44 喜びと痛み
マーガー副室長とふたり、べリス家の屋敷を出てから別邸へと戻った。
玄関の扉を開ければ家を出たときと変わらない表情のニカがわたしたちを出迎えてくれて、わたしはやっと心からの安心を得られたように感じた。一度深く息を吸って吐けば、自分では感じていなかった身体のこわばりが抜けていった。
応接室に入ると、ニカはすぐに冷たいお茶を用意してくれた。わたしはマーガー副室長とソファに座って、今回の訪問の振り返りを行った。べリス家当主の様子から読み取ったことをお互いに共有してから、特にマーガー副室長が退室してからのことを詳しくわたしから話した。
「戻って来いって……」
一通りわたしの話を聞き終わったマーガー副室長が最初に言ったのは、やはりべリス家当主の要求のことだった。驚いた表情の彼女に、わたしもその気持ちへの同意の意味で頷いた。
「それには正直、わたしも驚きました」
「それで、……その場で断らなかったの?」
マーガー副室長はわたしがそれを断らなかったことが意外だったという顔をしていた。プライベートなことでもあるし、跳ねのけようと思えばおそらく跳ねのけられた要求だった。
「そうですね……。唐突な申し出ではありましたが、ヴァルバレーのためにわたしに出来ることがあるのなら、べリス家にもう一度入るのも悪くないかもしれないと思いました」
純粋にわたしはそう思っていた。けれど、確かにそもそも貴族の離縁は稀である。それがその上で同じ人と再婚するというのは聞いたことがないことだった。発想自体が突飛だし、誰に言ってもおそらく驚かれるだろう。
「けれど、…、あまり良い扱いは受けていなかったんでしょう」
マーガー副室長には元旦那様との関係を詳しくは話したことがなかった。けれど、おそらく色々な噂もあったのだろう。そしてわたしが屋敷へと向かうときの表情も見ていたはずだ。そこから、彼女はなんとなく事実に近いことを察してくれているようだった。わたしのことを心配してくれていることがひしひしと伝わってきて、わたしは思わず苦笑いをする。
「ええ。……けれど、今回会ってみて今の当主とならやっていけそうだと思えました。夫婦としてというよりは、国からの監視役のような立ち位置になると思いますし、そこは当主も了承済みです」
「そう、……シエナさんが納得しているなら良いけれど……」
その上でお互いに合意したのなら、自分がとやかく言うことではないという様子でマーガー副室長は引き下がった。ただ自分のことをこうして心配してくださる方がいるのは嬉しいものなのだなと、じんわりと温かい気持ちになった。
マーガー副室長が帰ってから、すぐにわたしはウームウェル補佐官に宛てて手紙を書いた。そこにはマーガー副室長に説明したように、べリス家当主とのやりとりを詳細に書き綴った。
交渉内容はできる限り詳しく、そして三日後までに念書と要求書が届くはずであることを強調する。この手紙に書いた内容はわたしも承諾していること、それ以外にもべリス家当主からの要求が増える可能性もあること、そして必要であれば国の判断でべリス家に対しての条件を追加や変更してもらって構わないことなどを書き添える。
けれどおそらく国としての反応も、マーガー副室長のような「本人が良いのなら」というものになるだろう。役人の立場としての会議の場であれば、副室長のようにわたしの心配をする人はいないだろうし、この件はそれなりにすんなりと収束するのではないかと思われた。
とりあえず、今後のわたしの動きは手紙の返答次第になる。
具体的な交渉内容を自分で詰めてこいとこの後に言われる可能性もあるので、しばらくはトラッドソン領に滞在することが必要だろうなと見通しを立てた。
ニカとドクタードゥノワに、「しばらく滞在することになると思う」と見通しを伝えると、ふたりは想定していたかのように頷いた。
ドクタードゥノワに「ドクターは王城にすぐに帰られますよね」と尋ねると、「いや、長引いても終わるまで帰ってくる必要はないと陛下から言われててな」とあっけらかんとして返された。どうやらしばらくドクタードゥノワのお世話にもなれるようで、陛下には申し訳ないけれど有難いと思った。
