わたしが決めたあなたとの今
陛下と本家の温室でお会いしてから、二か月が過ぎようとしていた。あれから季節は秋から冬へとすっかり移り変わって、時々雪もちらつくようになっている。
わたしは妊娠五か月になり、つわりもほとんどなくなっていた。ドクタードゥノワも認める「安定期」に入っている。
陛下とお会い出来ない間、つわりが酷くなった時期もあって痩せたりもしたけれど、今は調子が戻って温かいものも食べられるようになっていた。
ニカは妊婦についておそらくわたしよりも詳しくなっていて、変わらずなんやかんやと手を焼いてくれている。
わたしは知らなかったのだけれど、先日、陛下がまたトラッドソン家へお忍びで来ていたということをウームウェル補佐官からの手紙で知った。
何かあったのだろうかと思ってその先を読み進めれば、どうやら陛下は父上に婚約の挨拶をしたということのようだった。
国王陛下がわざわざそんなことをしなくてもと思ったけれど、律儀で身分にとらわれすぎない陛下らしいなとも思った。父上がどんな反応だったのかはわたしの所に情報が入って来ていないためわからないけれど、まあわたしに執着をしない父上なので、「どうぞどうぞ」で終わっている気がする。
なんとなく急に大きくなってきたような気がするお腹を触りながら、わたしは準備をし始めていた。
ウームウェル補佐官からの手紙に、二週間後に公表することになったという記述があったからだった。体調が良い日に王城に来て欲しいとの陛下からの要望があったとあり、ついに正式に王城へと行くことになったわたしは久しぶりに少し緊張していた。
それから一週間のうちに、わたしが手伝う隙もなくニカが全ての支度を整えてくれて、ついでにドクタードゥノワの男手もあったため屋敷の大がかりな大掃除までもがなされて、別邸での準備は完了していた。
二か月半ほど過ごした別邸はとても住み心地の良い場所だったなと、暖炉の火をぼんやり眺めながら思った。
べリス家の行く先はと言えば、結局べリス家当主自身が登城することを決めたらしかった。商人としてやってきた元旦那様は、本格的に王城に上がることで自らヴァルバレーでの繋がりを作って生き方を学び、べリス家がヴァルバレーの中で受け入れられていくようにしていこうと考えたのだろうと思う。
もしかしたらわたしがべリス家の中に入るよりも、自らが王城で過ごせることの方がべリス家当主にとって良いことなのではないかと思った。後継ぎがいない状況でどのようにやっていくのかという件も、陛下の目指す世襲制度に頼らない政治の在り方という考え方と似ているように思えた。
べリス家当主とタタレドの間には埋められない溝ができたようだったけれど、べリス家当主の背後にはヴァルバレーがいるし、タタレドはそれには歯向かえなかったようだった。
侵略計画は失敗。タタレドの内部ではやや混乱があったようだけれど、トラッドソン領に入ってくるタタレド人商人は庶民であるため、あまり影響は被らなかったようだった。
そしてこの時期を区切りとして、タタレドに派遣されていた間諜やマーガー副室長をはじめとする情報収集室の調査団も、王城へと引き上げられることが決まったと聞いた。
時々トラッドソン領の中心部に出れば、以前よりも賑わいを増した活気のある街になったように思えた。タタレドからの婿たちのおかげで、トラッドソン領民とタタレド人との間の雰囲気も良くなってきているということを、別邸を訪ねて来てくれたマーガー副室長からも聞いていた。
この二ヶ月の間でのわたしが政治に関する情報に触れる機会は、マーガー副室長の訪問で一回、そしてウームウェル補佐官からの手紙が届いた時の数回だけだった。そのため過度に情報に晒されることなく、わたしは日々を穏やかに過ごしていた。
陛下からの連絡は、わたしには一切なかった。
陛下と直接やりとりをしていることがどこかから漏れれば、今後の動きが想定通りに進まない可能性は高くなる。綿密な根回しをしてくださっているであろう陛下の努力を無駄にしないためにも、それが必要であることは分かっていた。
