49 意思と口付け
それからしばらくの間、再び沈黙が続いた。お互いに口を閉ざして、視線も合わせなかった。
けれど、今度のそれはわたしにとってはありがたい時間だった。
陛下から伝わる微かな震えが、自分の気持ちだけに向いていたわたしの意識を、現実の今起きていることへと引き戻す。膨らんでいた感情がしゅるしゅるとしぼんで行くことを自分で感じていた。そしてこの静かで長い時間によって、わたしの頭は徐々に冷静さを取り戻そうとしていた。
震えを感じて、いけない、と思った。
わたしは陛下を受け止めたいと思っていたはずだったのに、わたしが飲み込まれてしまってはいけない。
このまま感情に任せていてはおそらく後悔する。そんな予感がして、更に冷たい風が吹いたことで頭が冷えた気がした。
心臓はまだ大きく鳴っていたけれど、それにさえ気づけなかった先ほどと比べれば、この沈黙の時間は落ち着くことに役立っていたと思う。
大切なのはわたしの気持ちだけではなかった、わたしは陛下の気持ちも大切にしたい。
冷静になれば尚更、陛下がわたしを大切にしてくださっていることが信じられないという気持ちにはなったけれど、陛下はわたしに本音を伝えようとしてくれていたはずだった。それは、信じたかった。
そして今は、こうして触れた手だけがわたし達の唯一の接点であるような気がした。
離したくない、離してはいけない。わたしは強くそう思った。
「……君を、縛り付けたくない」
静けさの後、風の音にかき消されそうな声でそう呟いた陛下は、怯えていた。おそらく、自分のもつ力とその影響力の強さに。陛下が望めば相手が望んでいなくても手に入れることができるその立場と、陛下の中の利己的なものが共鳴してしまうことに。
けれど、違うのだ。
わたしは、わたしとして、陛下と共にいたいと思っている。それは本来ならば口にしてはいけないようなとても恐れ多いことだったけれど、本音を晒せば、それがわたしの唯一の望みだった。
そしてわたしが感情に飲み込まれてしまったために頑なさを強めている陛下に、どうやったらそれが伝わるのだろうかと一度途方に暮れかけた。考えても、分からなかった。
けれどふと、わたしからその手に触れたのに、陛下はそれを拒まなかったことに気づいた。結局、言葉では平行線な気がした。
わたしは陛下の手に力を込める。覚悟を決めようと思った。陛下が何をどう思っているのか実際にはわからないけれど、わたしはわたしの気持ちを伝える努力をまずしようと思った。
緊張して心臓は痛かったし、溢れそうになる陛下への想いに泣きそうになった。けれど、冷静にと言い聞かせてそれをこらえる。
わたしは片方の手を陛下の顔にそっと添えた。ピクリと反応した陛下がわたしから距離を取ろうとしたことにも気づいたけれど、それには応じなかった。
わたしは有無を言わさず、その整った顔に自分の顔の影を落とした。
初めての自分からのキスは、ただ伝えたい気持ちがはやって、どう触れたのか記憶には残らなかった。一瞬のことだった。顔を少し離せば、押し付けるようなそれに、陛下は口を横に結んで驚いたように目を開けたまま固まっていた。
けれど少しして、その目がわたしを捉えるとその顔は泣きそうに崩れた。崩れても変わらず綺麗な顔だな、なんてことが頭に浮かぶ。わたしは、その顔から目を離さなかった。
「……シエナ」
固さは全くなくなった小さな声に名前を呼ばれて、わたしはもう一度そっと顔を近づけた。今度は、陛下のその柔らかさを感じた。1度ゆっくりと触れてまたそっと離れれば、陛下はわたしが頬に添えていた手に自分の手を重ねた。
「……好きなんだ、シエナ。……ずっと一緒にいてほしい」
泣きそうな陛下の声に、こらえ切れずにわたしの目から涙がこぼれた。伝わった、そう思って安心したのもあったかもしれない。
陛下は躊躇した雰囲気で、けれどすぐにわたしに手を伸ばしてその涙に触れる。
わたしは繋いだままの片手で陛下の手をぎゅうと握った。それを見た陛下は戸惑ったように力なく笑って、「触れてもいいかい」と耳元で囁いた。わたしが頷くと、おずおずとわたしの頭に手を添えてそっと自分の胸元へと寄せる。それからゆるゆると、わたしは陛下に抱きしめられた。
