを提案しようと、私は王城内で準備をした。
けれど彼女と会えないことが、彼女から直接話を聞けないことが、私を落ち着かなくさせていた。
西との戦争以降はずっと、あまり深い眠りに落ちることができなくなっていたが、その頃の私はそれ以上に睡眠をとれなくなっていた。打ち込める仕事があればまだ気がまぎれて良かったけれど、いつもよりも何倍も働いている自覚はあり、それが続くとオグウェルトから仕事を止められた。
会いたいなどとは一度も言葉にしていなかったが、オグウェルトは「余裕はありますから、私が行く時に同行してはいかがです」とため息をつきながら私に助け舟を出してくれて、私はそれに一も二もなく頷いていた。
そして、彼女と出会ったあの場所で、私は彼女と再会したのだ。
遠回りをしながらやりとりをするうち、おそらく互いにすれ違いがあったのだということは分かった。こじらせる私に、彼女は諦めずにずっと食らいつき続けてくれた。
落ち着いてからきちんと頭が働いたとき、そこで初めて、もしかしたら本当に彼女は私のことを、私と同じような気持ちで大切にしてくれているのかもしれないと感じた。それが胸に落ちた時、私はこれまで生きてきた中で初めての感覚を得た。
穏やかであたたかい、まるでそんな彼女自身が私の中にいるような感覚だった。
2か月もの間、そばに居られないことはもどかしかったけれど、今後のためと思えばなんとか割り切れた。
再び召し上げた彼女は、「お慕いしております」と私の名前を呼んだ。少し恥ずかしそうなその表情と初めて言葉にされたそれに、もう、それだけで良いと思った。それだけで、どうにかなってしまいそうな気もした。嬉しかった。
同時にこの幸せを何かしらの形にしないと不安だという気持ちも浮かび上がって、しばらくは婚約者として居てもらうつもりだったけれど早く婚姻を結んでしまおうと思った。その場で早めに婚姻を結びたいと彼女に言えば、少し不思議そうな顔はしたけれど、綺麗な顔で笑って頷いた。形にしたとて彼女を縛れるわけではないけれど、その反応にまた私は安堵したのだった。
そしてもうすぐ、私たちは夫婦となる。
この先、色々なことがあるだろうと思う。できる限り彼女を守りたいと思っているけれど、未熟な私にはそれが難しいこともあるかもしれない。それに、彼女自身が守られるだけでいることを望んでいないことはもう十分に分かっていた。
そしてきっと、そんな強さをもつ彼女だったからこそ、私はこんなにも彼女に惹かれたのだろうと言うことも。
彼女とこれから、たくさんの前例を作っていこうと思う。
それはきっと、私たちが幸せになるための。
そしてそれがやがてこの国を幸せにしていくのだと、今は信じてやまない。




