42 独白と探り合い
当然その怒りはわたしに向けられたものだろうと身構えたけれど、べリス家当主は思った以上にわたしたちに対して落ち着いた態度で話を続ける。
「マルタの相手は誰だ」
そして最初に確認されたその言葉から、その怒りはマルタに向けられたものだろうということが分かった。
自分のモノだと思っていた女が、外で不貞をしている。
おそらく自分を裏切ったことに対して怒っているのだろう。マルタ自身への執着が当主にどれくらいあるのかは分からなかったけれど、少なくとも自分のモノと思っていたものがそうではないかもしれないと聞かされて、彼は怒っていた。
「ロレンゾ・オルドネスという男だと。マルタの実家の元使用人からの証言もありました」
おそらく、当主も知っている男だったのだろう。それを聞いたべリス家当主の周りにはぐっと感情が立ち上る。
「そんなわけが……!」
低く部屋が震えるようなその短い怒号に、彼の怒りは込められていた。
以前のわたしなら怖いと思っていた場面だっただろう。けれど、今はもうこの人とわたしの間には何の関係もない。わたしはこの人とのことを、きちんと割り切れているのだなと改めて思った。
そしてそれ以上、当主の怒りがわたしたちへとぶつけられることはなかった。
当主は身体を少し震わせながら、無言で立ち上がる。抑えられない感情に動かされるように窓の方へと足を運んでわたしたちに背中を向けると、そこにはまた少し沈黙が落ちた。
それからしばらくして、突然、当主は笑いだした。
「はは、ははは……!」
予想していなかった不気味なその笑いに、わたしは驚いて身体を強ばらせた。けれど、それを態度には出さないようにと心がける。この元旦那様の前で、こうして何度も自分を取り繕ってきたのだ。
「そうか。……やはりそうなのか」
当主はわたしたちに背中を向けたまま、額に手を当てるような仕草をした。
「……おかしいと思ったんだ。一人目の妻との間にも、お前との間にも子が生まれなかった……今まで他の女も孕ませようとしたさ、跡取りは必要だった。だが、どんなに待ってもできなかったんだ。……なのに急に、マルタが孕んだと言った。私の子だと」
その低い声に含まれるものが怒りなのか悲しみなのか、わたしには分からなかった。
「……嬉しかったんだ、自分は男としての能がないわけではなかったと。……だが、やはり、違ったというわけだ」
その独白に、わたしはさらに驚いた。あの横柄な元旦那様が、そんなことを考えていたのだと初めて知ったから。わたしと同じように、自分に子ができないのは自分のせいなのではないかと、どこかでずっと思っていたのだ、この人は。
「もう俺は35歳だ。後継ぎは欲しかったさ。シエナを手放したのは、自分を能無しだと認めたくなかったからでもある。お前は良い女だったよ。……もともとずっと添い遂げようとは思っていなかったが、タタレドに生まれてくれていれば、一生手放さなかったかもしれない」
彼にとっての良い女と言うのは、おそらく都合の良い女という意味だっただろう。自分でもそう思う。元旦那様をひたすら立てて、機嫌を窺って、自己主張をしない。わたしはここでは、そういう女だった。
そして当主は、ゆらりとこちらを振り返った。
「……私を、捕えないのか」
その声はさらに低く響いた。
そしてそれは、彼が自分がタタレドと繋がっているということをわたしたちの前で認めたような発言だった。おそらく、マルタがタタレドの間諜だということも、そうだとすれば侵略後に自分がどういう行く末をたどるのかも理解したのだろうと感じられた。
そしてその行く末は、自らとべリス家の破滅である。
「……どうしてもこちらの味方につかないとおっしゃるのであれば、捕らえましょう。ただ、今の時点であなたは犯罪を犯しているわけではありません。国としても、あなたはトラッドソン領とタタレドを結ぶ重要な人だと認識しています。捕らえた後のことを考えれば、影響は大きい。あなたがこちらと手を組むつもりがあるのであれば、交渉に応じましょう」
形勢は、明らかにこちらが良かった。
べリス家当主は自らの立ち位置をわたしたちに明かし、もうこちらに反発するような意思は見られなかった。タタレドにつけば破滅が、ヴァルバレーに反抗すれば拘束という未来があることを、彼にはきちんと見えているようだった。
「……どうせもう、信じてはもらえないだろうけどな。……タタレドの上層部とは手を切ろう。ヴァルバレーへの侵略も、タタレドから打診されても拒否する。今回の件は、俺が発端ではない。タタレドからの打診があったから手を貸すことにしただけだ。あちらは俺や、トラッドソン領にいる移民を頼らなければ勝ち目はないとわかっている」
当主は、長く深く、息を吐いた。
「……ヴァルバレーと、手を組む。……これで交渉する余地は」
それは、べリス家が正式にヴァルバレーに取り込まれる覚悟を決めた瞬間だった。
わたしの揺さぶりは、どうやら成功したようだった。それを感じて、静かに息をひとつ吐き出す。
けれど、安堵する暇はない。ここからは取り込むための交渉の段に入らなければならない。
「話し合いには応じます。……あなたの身柄を拘束はしません。陛下は――ヴァルバレーは、べリス家との友好な関係を望んでいますから」
陛下の顔が脳裏に浮かんで、わたしはぎゅっと手を握った。わたしの役目は、おそらく山を越えた。わたしが思っていたよりもべリス家当主が自らの立場や状況を把握する能力が高かったために話が早く進んだように思えた。
婚姻関係にあった間、こうして腹を割って話したことは一度もなかった。そして彼には彼の、わたしの知らない苦悩がきっとたくさんあったのだろうということに、わたしはつい先程気がついた。
