46 金木犀と雨
「陛下……?」
わたしの口からこぼれたその声に、陛下はうずくまったまま笑っていた。あまり見た事のない、少し悪戯っぽい表情のように見えた。
「やあ、シエナ」
気づけばわたしの足は急速に動きを速めて、陛下に駆け寄っていた。陛下よりも高い目線にいてはいけないという気持ちと、そんな場所でどうしたのだろうという不安な気持ちがあった。
陛下のそばに膝をつくと、陛下は「走って大丈夫かい」と心配そうに言った。「申し訳ありません」とわたしは謝ったけれど、そんなことよりも陛下がここにいることに、まだ理解が追い付いていなかった。
「久しぶり、だね」
心臓がドキドキしていた。ここニ週間穏やかに過ごしていて高揚する機会もなかったわたしは、その圧倒的な鼓動に自分で驚く。ああ、陛下が、ここにいるのだ。全く現実味はなかったけれど、自分の心音でこれが現実なのだと分かった。
「陛下、どうされましたか」
わたしがどんな顔になっていたかは分からないけれど、陛下は苦笑いしながら「君を待っていた」とわたしの頬に手を添えた。温かい手だった。
ざあっと強い風が一度吹いて、それが収まるのを待つかのようにお互いに視線を外さないままに口を閉ざした。
「……君とここで会うのは、初めてじゃないんだ」
静けさが戻ってから、陛下はそうポツリと言った。そしてその温かい手を、すぐにわたしの頬から離す。
「ここで……?」
わたしが繰り返すと、陛下はゆっくり頷いて少し寂しそうに笑った。
「……今までの態度から君が覚えていないことは分かっていた。でも、少し思い出してほしくなってしまって」
陛下は「こんなところまで呼びつけてごめんね」と言ってから、今度はわたしの片手を優しく取る。わたしの手は冷えていて、だから尚更陛下の手を温かいと感じた。
「寒いかい?」
尋ねられて、けれどそれどころではなくて、わたしは首を急いで横に振った。
「そう」と言って、陛下は懐から質の良さそうなハンカチを取り出して陛下の横に広げた。そしてそこをポンポンと手で示して、「ちょっとだけ付き合ってくれるかい」とわたしを誘った。陛下の私物の上に座ることについては少し躊躇したけれど、どうせ断っても陛下は譲らないだろうと分かったのでわたしは頷いて、陛下の厚意に甘えてそっとそこに腰を下ろした。
「どうして私が君を中央へ呼びよせたのか、聞いてほしい」
その言葉に、今まで自分では考えても分からなかった、陛下がわたしを求める理由を説明しようとしてくれているのだと分かった。ずっと気にはなっていたことだったけれど、それをいざ聞くと思うとどこか不安な気持ちになった。
わたしが少し戸惑っている様子を見てか、陛下は繋がれたままの手に少し力を入れる。
陛下はわたしの返事を待ってくれるわけではなかった。けれど焦らず穏やかに、ゆっくりとわたしに確認するように続けた。
「西の戦争が終わった後のことだ。発作が酷くなって私が籠ってばかりだった時に、父上から国内を回るように命じられた。……その話は覚えているかい」
わたしが陛下を窺うと、陛下もわたしをそっと見ていた。視線を合わせたままわたしが頷くと、陛下は一度息を吐いてから、「その頃の話だ」と話し始めた。
それは落ち着いていて、何かを懐かしむような声だった。
*****
あの頃のことは、全てはきちんと覚えていない部分もある。何せ自分の中の感情ばかりが強くて、現実のこと以外に気を取られることも多かったから。
けれど、色々と印象に残っていることがあるんだ。
父上から命じられたのは、既に以前にも話したことがあるように国内各地を歴訪することだった。そしてそれは建前上のということではなくて、本当に各地を巡って学んでこいというものだった。私はその命令通り、北も東も、戦場になった西も、そしてこの南にも足を運んだ。
同時にそれは第一王子としての歴訪ではなくて、実態の視察も兼ねて私の身分を隠して行うものだった。そのこともあって、私について来てくれた者たちの数は第一王子の国内視察としてはありえないくらいの少人数だった。私の状態を詳しく知る者は王城内でもごく一握りだったし、私自身が信頼を置いている者も少なかった。その上父上も私を見放していたし、そういう理由を考えれば妥当な人数だったと思う。
