50 理由と約束
しばらく抱きしめられて、わたしも抱きしめ返して、そうしていると陛下の手にも温かさが戻った。ホッとしながら今回のトラッドソン家への訪問のことを聞けば、「私は来ていないことになっているんだけどね」と陛下は笑った。
どうやらウームウェル補佐官だけが来る予定だったところに、陛下自らどうにか予定を調整して来たという経緯のようだった。お忍びで来たため父上も陛下が来ていることは知らされておらず、なので外で話す必要があったらしい。
「どうして、そこまでしてくださったんですか」
わたしがそう問いかけると、陛下は少し考えるような間をとってから居心地が悪そうな声で答えた。
「君と直接話さないといけない気がした、……落ち着かなかったんだ。……柄でもないけれど」
苦笑する陛下のその顔に、けれど確かにこうして会いに来てくださっていなければすれ違ったままだったかもしれないと思った。その場合にはそうとは知らずに生きていくのだろうから何も思わなかったのかもしれないけれど、陛下の内心を知った今、それはとても怖いことに思えた。
「……ありがとうございます」
わたしがお礼すれば、「いや」と陛下はゆるく首を横に振った。
「正直に言えば、……ただ、会いたくなっただけかもしれない。この機会を逃したら、次に会えるのは君が王城に来てくれる時だっただろうから」
大切にされているのだと、その言葉はじわりとわたしに染みて実感を伴った。今までだってもしかしたらと思う場面はあったけれど、ありえない事だと、わたしは端からそれをきちんと受け取ることすらしなかった。
わたしがそんな態度だったにも関わらず、一方で陛下はずっと気持ちを届けようとし続けてくれていた。確かに最初は陛下の利己的な押し付けだったのかもしれないけれど、途中からはただひたすらに、わたしを大切にしようとしてくれていたのだと今なら分かる。
その執着は少し度を過ぎていて戸惑う気持ちもあるけれど、陛下のそれすらも愛おしいと思う気持ちがわたしの中にあることを、わたしは認めざるを得なかった。
陛下は目が合うと柔和な顔で笑って、それから穏やかにわたしにキスを落とした。
それは優しくて柔らかな、陛下らしいキスだった。
探せば、ウームウェル補佐官は温室から少し離れた場所で周りを警戒していたらしい。「全く気付きませんでした」と伝えれば少し誇らしそうに「良かったです」と笑っていた。
おそらくその笑いは、陛下とわたしに起きたことの顛末をなんとなく察してくれていたからだろうと思った。ウームウェル補佐官はとにかく、陛下自身のことを大切に考えている人だということはもう分かっている。きっとこれまでの長い間、近くで陛下のことを心配してきたのだろう。そんなウームウェル補佐官にもわたしは感謝の気持ちを抱く。そして、わたしもそんな風に陛下を支えたいと思った。
その日は、そこで陛下やウームウェル補佐官と別れた。
時間がない陛下はこのためだけに来ていて、また夜通しかけて中央へと帰るらしかった。身体のことを心配すれば、ウームウェル補佐官の前だったけれど嬉しそうにぎゅっと抱きしめられる。
わたしは恥ずかしかったけれど、ウームウェル補佐官は何もなかったような顔をしていたので、陛下といると色々と鍛えられるのだろうなとウームウェル補佐官の心中を察した。もしかしたら、わたしもこれから色々と鍛えられていくのかもしれない。
今後については、陛下から「トラッドソン家伝令役としてもう少しこちらに残っていて欲しい、べリス家との交渉にはもう君は行かせないけど、ある程度収束するまでは別邸で待機してくれるかい」と尋ねられた。わたしには特に異議はなく、すぐに頷いて了承を伝えた。
けれどべリス家の要求に関して、元旦那様がわたし以外のモノでも納得するだろうかと、それは心配になった。しかし、そこに関して陛下は強気だった。
「シエナを要求した目的がヴァルバレーで生き残るためなら、べリス家当主に力をつけさせるか、力のある補佐を役人から選んでつけさせよう。ヴァルバレーでの力をつけるために当主に王城で働いてもらっても良い。……念書はこちらにあるんだ、立場が弱いことも自覚しているだろう。文句は言わせない」
何かあれば捕らえるくらいの勢いのある陛下のその剣幕に慄きつつ、べリス家当主はこれ以上ヴァルバレーに歯向かうことが得策ではないということを理解していたと思い直した。ここから良い関係を作りたいと思っているのはお互いに同じだったという実感はおそらく、間違っていないだろう。
わたしはもう、そちらとの交渉はすべて任せることにした。
「交渉の必要はないのに、まだ伝令役や調整役を任されていて良いのでしょうか」
わたしがそう尋ねれば、陛下はすぐに頷いた。
「実際の仕事はもうないと思ってもらって良いよ。ただ、私の婚約者として王城に呼ぶまでの間は君の妊娠のことは明かせないから、ドクタードゥノワと別邸にいてほしい」
つまり、伝令役として王城に戻るより、そしてその任を解かれて本家に戻るより、とりあえずそのまま別邸で穏やかに過ごして欲しいということらしかった。
わたしは「わかりました」と頷いて、再び陛下から王城へと呼ばれる機会を待てば良いのだと理解した。
「もうほとんど、君を受け入れること自体は出来る体制なんだけどね」
別れ際、陛下はわたしのすぐ目の前に立って、わたしの頬を撫でた。
「私たちの子どものことを公表するのは君が安定期に入ってからにしたいと思うから、それと同時に婚約も発表しよう。……それまで少し、待っていてくれるかい」
わたしが頷くと陛下も頷いて、優しい手が名残惜しそうに頬から離れた。その陛下の温かさを忘れないと心に刻んで、わたしは再度、陛下としばし別れることになったのだった。