あの頃、わたしがただただ怖いと感じていた裏には、何があったのだろうか。
しばし考えるそぶりを見せてから、べリス家当主はマーガー副室長をちらりと見て口を開いた。
「交渉は、シエナ、……お前と二人でしたい」
正直、予想していなかったその言葉に、わたしは今日一番驚いていた。
マーガー副室長はわたしと視線を合わせて、どうするべきかと思案している様子だった。あくまでこの場の責任者は副室長だ。
けれどおそらく、この当主とであれば話し合いが可能だとわたしは思った。
わたしがマーガー副室長の目を見ながら頷くと、やや心配そうな顔はしながらも彼女は頷き返してくれた。
「……では、わたくしは一度退席致します。廊下におりますので……、なにか大きな音などありましたらすぐに参ります」
それは、べリス家当主への牽制だった。「わかってるよ」とべリス家当主は苦笑する。おそらく本当にわたしへの手荒な真似などはしようと思っていないのだろう。
二人での交渉を許可されて、当主の態度はかなり柔らかくなったように感じた。
マーガー副室長が退室すると、べリス家当主はまたソファに腰掛けた。わたしの真正面に座って、わたしの顔を見る。こうして堂々とお互い顔を突き合わせることも、婚姻している間にはなかったことだった。
「それで、何か要求は」
わたしが端的に尋ねると、べリス家当主はまた苦笑した。
「色気も何もねえな、元奥さん」
「今は他人ですから」
わたしが淡々と流すと、「はは」と元旦那様は笑った。先程までよりも、裏表のない顔に見えた。こんなに気安く話しかけられることなんて初めてだった。
「国としてはべリス家から、もう反逆しないとか、タタレド側につかないとか、そういう念書の類が欲しいだろう」
それはもちろんあるに越したことはないだろうと、わたしは頷く。
「じゃあそれは揃えることにする」
当主が立ち位置を理解しているために、これ以上なくスムーズにまとまる。けれど、おそらくわたしと二人でしたかったのはこの話ではないだろうということくらいは察することができる。わたしは警戒を解かなかった。
けれど静かに、元旦那様は唐突にも聞こえることをポツリと口にしはじめた。
「……移民は、どっちつかずだ。タタレドへ行けば国を捨てたと言われて、ヴァルバレーではいつ反逆を起こすのかと言われる」
わたしから少し視線をそらしてそう言った元旦那様の周りには、なんとも言えない悲しみのような感情が浮かんでいた。それは、彼の本心なのだろうと思った。
元旦那様は移民二世だった。彼の父親が現役の頃にヴァルバレーへと移り住むことを決めたのだ。彼には決める権利はなかっただろう、彼はその運命を受け入れなければならない側の人間だった。
「お前と結婚することを要求した時、期待していた。本当にヴァルバレーに受け入れられるのではないかと。けれど同時に、心から信じることはできなかった。子ができてもできなくても、俺はお前と一度別れていたような気がする」
陛下が言っていた通り、元旦那様はわたしに子ができていても離縁を進めたのかもしれない。わたしが16歳で受けた、24歳の元旦那様の虚勢を張った手荒で乱暴な印象はその実、こんなに弱弱しかったのかと思った。
「……タタレドは独特な国だ。栄えている街もあるし、その独特な文化を外に売るための商業も盛んだ。けれど、それは平民が犠牲になっているからでもある。……トラッドソン領への移民が増えているのは知っているか」
わたしは声を出さずに頷いた。
「タタレドよりも住みやすい国があると、タタレドの平民の間でそう伝わっているらしい。実は今までは移民を増やし過ぎないようにとべリス家が管理していた。だが、この侵略計画に際してその制限を取り払ったんだ。中からも侵攻を進めやすくなるようにと」
この辺りは陛下が予想していたことと近いのだろう。タタレド人の婿が増えたのは、実際にこの侵略計画のためだったのだ。
「けどな」
元旦那様は、わたしに視線をまた移す。なんとも言えない感情が映る目だった。
「平民にとっては、間違いなくトラッドソン領の方が住み良いんだよ。だから、あいつらはどちらにしろ力にはならなかっただろう。俺は今の立ち位置でいれば、タタレドと手を組んだ方がべリス家の繁栄につながると踏んでいたからそうしただけだ。……タタレドへの思い入れなどはない。ただ、タタレドが侵略されると家の商売が成り立たなくなるから困るがな」
わたしは「つまり」と一呼吸おいてから、元旦那様に話しかける。
「タタレドには気持ちはないと。だから信用してほしいということですね」
わたしが明け透けに言うと、「平たく言えば」と元旦那様は肩をすくめた。
「信用できるかは、これからの行動次第ではないでしょうか」
わたしがそう言うと「そうだな」と低い声で元旦那様はうめいた。
「信用してもらうために俺が行動していくとして、……タタレドにもう寝返らないようにと保険をかけたいヴァルバレーに、要求したいものがある」
やっと交渉の本題に入りそうなその雰囲気に、わたしは姿勢を正した。何を求められるのだろうかと、やや緊張した。何にせよわたしがこの場で決められることではないだろうから緊張しても仕方ないのだけれど、決裂しそうなものならそれは無理と断るくらいはしなければならないだろう。
わたしがじっと元旦那様を見れば、元旦那様は何故かわたしに対して笑いかけていた。嫌味のない顔だな、とふと父上を思い出した。
「シエナ、べリス家に戻ってこい」
それは、青天の霹靂だった。
つまり元旦那様は、ヴァルバレーとの友好関係を築くための交渉材料として、前妻であるわたしを要求すると言っていた。