南に来たのは、北と東を巡った後だった。歴訪の最初の頃は発作もかなり頻繁に出ていたけれど、南に来る頃には既に、その頻度はかなり収まってきていた。戦争から時間が経ったことも、父上から離れられたことも功を奏したのだと思う。
けれどそれはいつまでも完全にはなくならず、時々それが襲ってくると私はできる限り周りに知られないように一人でそれを治めようとするようになっていた。私の状態を知りながらついて来てくれている者たちにそれ以上心配をかけたくなかったし、しばらくやり過ごせば、誰にも気づかれずに何事もなかったような顔で振る舞えることも多くなっていたから。
南へ来たら、まずはトラッドソン家を訪問することにしていた。
力を持たない身分として振る舞い、北でも東でも有力な貴族の家を回った。嫌な目にも多くあったけれど第一王子としての立場からは見られない色々な側面を見られたし、それ自体は私にとって有意義だったと思っている。
この国に必要なことと不要なこと、そして色々な思いに触れた。発作は出る状態だったけれど、私自身の意識としてはかなり前向きになってきていた頃だったと思う。
トラッドソン家では、他の家よりも良い扱いを受けたことを覚えている。身元すら分からない私たちの突然の来訪にも、トラッドソン家当主は嫌な顔をしなかった。別に特段もてなされもしなかったけれど、今まで自分が見て回ってきたことや西での経験を少し話せば、それを認めてもらえるような反応があった。それから、西の戦いで長男を亡くしたと当主は言った。もしかしたらその長男と少し、重ねて見てくれていたのかもしれない。
話には聞いたことがあったけれど、ここは本当に身分に関わらず分け隔てのない環境なのだということを肌で感じる機会だった。会話をすればトラッドソン家当主は政治的にはやや詰めが甘い部分がある人だと思ったけれど、この環境を作り出している人なのだと思うと尊敬の念も抱いた。国全体がこういう雰囲気になればとも思ったことを覚えている。
一晩泊っていけと、他の家では全く言われなかったことも言われて、私はそれに従うことにした。もしかしたらそこまで甘えたら態度が変わるのかもしれないという、変な疑いの気持ちがあったからだった。
どこか温かい気持ちと、何も持たない私に対してなぜそんな風にするのか分からずに落ち着かない気持ちの中で、その晩は眠りについた。今もその名残で眠りの浅さはあるけれど、発作が起きるようになってからきちんと眠れなくなっていた私にとっては珍しく、深く眠ったことを覚えている。
けれど朝方、私は嫌な夢で目が覚めた。
息が上がり大量の冷や汗をかいて、起きたときには既に現実味のない恐怖に囚われていた。また発作だと俯瞰している自分と、恐怖に耐えられない自分とが混在していた。それは発作が起きた時にいつも思うことで、いつものようにまずは自分で落ち着こうと呼吸をしてみたものの、その日は駄目だった。
次第に恐怖が大きくなって、まだ暗い部屋の中にはもういられなかった。暗闇が怖いとか外に出ようとか、自分の頭では考える間もなくただ感情に突き動かされて、気づけば私は部屋を飛び出していた。
不幸なことに、外は静かな雨が降っていた。ちょうど今よりも季節は少し前、金木犀の香りがしている頃だった。
光を求めて外へと出たのに辺りはまだ暗くて、どこか明るい場所はないかと庭をただひたすらに歩いた。
怖さを表面上は出してはいけない。人にこれを見られてはいけない。そう強く言っている自分がいて、唯一ほのかな明かりがついていて、かつ人目につかない場所に私はたどり着いた。
それが、この温室だった。
軒下はちょうど、雨に濡れずに済む場所だった。私はそこでどうにかこの恐怖をやりすごそうと身を固くして、ただひたすらに呼吸をしていた。
傍から見ればちょうど、さっきシエナが来てくれた時と同じような姿に見えていたと思う。