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43 要求と将来

 わたしは当主のその言葉に、しばし固まった。取り繕うとか、表情を作るとか、そうすることを忘れるくらいに驚いた。ぽろりとこぼすように見せてしまったわたしの素の表情に、べリス家当主は面白そうに笑った。そんな顔も、初めて見た。


「驚いてるのか?」


「いえ、……そう、ですね」


 わたしは何と答えるべきかと、驚きながらも頭を働かせた。ここで当主のペースにしてはいけないと思った。もしかしたら何か、この提案には裏があるかもしれないのだから。じわりと汗が滲む。



「……旦那様にとっての良い女と、今のわたしはもう違います。再婚したとして、もう以前のわたしのように振舞うことはできません」


 そうだ、おそらくマルタを手放すにあたって、都合の良い女が再び欲しくなっただけなのだろうとあたりを付ける。

 けれどそのわたしの言葉にも、「そうだろうな」と元旦那様は楽しげだった。

 そしてそこで、自分が無意識に彼を旦那様と呼んでいたことに気づいた。もう既に、ペースは握られてしまっている。


「それくらいは、今日のあんたの姿を見ればわかるさ。だけど、興味が出たんだよ、今のシエナに」


 その率直さに、多分これはこの人の本心なのだろうなというのは分かった。裏があるわけではないのかもしれない。けれど、これはどうしたものだろうかと内心頭を抱えてしまう。

 でも、表情はなんとか自分で制御しなければ、と気持ちを立て直す。


「……全く都合の良い女ではありませんよ。口出しもします、嫌なことは拒否します。身体も、許しません」


 とりあえず今のわたしに考え付くのは、元旦那様が納得しなさそうなことを並べることくらいだった。

 そしてそれを聞いても、元旦那様は「そうか」と笑う。


「別に都合の良い女が欲しいわけじゃないさ。おそらく俺には子は望めないだろうから、もうそういうのも必要ない。まあ、お前との関係としてはちょっと惜しい気はするがな。……一番欲しいのは、たとえ跡継ぎが出来なくても、今後ヴァルバレーで生き残っていくための方法を一緒に考えられる人間だ」


 前を見据えた元旦那様のその言葉に、わたしの内側ではじわりと、ふたつのことが浮かび上がってきた。


 まず浮かんだのは、わたしの中の宿るものについてだった。

 順調にいけば、十月(とつき)ほどもせずこの子は生まれてくる。わたしはそれまで、全力を尽くしてこの子を守ると誓った。


 けれど、その後はどうだろうか。

 この子を産んでからの、わたしの行く末はどうなるのだろう。

 トラッドソン領へ来る馬車の中でも考えたように、陛下への想いはいくら願っても叶うことはないのは明白だった。この気持ちを持ち続けながら、陛下のために生きると誓ったとして。では、その後のわたしには何ができるだろうか。


 そしてもう一つは、初めて元旦那様から()()()()()()認められたという感覚だった。


 16歳の頃から常に女としてのわたしを求められてきた。手荒に身体を求められて、わたしの心は一瞥もされなかったあの頃が思い出される。今でもそれはとても苦くて暗い記憶だった。


 わたしは変わった。もう、あの頃のわたしではない。そしてそれと同じようにおそらく、目の前にいる元旦那様もどこか変わったのだろうと思った。

 いや、もしかしたら見えていなかっただけで、元旦那様は元々こんな顔を持っていたのかもしれない。けれど、それはあの時のわたしの立ち位置からは全く見えなかったものだった。


 あの頃分かり合えなかった、殺したいと思うほど憎んだ、その気持ちもまだあるけれど。もしかしたら、今度は話し合えるのかもしれない。

 少しは分かり合えるのかも、しれない。


 不思議とわたしは過去に囚われていた怖さや憎さや寂しさ、そういう類の元旦那様への気持ちに固執せずいられていることに気づいた。

 傷はあるけれど、それはきちんと治ろうとしているのだ。そう思えた。


 そして、元旦那様には微塵も未練はなかったけれど、そこにわたしの役割があるのではないのかという気はした。

 こうして腹を割って話せるのなら、役割としてここに戻ることもそれほど悪くないのかもしれないと思う自分がいることに気づく。


 わたしがその役割に収まれば、べリス家の監視ができる。今後同じようなことが繰り返されないようにしていけるだろう。そしてその上で、トラッドソン領やヴァルバレーにとって良い方向で関係を築くことができるかもしれない。