正式な決定があるまでは、ニカにもこの先のわたしの行く道を明かすことはできない。けれど、ニカはどんなことがあっても今後わたしについてきてくれるのだろうなと思った。
べリス家に嫁いだ際には、トラッドソン家からの使用人を伴うことは許可されなかった。そのためその頃から既にわたしのお世話をしてくれていたニカがついてくることは出来なかった。けれど、あの時はそれでよかったと思う。べリス家に入っていたら、あの狭い世界に幼いニカを閉じ込めてしまうところだったのだ。
ただ、今回はニカが行かないと言わなければ一緒に来てほしかった。そして、おそらくニカはそれに応えてくれるだろう。
なんとなく緊張が解けてふわふわとした心地の中、わたしはニカの用意してくれた栄養のあるご飯を食べて、ゆっくりと温かいお風呂に浸かって湯浴みをした。体調も悪くない、ここ最近の中では一番気がかりなこともない。
とても幸せな夜だと思った。
その日の夜は早くに寝台に入って昏々と眠った。
王城に上がった日以来、一番長く眠った夜だったかもしれない。
たぶん、夜中は夢も全く見なかった。
けれど朝方、陛下の声が聞こえたような気がして、わたしの意識は浮上した。もちろん陛下がいるわけがなかったのだけれど、ぼんやりとした意識の中その穏やかな声に、ああ、幸せだなと思った。
けれど、まだ覚醒しきらない頭の中でわたしの思考は無意識に流れ、わたしの未来に陛下はいないのだなと、それだけは悲しいような気がした。
*****
別邸に待機している間は仕事という仕事は全くなかった。そもそもわたしはトラッドソン家伝令役とトラッドソン領調整役であるけれど、これは今回のタタレドの件で作られた役職だった。その問題が一旦収まろうとしている今、もうわたしの出る幕などなかった。
そして、数日後にウームウェル補佐官から返ってきたのは、端的な手紙だった。
王城にべリス家当主からの文書が届いたことの報告と、結論が出るまではトラッドソン領調整役はトラッドソン領に待機することという内容がまず書かれていた。
それから、おそらくタタレドからの侵略の危機は一度乗り越えたと思われること、間諜と情報収集室の調査団はもうしばらくは動向を探るために活動を続けることが戦略会議で決定されたということも報告された。
また今後も戦略会議での検討を重ねた上で、必要な際にはわたしにウームウェル補佐官経由で指示が出される流れになるようだった。想定していた通り、わたしが直接交渉に動く可能性もあるため少なくとも二週間ほどはトラッドソン領に待機して欲しいとあった。
王城内も少し落ち着いてきたといった様子も記されていて、わたしはホッとした。
べリス家当主との交渉だけしかしていないために、いまいちタタレドとの件を俯瞰できていないわたし自身は、何かが変わったということを正直なところあまり実感できていなかった。けれど、ウームウェル補佐官が危機を乗り越えたというならおそらくそうなのだろう。わたしの働きはきちんと、成果を上げて国に貢献できたのかもしれないと思った。
同時に浮かぶのは、戦うことを恐れていた陛下がもう戦わずに済むのかもしれないということだった。そう思うと、そこにはじわりと、説明することが難しい何かが湧き上がるのだった。
わたしはそれが何であるか、敢えて考えないことにした。
わたしはいつでも動けるようにと準備をしていた。
けれど、それからしばらくは中央からの手紙が来ることはなかった。
毎日ドクタードゥノワの診察を受け、ニカの美味しいご飯を食べて過ごした。
ああ、平和だなあと思いながら、少しずつわたしの意識はタタレドやべリス家のことよりも、自分の身体とそこに宿るものへと向いて行った。今までは外側の脅威に向くしかなかったわたしの気持ちだったけれど、王城からの音沙汰がないことで今はこの子を守り育てることに向き合えていた。
それは、わたしにとっては喜びのような感覚だった。
一方でその喜びと同時に、どうしても陛下への想いはちらついた。それには痛みを伴ったけれど、わたしは極力、そこには触れないようにした。
そしてその想いが出てくる度に、認めることができないその気持ちには鍵をかけて生きていくのだと、それがあたかも最初からなかったかのように振る舞い続けたのだった。