そしてまた、しばらくの間お互いに口を閉ざした。先ほどと同じように風の音が聞こえたけれど、今度はその冷たい風も優しく感じられた。
陛下は長く、息を吐いた。ゆっくりと陛下の心音が整いはじめるのをわたしは感じていた。
それから少しして、陛下は今まで聞いた事のないような声で、もごもごとわたしに話しかけた。
「……報告を受けた時は、強引な当主相手に断りきれなかっただけだと思っていた。なのに、……さっき直接聞いたら君はべリス家に行くなんて言っていて。……君の妊娠を聞いた時、私は君を大切にすると言ったのに、やはり君はあちらに情があるのだと……」
プロポーズのように思えたあれは、もしかして本当にそういうことだったのだろうかと、今さらながらに心臓の鼓動が早くなる。嬉しいような気持ちになりかけて、けれど、と引っかかっていることをわたしは冷静に口にした。
「わたしは、正式な妻にはなれませんから」
それを聞いた陛下は「そうなのかい」とムッとしたように言った。そこでムッとされる理由は分からなかったけれど、「……わたしは出戻りの身です」とあまり触れたくない話題を出せば、陛下は「ああ……」と疲れたような安堵したような顔で納得したように頷いた。そして同時に、何故だかいきなり陛下の肩の力が抜けた気配がした。
その反応に違和感を覚えて、わたしは陛下を見上げて首をかしげる。
「シエナが気にしているのは周りがどう言うか、かな」
陛下の問いかけに、その通りなのでわたしは頷いた。世間は、周りの貴族は、おそらくそれを許さないだろう。
わたしのその考えが伝わったようで、陛下は苦笑いを浮かべた。
「君は、私が今まで誰とも婚姻を結ばなかったことを不思議に思わなかった?国王なのに、この国の唯一の直系なのに跡取りも設けずにいる、と」
それはわたしだけではなくて、おそらく皆が思っていることだったと思う。こくりと頷けば、「そうだよね」と陛下も頷く。
「結婚しないことが、……世継ぎを設けない事が許されるわけがないんだ。今まで通りであれば。けれど、私は今までそれを跳ねのけ続けてきた」
陛下の目は、強い意志を浮かべていた。わたしはその目がとても好きだと思った。
「私はずっと、このまま世継ぎが不在でも良いという前例になろうと思っていた。この国は血の縛りが強すぎる。世襲制度には良いところもあるけれど、それだけでこの先安定して続いていくとも思えない」
急に陛下の口調が政治的なやりとりの時のそれに近くなったため、わたしは陛下から少し身体を離そうとした。けれど陛下の腕には思ったよりも力が込められていて、それは叶わない。
「周りからは大顰蹙を買いながらここまで来たよ。それまで私が関係を作ってきていた者達は賛成してくれたけど、他からは無謀だとも、横暴だとも言われてきた」
わたしは陛下を、じっと見上げる。視線が合って、陛下はやはり苦笑していた。
「けれど皮肉なことに、今の私にはそれを一言でひねりつぶせる力がある。普段は使おうとも思わないし、そのこと自体がまずいと思っているからこそ今の制度を変えたいと考えてきた。けれど……変えていくために、私はその力を使ってきた」
そうか、とわたしは急にハッとした。
普段は独断では動かない陛下は、強くて力のある国王ではないと揶揄されることもある。けれど、そうではない。力があるが故に、その力を使わないようにと陛下は必死になってここまでやってきたのだ。
そして、その変革のためならば唯一、そこで力を使うことを自分に許している。
それが正しいことなのかどうかは分からないけれど、陛下にとっての最終手段なのだろうと感じた。
「今回君が再婚であることも、前例を覆す機会になる。……今回はちょっと私情が入っていることは否定できないけどね。……でも、君を妻として迎えることは君を中央へ呼んだ時から考えていた」
その言葉に驚いて思わず目を瞠ると、陛下はバツの悪そうな笑みを浮かべた。
「言っただろう。べリス家に嫁いでいなければ、君を婚約者として召し上げようと思っていたんだよ、私は。……13年間、君を忘れたことはない」
その言葉に、陛下の執着を感じて気が遠くなった。たった一度、あの短い時間を共有した記憶だけで、陛下はずっとわたしを求めていたと言うのだ。驚かないはずがなかった。