そして普段のわたしであればそう割り切れたのだけれど、時々寂しくなったり触れたくなったりはしてしまって、その度、わたしは自分を窘めた。
ドクタードゥノワにちょっと落ち込んでいるところを見られて、「どうされたんです」と声をかけられた時にやんわりとその話をすれば、「妊婦は感情の起伏が激しくなると言いますからねえ」と言っていたので、そのせいなのかもしれない。
その話をしてから時々、ドクタードゥノワは陛下とわたしの関係について話題にすることがあった。ある時「陛下はしつこいでしょう」とニヤニヤしながら聞かれた際にはなんと返したら良いのか分からず、苦笑いでやりすごしたのだけれど。
出発準備もほとんど終えようとしていたつい先日、伝令役や調整役の任が解かれたことを知らせる手紙が届いて、わたしは正式に王城での仕事を終えた。色々なことを思い出しながら大変だったなと振り返ったけれど、結局最後に浮かぶのは陛下の顔で、早くお会いしたいとまた少し寂しくなるのだった。
王城の任務が解かれてただの『トラッドソン辺境伯令嬢』に戻ったわたしは、こちらに来た際に使った王城の馬車はもう使えない身分となった。そのため今度はトラッドソン家の馬車で王城へと向かうことになっていた。
移動の当日、馬車を別邸に回してもらってから一度、わたしは本家へと顔を出した。家には無邪気な弟と父上が居て、弟のユーグは久しぶりに会うわたしに「お姉さま!帰っていらしたのですか!」と嬉しそうだったけれど、その横で父上はニヤニヤとしていた。
「お前、意外とやることはやってたんだなあ」
その失礼極まりない父上の言い方に、弟が「やること?」と首を傾げたので咳ばらいをしてから、「出立前にご挨拶をと思いまして」とわたしは真面目な声を作った。
「冗談の通じない娘でな」とユーグに話しかけながら肩をすくめた父上には反応せず、わたしはユーグの前にしゃがみこんでから「今日からまたお出かけなの、元気でね」と、どうかこういうところは似ないで欲しいと思いながら話しかけた。
「ユーグ。お姉さまはな、これから頑張りに行くんだと」
そう言った父上の言葉はどこか揶揄も含まれているような気がしたけれど、それでもユーグはそれをまっすぐに受け取って、「そうなのですね、僕、応援しています!」と言う。
父上は、自分の子どもには興味がないのだろうとずっと思っていた。けれど、この家に出戻ってからの二年間の様子を見るに、ユーグのことは大切にしているように思えた。ユーグの天真爛漫さは、父上に愛されているからこそだろうなと感じられる。どうかそのまま育って欲しいと思いながら、わたしが「お世話になりました」と父上に向き直れば、父上は良い笑顔で言った。
「またいつでも、戻ってこい」
ああ、もしかしたら、父上は父上なりの愛し方で、わたしのことを大切に思っていたのかもしれないと、その時になって初めて思った。
*****
王城への道中も特段問題は起きず、わたしはまた王城へと戻ってきた。
考えてみれば、王城で過ごした期間と別邸で過ごした期間にはそれほど差がなくて、けれど王城で過ごした日々の圧倒的な濃密さに、その日々の質量の違いを感じて不思議な気持ちになった。
これから先のわたしの日々は、さて、どうなるのだろうか。
不安と緊張が一番大きかった。別邸で穏やかに過ごしていた時にはあまり感じていなかったけれど、王城に着くとどこかから実感のようなものが湧き出す。
わたしはこの子を、無事にこの世に産み落とすことができるだろうか。あと五か月もの間、わたしは守っていかなければならないのだ。大切な人の子だと思うから、尚更その気持ちは強くなっているのかもしれない。
けれど反対に、慣れなくて大変だったという感覚が強く残る王城に戻ってきたのに、ここに陛下がいらっしゃるのだという事実だけで、わたしの気持ちは浮足立った。