 そうすれば、わたしはその面で陛下や国へと貢献することができるのではないだろうか。


 十一年前、わたしがここに嫁いだ時に背負った役割は果たせなかったけれど。今ならそれができる所に、わたしは来ているのかもしれない。


 わたしの生きる道はここにあるのではないか。

 それは、すんなりと腑に落ちるような感覚だった。


 わたしは前を向く。元旦那様の目をじっと見た。元旦那様も、その視線をそらさない。彼も前を向いていて、わたしと向き合おうとしているように思えた。


「……すぐには返事ができません。わたしには……今は重要な仕事がありますので。その要求に応えられるとしても一年は先になるでしょう」


 わたしはまず、お腹に宿ったこの子を第一に考えなければならない。動けるとしても、その先になる。それで良いのかをまずは確認しようと思った。


「ああ、まあ、いきなりだしな。それは構わない。こちらだってマルタをどうするか、その辺りのことですぐには動けないだろうから」


 それもそうかと頷く。マルタと元旦那様がこの先どうするのかは分からなかったけれど、元旦那様としてはもうマルタとの関係を続ける気はないようだった。マルタを囲っていたのは、べリス家としてタタレドとのつながりを保ち続けるためだったのかもしれない。

 先ほどの怒りを見たときにはマルタへの強い情があるのかと思ったけれど、今の姿を見ればそうではなかったのだろうと感じた。あれは、自分をないがしろにされたという怒りだったのかもしれない。


「シエナ、気づいたか?この家の使用人達のこと」


 元旦那様は苦笑しながらわたしにそう聞いた。わたしがこの屋敷に来て違和感を覚えたことについて、元旦那様から話題をあげられる。


「……わたくしの知らない方々ばかりだ、とは思いましたが」


「そうなんだよ」


 元旦那様は肩をすくめる。わたしはそれには反応を返さなかったけれど、彼は気にせずに参っているというような顔をして続けた。


「マルタが嫁いでくる時に、あちらの要求で総入れ替えさせられたんだ。タタレドとの関係を強められるならと思って従ったが、どうやら最初から俺は飲み込まれていたらしい」


 そう話す元旦那様だけれど、別に深刻そうな雰囲気ではなかった。もう既にマルタについては感情が揺さぶられてはいないのだろう。

 そして屋敷内の変化はどうやら元旦那様の意思ではなく、やはりマルタが来た際に起きたことのようだ。


「俺がヴァルバレーに移民を増やしたやり方と同じだ。笑えるよな」


 それを聞いて、なるほどと思った。

 元旦那様がトラッドソン領に入る移民を増やして侵略の際に内側からヴァルバレーを崩そうと試みたように、タタレドの大臣もべリス家の中に味方を送り込んで、その内側からべリス家を崩そうとしていたということだろう。

 つまり、べリス家はマルタとその背後にいるタタレドの意思に侵略されるところだったということだ。


「……本当に俺は、人を見る目がない」


 どこか遠い目をしてそう言ってから、元旦那様の視線はすぐにまたわたしをしっかりと捕らえた。


「ああでも、ということは、俺が一度手放したお前は間違いのない人間なんだろうな」


 それは苦笑のような、けれどどこか嬉しそうな声だった。


「……今ここで、返答することはできません。まずは念書と、……あとは要求についても文書をいただくのが最初です。その上で条件をきちんと確認して正式に回答することになります」


 元旦那様は少し真剣な表情になってから「わかった」と短く頷いた。

 本当にそれだけで良いのかと思うくらい、国から見れば拍子抜けするような簡単な交渉材料だ。わたしが頷きさえすればおそらく、これは丸く収まる条件だった。


「……他には何か?」


 本当にそれだけで良いのかという意味で一応確認したけれど、元旦那様はすぐに「いや、ない」と首を横に振った。


「そうですか。それでは書類の期日は……中央へ3日以内としていただけますか」


「ああ、すぐにでも」


 元旦那様はどこか穏やかにも見えた。その様子を不思議にも思ったけれど、その立場を想像してみれば、今回の侵略の件でのタタレドの上層部との葛藤や、妊娠についてのマルタへの疑念などがずっとあったのかもしれない。そして覚悟を決めてそれらから解放されて、新たな道を見つけたような気持ちなのかもしれなかった。


 わたしはそんな想像をしながら、今日の自分の役割はすべて果たしたことを今一度頭の中で確認した。それから、もうこれ以上今日はここに居る必要はないなとソファから立ち上がる。


「それでは、今日はこれで」


「ああ。……会えてよかった、良い返事を期待している」


 元旦那様はそう言うと、わたしのために部屋の扉を開けてくれた。廊下にはマーガー副室長が立ったままで、気疲れしたような顔でわたしを待っていた。わたしは頷いて見せると、なんとかなったのだということは伝わったようだった。


「シエナ、また」


 そう言って、元旦那様は近くにいた使用人にわたしたちを玄関まで丁重に送るようにと命じたのだった。

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