41 再会と駆け引き
「お前、……なぜここに……」
そして次にべリス家当主の顔に浮かんだのは、「警戒」だった。
それはそうだろう、調査するためにと家に乗り込んできた国の役人の一人が前妻だったのだ。当然の反応に思われた。
本題に持っていく前に、まずはべリス家当主を動揺させることはできたようだと感じた。
そしてそれを落ち着かせる前に畳みかけると、わたしは決めた。
「ご無沙汰しております。お変わりないようですね」
出来る限り、声には感情をのせないようにと意識した。無意識に、何度も何度も気にかかった陛下のあの声を真似ようとしていたかもしれない。
「今日は調査で参りました。わたくしも今は中央で働いておりまして」
べリス家当主は何も言わなかった。何が来るのかと、身構えているような様子だった。マーガー副室長は静かに、けれど彼女も眼光鋭く当主を見ていた。
「ところでご当主様、わたくしと離縁してからご結婚されたのですね。おめでとうございます」
緊張はしていた。手に汗もかいている。けれど、今できる精いっぱいのことをするのだという気持ちの方が強かった。運が良いのか張り詰めているためになりを潜めているのか、気持ち悪さも感じなかった。
べリス家当主は口を開く様子を見せない。それならばと、わたしは暇を与えずに核心の近くへ踏み込む判断をした。
「……噂で聞きました。奥方様、今妊娠されているんですってね」
微笑むような顔を作ると、べリス家当主が息を飲んだのが分かった。
かつて子どもが設けられなかった前妻から、そう言われるのはどんな気持ちだろうか。
わたしは一旦そこで言葉を区切った。そして当主からの返事を待つ。わたしが首を少し傾げれば、当主はハッとしたような顔になった。
「そうだ、ようやく、跡取りが生まれる」
それは苦さのようなものを含んだ声だった。わたしへの、嫌悪のようなものにも感じられた。
「そうですか、そちらもおめでたいですね」
けれど、わたしの感情はその言葉に一ミリも刺激されなかった。
自分自身が妊娠できない状態ではないともう知っているからだろうか。そう考えて、いや、仮に今わたしが妊娠していなかったとしても、それだけが自分の存在意義の全てではないことや、そこにこだわらなくても良いのだということを、もう知っているからかもしれないと思った。
「ところで、奥方様は外出も多いのですか?わたくしは、殆ど外に出していただけませんでしたが」
わたしはトラッドソン領調整役として、元旦那様の前妻の立ち位置を余すところなく使うことにした。
「……あ、ああ。妻は実家に帰ることが多いだけだ」
「ご実家ですか、……では今もタタレドに?」
「そうだ、別に問題はないだろ」
タタレドへの出国は違法でもなんでもないので、べリス家当主の言う通りそれ自体には問題はなかった。けれど、そこから先のマルタの行動はおそらく、べリス家当主にとっては問題があるだろう。
「……これはもし、ご当主様が仕向けていることなら良いのですが」
わたしはいかにもご当主様のことを心配しているのです、というような顔を作った。
当主はわたしの顔をまじまじと見ている。そこに見えたのはまだかろうじて取り繕ってある動揺と焦りと、予期できない話への恐怖のようなものだった。
「……わたくしの知り合いの商人がタタレドにおりまして。その方から、マルタ様が……いえ、奥方様が何度も実家ではない家に出入りしていると聞きました。そしてそこで男性から色々なものを買い与えられていたと。……ご当主様は、ご存じで?」
半分くらいははったりだった。けれど、揺さぶるならこれくらいの設定でないといけない。おそらく現実にも起きているであろう、嘘にはならなさそうな辺りを伝える。
するとべリス家当主は数秒、身体の動きをぴたりと止めた。それを見た上で、わたしは考える余地を与えないようにとまた口を開く。
「しかもその商人が言うのです。相手はマルタ様と同じく、大臣の息子であると。それを聞いてわたくし、旦那様のことが……いえ、ご当主様のことが心配になってしまって。マルタ様も大臣の娘と聞きました。もしそちらが本命だとしたら……」
再び女の自分をこれほどに使う日がくるなんて思わなかった。