ウームウェル補佐官からの手紙には、王城内に居住できる部屋を設けているのでトラッドソン家の持つ部屋ではなく直接王城に来て欲しいとあった。
あまり目立たない門に馬車を乗り入れて、そこでまずはウームウェル補佐官と無事に合流した。
「長旅、お疲れさまでした」
淡々と変わらないウームウェル補佐官はわたしに頭を下げて、何人か連れてきた従者とドクタードゥノワと荷物を分けて持つと「ご案内します」と先導してくれた。
使ったことのない目立たない入り口から中に入る。何重にも厳重にセキュリティのかけられた扉をくぐり、たどり着いた場所は既にあの王族の居住区画の中だった。
門を通らなくても、外から直接つながる扉があったことに驚いていると、ドクタードゥノワが「あれは普段は絶対に開かない扉でな」とこっそり教えてくれた。かなり極秘の情報らしいと、わたしは気持ち震えながら頷いた。
わたしが通されたのは、いつか侍女に案内されたことのあった女性向けであろう感じの良い部屋だった。登城初日の翌朝にここで湯浴みをしたなと見回せば、ウームウェル補佐官が珍しくいつもよりも面白そうな声色で「ここはシエナ様にと、シエナ様が登城される前に陛下が整えた部屋ですよ」と言った。
わたしは先ほどよりも、明確に驚いた。怖々とウームウェル補佐官に視線を向ければ、「結構気合いれてたからなあ、あの時の陛下」とドクタードゥノワが続けた。補佐官とドクターは「陛下にしては珍しかったですよね」「ああ、面白かった」と会話をしていて、わたしはさらに固まったのだった。
陛下はどうやら本当にわたしが登城する前からわたしを囲い込もうとしていたのだと言うことを知って、陛下から聞いていた話だとは言え動揺した。そんなにわたしに価値があるだろうか、と考えそうになってから、いや、陛下が大切に思ってくださるのだからと一つ息をついてその考えを中断した。
「それでは一度私はここで。今日の夜、寝室の方へ来て欲しいとの伝言を陛下から預かっております」
ウームウェル補佐官はそう言ってから退出して、「じゃあ私も医務室に戻りますかね。いつでも呼んでください」とドクタードゥノワもそれに続いた。
そしてニカとわたしだけになった部屋に入れ替わりで「失礼します」と入ってきたのは、あの朝にこの部屋でわたしの支度を手伝ってくれた、安心感と愛嬌のある50代くらいの侍女だった。
彼女は「アンバーでございます」という自己紹介のあとに、「陛下の命で、シエナ様のお手伝いをするようにと申し付かっております」と言った。聞けば彼女は王家の侍女で、わたしに付いてくれることになったようだった。
ニカとアンバーは顔合わせがてらわたしの荷物を整理しはじめ、わたしもそれを手伝っていた。けれど長旅の疲れからか、次第に眠たくなってしまって動きがやや鈍くなる。
ニカは目ざとくそれに気づいて、「シエナ様、お休みになってください。夜にはお約束があるのですから」とわたしを窘めた。その言葉に甘えて、わたしは少しだけ休息をとることにした。
夜、二十時を過ぎた頃に、わたしはひとりで陛下の寝室へと向かった。向かうと言っても目的の場所はそう離れておらず、わたしの気持ちは準備ができないままにその扉の前にたどり着いてしまった。
陛下が中にいるかどうかは、分からなかった。居住区画の入り口で尋ねれば教えてもらえただろうけれど、今のわたしはまだ人目に極力触れない方が良い立場である。わざわざそちらまで行くことも憚られた。
しばし、わたしは扉の前で迷っていた。
まずはなんと声をかけようか。そもそも、ノックした時にはなんと名乗るべきなのか。陛下はわたしをどう迎え入れてくださるだろうか。
そんな風にぐるぐるしていると、考えても仕方のないようなことまで頭に浮かんできてしまう。
けれど、それは唐突に断ち切られた。
突然、ガチャリと扉の向こう側から音がしたのだ。
わたしの身体がびくりと震えて、一気に心拍数が跳ね上がる。
そして、目の前でゆっくりと扉は開く。