けれど、そんなことにさえ救われる気持ちになるほど、それまでの陛下は大変な思いをしていたのかもしれないとも思った。
「それでも私のところに迎えられる時期を待つ必要はあったけどね。まあ、私が結婚しないよりは良いという人も多かったし、なんとかね」
前例を作るためにという建前で、どうやら陛下はわたしとの婚姻を押し通そうとしているようだった。言い方から、おそらくこの二週間程でかなり根回しをしたのだろうということが伝わってくる。
多分、『陛下が結婚しないこと』よりは反応は小さかっただろうけれど、『出戻り娘が相手である結婚』もそれなりに顰蹙を買っていることは想像できた。
それでも、陛下はわたしを望んでくれてるのだ。若干の公私混同はあるような気がして少し気にはなったけれど、そこは陛下の基準が許しているのだからわたしがとやかく言うことではないのかもしれない。
「君には子ができなかったと聞いていたけれど、世襲制度を変えようと思っていたからそれでも特に不都合はないと思っていた。……簡単ではないけど、国王の独断に頼らない政治体制を作ろうと思っている。その上でそれをまとめるための国王として、適役な人間を王族からでも選べば良いだろうと。……実際は君が私の子を、と思うともう、たまらなく愛おしい気持ちになるけどね」
陛下はそっと、わたしのお腹に目を落としてから腰を撫でた。体調を気遣われているのだと分かって、わたしは少し恥ずかしくなる。
「この先そこをどうしていくのかは、この子が生まれてからまたきちんと考える。……でも、少なくともここに生まれたからと言って、それしか選べないようなことにはしたくないと思うんだ」
わたしは陛下の言葉にゆっくり頷いた。それはとても共感できる話だったから。
家の役割と、自分の意思と。
重なればとても幸運だけれど、そうではないことの方が多いだろう。今はそれが「当たり前」と言われる世の中だけれど、いつか、自分で選べるようになったら良い。そのためにきっと、陛下はまずは自分の手の届く所でそうしていくのだろうと思った。そして陛下が前例を作れば周りに広がり、王城に広がり、そして徐々に国全体へと広がっていくことは十分に考えられることだった。
ふうと息をついてから、「それで」と陛下はわたしに向き直った。
先ほどまでよりも少し真剣さを帯びたその声に、わたしは思わず身体を離す。今度は陛下もゆっくり離れて、正面からわたしの目を見た。
「君は、私の妻になってくれるのかい」
それは、重たい言葉だと思った。陛下の妻になるということはつまり、この国の王妃になるということと直結することだから。
陛下と結ばれない未来を悲しんでいたわたしはもちろん、王妃になるなんて大それたことは一度も考えたことがなかった。わたしにはそんな大層なことはできないように思う。
けれど。
「陛下が変えようとする努力のそばで、わたしは陛下を支えたいと思います」
わたしは何かを成す王妃ではなく、何かを成そうとする陛下を支える人間でありたいと思った。王妃という肩書は、正直なところ自分には背負いきれないかもしれないし、そもそも分からないことだらけだ。けれど、それは国を思う陛下のことを支えるために一番近くにいられる存在であることは間違いないと思った。
「つまり?」
陛下は、わたし自身に決定的な言葉を言わせようとしていた。
ああ、やはりこの人は国王陛下なのだと、その強かさに思わず笑みがこぼれた。
わたしは緊張もしながら、真っ直ぐに陛下の目を見た。そして息を吸う。
「陛下、……わたくしを妻にしていただけますか」
その言葉を聞くとすぐに、陛下はわたしをぎゅっと抱きしめた。
「大切にする、生涯をかけて」
無言で抱きしめ合う体温が心地よくて、言葉はないのに互いの想いが互いの身体にじんわりと広がっていく気がした。
少ししてから陛下は「君も従来通りの王妃にならなくて良いよ、そういう前例を作れば良い」とわたしの耳元で笑った。それからわたしの首筋で息をゆっくり吸って、「ここが一番落ち着く」と呟いた。
わたしは嬉しいような恥ずかしいような気持ちで、苦笑いをしたのだった。