この屋敷に来てからしばらくの間、わたしはおそらくこういう口調で、この当主との関係を作ろうとしていたはずだ。当主の興味がわたしから薄れてからは、そうする必要もなくなって少しずつ今の自分に近づいていったのだけれど。
「……なんだと?」
それは低い声だった。おそらくその動揺具合から、べリス家当主はマルタの不貞の件を全く知らなかったのだろうと推測できた。
「やはり、ご存じありませんでしたか。離縁したとは言え、わたくしもお世話になりましたので、最近心配をしていて……。ですので、今日こちらへ伺うことも志願したのです。……ご当主様、これはタタレドの裏切りではないですか」
わたしのその言葉に、当主はビクリと身体を揺らした。
ゆっくりと視線が上がって、当主はわたしの視線をとらえた。わたしはその視線をそらさず、受けて立つ。
「……裏切り、とは?……なんの話か、分からないな」
当主からすれば、タタレドと手を組んでヴァルバレーへの侵略を計画していることをここで認めるわけにはいかない場面だった。この流れで口を滑らせてくれれば、陛下が言っていたように言質をとって後々捕らえることができたかもしれないけれど、それはそううまくは行かなかった。
わたしはどうべリス家当主に話すかと一瞬思案して、けれど時間をかけすぎて当主に余裕を持たせるわけにはいかないとまた口を開く。
「……ご当主様。間違っていたら申し訳ないのですが、わたくしと離縁をしてからまたトラッドソン領が欲しくなったのではありませんか。移民から話を聞けば、タタレドとご当主様が手を組んでトラッドソン領を奪い取ろうとしていると言うのです。離縁せずにわたくしが妻としてべリス家にいれば、タタレドと手を組まなければならなかったことも、その後にタタレドの裏切りにあうこともなかったのだと思うと、わたくし、責任を感じてしまって……」
当主はさすがに、こんなに直接的に言われたことに対して肯定するような態度はとらなかった。
「いや、そんなことを考えるなど……あるわけがない」
けれど、わたしは「ですが」と言い募る。
「マルタ様は、タタレドでも内々で結婚されているとか……。一夫一妻のヴァルバレーには、あるまじきことです。失礼を承知の上ですが、大臣の息子となればお相手の身分はご当主様よりも高いでしょう?……となれば、そちらが本命なのかと思ってしまって。……ご当主様、……マルタ様は間諜なのではないのでしょうか」
口調は女としてのわたしで、態度は調整役としてのわたしだった。それには自分でもちぐはぐさを感じていたけれど、べリス家当主を揺さぶるのにはこれが一番適しているように思えた。
九年の間、自分の女だったわたしがこんなに立て続けにしゃべるなんて、当時との違いに当主が困惑しないはずがない。
「なにを、」
いきなりの情報量に、べリス家当主は明らかに動揺していた。隠しきれないその感情に、おそらくもう情報を整理するので精一杯になったのだろうと判断する。
であるのならば、とわたしは改めて口を開く。
「そこでご当主様、わたくしどもからのご提案です」
女としてのわたしを一度引っ込める。そして心配している女の顔から、真剣な役人のそれへと切り替えた。
「ご当主様、タタレドの上層部と手を切っていただけませんか。このままタタレドとの関係を続けても、すぐにご当主様は後悔することになるでしょう。そうなるより、ヴァルバレーとの関係を作り直すのが得策ではないでしょうか」
わたしはしばし、間を作った。言いたいことは言い切って、あとはべリス家当主がなんと言うかを待とうと口を閉じる。
頭を使いながらたくさん喋ったために、口はが乾いていた。侍女がお茶を出さなかったことには安堵したけれど、今は水分が欲しかった。
しばらく、べリス家当主は黙り込んだ。
それがおそらくタタレドとべリス家との関係性を物語っていた。わたしとマーガー副室長はじっと、当主を見ていた。
そして、当主は目を細めてがりがりと頭をかいてから、やっと落ち着いた口調でわたしたちへと言った。
「つまり、今手を引けば間に合うとでも?……その交渉に来たのか、お前たち」
べリス家当主はわたしたちの真意に気づいて、怒りのこもったような目でわたしを見つめていた。