「シエナ」
久しぶりに聞くその声に、わたしは泣きそうになった。
最近、本当に涙腺がゆるくていけない。泣かないようにと思いながら、わたしは声の主を見上げた。陛下は穏やかに、わたしを見て笑っていた。
「待っていた。……気配がしたけど入ってこないから、待てなかった」
陛下はそう言って、わたしの手を取って部屋の中へと促した。その手は温かくて、わたしの心臓がキュッと音を立てた。そして背後で扉がしまってから、陛下はどこか嬉しそうに笑う。
「緊張してるのかい」
その声はちょっとわたしをからかうような響きで、わたしはムッと口をとがらせる。けれど緊張しているのも事実で、「わたしだけなんですね、きっと」と、口からは恨みがましいような気持ちがぽろりとこぼれた。
ちらりと陛下を窺えば、陛下は一瞬真顔になった。それを見てまずかったかと思うより早く、陛下はわたしをきつく抱き寄せていた。
「そんなはず、あると思うの」
抱きこまれて感じたのは陛下の早くなった鼓動と、その腕の熱さだった。突然の行動とその陛下の状態に、わたしは驚いて一瞬息ができなくなる。
それから慌てて、わたしはふるふると首を左右に振った。
「君が来るのを、どんなに待っていたか」
陛下はわたしに言い聞かせるように、ゆっくりとそう言ってわたしの頬を撫でた。目に映るのは、わたしを求める熱。
「陛下」
わたしは、陛下に応えたいと思った。受け止めるだけではない。陛下の隣で、これから先は陛下に応えていきたい。陛下のためにわたしができることを、わたし自身が選んでいきたい。
そう思って呼べば、陛下は口の端をあげてわたしを見て笑った。この笑顔がわたしに向けられているなんて、なんて幸せなことなのかと思った。そしてそれを、伝えたかった。
「……これから陛下に起きるすべてを、一緒に受け止めさせてください」
陛下は一度ぐっと目を閉じたかと思えば、「それ、分かってやってるのかい?」と呟く。何を分かってなのか分からず、わたしは気持ちを伝えただけだとふるふるとまた首を振れば、陛下は「駄目かもしれない」と呟いてしばしわたしの首筋に顔をうずめた。そこで呼吸をする陛下に、どうしたのかと心配になって「陛下?」と呼びかければ、陛下はまたわたしへと視線を戻した。
「……名前で呼んではくれないのかい」
ちょっと拗ねたようにそう言った陛下を、可愛いと思った。恥ずかしい気持ちもあったけれど、たしかに、名前で呼んでも良い関係になるのだと実感が湧いて嬉しい気持ちも湧く。
ただ、やはり恥ずかしくてすぐには言い出せないわたしに、陛下は痺れを切らしたように、つつつ、とわたしの背中を撫でた。
「シエナ」
名前を呼ばれただけなのに、それは色気のある懇願に聞こえて、わたしは思わず赤面した。そして、そこでもうこの人には敵わないのだろうと観念したのだった。
けれどやはり悔しかったから、わたしもありったけの想いを込めて言った。
「お慕いしております、……クロード様」
わたしがそう言うと、陛下はまたぎゅうときつくわたしを抱きしめてから、「愛してる」とわたしの耳元で噛みしめるように言った。
それに応えたいと思ったわたしは、陛下の背中に添えた手に力を込めて抱きしめ返すことにした。
*****
この国は、どんな国になるだろう。
昏さも怒りも怖さも苦しさも、これから先にもきっとたくさん出会うだろう。けれどその度に、わたしはそれを一緒に抱えよう。
変革を求める陛下の道はきっと、平坦ではない。けれど陛下はそれを望んで、わたしはその陛下と共にいることを望んだ。
そこから少しずつ、変えていけたら良い。
出会って互いの呪縛を解いたわたしたちは、きっと周りの呪縛も解いていけるような気がした。
それぞれが望む、それぞれのままで生きられる国になれば良いなと思った。いや、願うのではない。わたしもそこへ進むためにと共に歩くのだ。
わたしは、背筋を伸ばして決意を新たにする。
陛下とわたしのふたりでの奮闘は、今、ここから始まる。