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47 横顔と朝焼け

陛下Side

 しばらく一人でそうしていたと思う。時間の感覚はなかったからよく分からなかったけれど、外の寒さと自分の中で暴れるものの熱量のギャップに、長いこと耐えていたような気がする。

 そして徐々に、遠くの方ではいくつかの足音が動き回るのが聞こえてきていた。おそらく、夜が明ける前から家のことを始める使用人たちのものだっただろう。


 こちらには来ないそれを聞き流しながら耐えていれば、それは前触れなく唐突に起きた。


 目の前でガサリと、何かが音を立てたのだ。


 私は内心これ以上ないくらいに驚いて、けれど自分の外には何も出すまいとしながら少しだけ顔を上げた。ゆっくりと。

 そうすれば、まだ薄暗い中、目の前には驚いた顔をしながらこちらをまっすぐ見ている少女がいた。その時は、多分16歳くらいだろうと思った。


 人にこの状況を見られてはまずい。

 そう思って私は瞬時に顔を伏せた。王子の身分としての来訪ではなかったけれど、こんな風になっているところを見られて、あそこで弱っていたのがヴァルバレーの王子であったと後々明るみになってはいけなかった。


 しかし私の放っておいて欲しいという願いとは裏腹に、その少女は躊躇せずに私に尋ねてきたのだ。


「具合が悪いのですか?」


 落ち着いていて、けれど透き通った声だった。同時にそれは裏表なく私を心配するような声にも思えた。分け隔てのないトラッドソン家の内側にいたからそう思ったのかもしれない。


 ただ、その声に、私の中のどこかからすがりたいというような気持ちが湧き出すのを自分で感じていた。

 

 それは、初めての感覚だった。ドクリと、心臓が鳴る。


 恐怖と対峙して余裕のなかった私は、その初めての感覚には向き合うことが出来なかった。ただただ、その少女に顔を見せないようにと必死になった。


「動けないのですね」


 少女はそう言って、辺りを見回しているような気配がした。この子がトラッドソン家の娘ならば、客人が来ていることも知っているだろう。もしかしたら家の者を呼ばれてしまうかもしれないと焦った。けれど、顔を見られるわけにも声を出すわけにもいかないと頭の中で頑なな自分が言っていた。判断する余裕もなく、私はそれに抗えなかった。


 そして遠くからパタパタと音を立てて、小走りで誰かがこちらへ走ってきたのが分かった。私が居ないことに気づいた誰かが探しに来たのか、トラッドソン家の使用人が用事があって来ようとしているのかは分からなかったけれど、私には更に身を固めることしかできなかった。



 ああ、見つかってしまう。



 足音が大きくなってそう思ったとき、「失礼します」と少女が言った。直後、私の頭に何かがふわりとかけられたことを感じた。

 良い香りを感じて、不思議なことに息が楽になったのを鮮明に覚えている。


「シエナ様ー?」


 こちらに向かっていたのはおそらくトラッドソン家の使用人だったのだろう。その呼びかけに目の前の少女は「こちらにいます」と少しだけ声を張って返事をした。


「温室に何かご用事でしたか?」


 おそらく年配の女性の声がその辺りから聞こえて、けれど私に気づいた様子はないことを不思議に思った。


「少し様子を見に。お母様に昨日頼まれたの。大丈夫、先に戻っていて」


 少女の丁度良い温度の声がすぐ近くでそう言えば、年配の女性は「あまり長居すると濡れますからね」と言ってすぐに温室から遠ざかったようだった。


 もしかして、この少女は私のことを(かくま)ってくれたのだろうかと、その時に気づいた。


 足音が十分離れてから少女はふっと息を吐いて、そっと私の上にかけたものをとった。


「急にごめんなさい、見られたくないのかと思って」


 ちらりと顔を窺えば、そこに居たのは暖かい色合いのストールを持った涼やかで整った顔立ちの少女だった。トラッドソン家の長女が確かシエナという名前だったはずと思い出しながら、私はすぐにまた顔を隠そうとうつむいた。


 そしてそこでふと、囚われていたものからある程度抜け出していることに気が付いた。同時に、とても驚く。

 驚きながらも、頭にかけられたものはストールだったらしいと合点がいって、そしてその香りがしてから妙に呼吸がしやすくなったこともその時にはっきりと自覚した。それは、今までに経験したことのないとても不思議な体験だった。


 少女は私の隣に静かに座り、そこにしばらく留まった。具合が悪そうな人間を放っておけなかったのかもしれない。

 しばらくしてから、少女は一度自分の手に戻したストールを「寒いですよね」と今度は私の肩にかけてくれた。慣れないその優しさに私は身を固くしたけれど、やはり、そのストールの暖かさとふわりと漂う香りは私を落ち着かせた。


 私はそこに彼女がいることに、不思議と安心感を覚えた。顔を見られてはいけないのだから早くどこかへ立ち去ってほしいというのも本心だったけれど、もう少しだけそこに居て欲しいと自分が思っていることにも気づいた。


 彼女の纏う空気が、私の中の何かを治めているように感じられた。


 その後のしばしの間で、私の発作は完全に収まっていた。

 時間が経ったからかもしれなかったし、けれど彼女がそばにいてくれたからなのではないかとも思った。


 ふと緩んだ私の気配を感じ取ったのか、少女の周りの空気も緩んだように感じた。彼女は何も言わず、けれど立ち上がる気配がして、もう行ってしまうのかと女々しく思った。


 すると前ぶれなく、「あ、」と少女は言った。


 なんだろう、と私はそこで初めてきちんと顔を上げた。きっと顔を見られても王子だと思われることはないだろうという落ち着いたからこその冷静な判断もあったし、彼女はもうこちらを見ていないということも分かっていたから。


 するとそこには、明るみ始めた空と、先ほどまでの雨がもたらした雫がその光を受けてきらきらとしている世界が広がっていた。

 そして、少女の横顔がその世界にやけに馴染んだ。

 私は、息を飲む。



「雨も、上がりましたね」



 穏やかで静かで、けれど聞いた中では一番嬉しそうなその響きが、やけに耳に残った。そしてその響きが私ではなく空に向かっていることに、少しの嫉妬も覚えた。


 彼女の横顔は、美しかった。

 朝焼けに照らされるその顔に浮かぶ表情は、控えめな笑顔だった。なのに、彼女はそれを心から喜んでいるのだということが分かった。その穏やかさの中にある豊かさに、私の身を委ねてしまいたいという気持ちが湧き出す。

 その顔から目を背けることは出来なかった。そして、どうしてか泣きそうになった。


 その瞬間からずっと、私のまぶたの裏にはその世界が焼き付いている。


「ストール、差し上げます。寒いから」


 ちらりと彼女はこちらの方を向いて、けれど私のことは見なかった。


「内緒にしておきます、ご安心を」


 少女はそう言って、躊躇することなく私を残して温室を離れてしまった。


 そして私の手元に残ったのは、君がくれたストールと、まぶたの裏に焼き付いて離れない君の姿だった。

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