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40 お守りと実行

 そしてついに、その日は来た。


 わたしは朝から緊張していた。この状況で緊張しないことは難しかった。けれどそれに完全に囚われているわけでもなくて、ある程度平常心で過ごせていた。

 体調面でも、「実際そこまで問診で分かるものでもないがな」と言いつつドクタードゥノワが診察してくれて、特に何か急を要する問題があるわけではないだろうとのことだった。時々ハンカチを口元にあてて気持ち悪さを治めることはあったけれど、それも頻繁にしなくてはならないという状態ではなかった。



 昼前にはマーガー副室長が別邸へとやってきた。マーガー副室長はいつもよりも固い面持ちで、もしかしたら彼女の方が緊張していたかもしれない。わたしは対するべリス家当主のことをある程度知っていたけれど、マーガー副室長は会ったことすらないから当然の反応かもしれないと思った。


 べリス家の調査へ向かう約束の時間は13時だった。別邸からべリス家までは30分もかからない。わたしたちは軽く最後の打合せをし、昼を少し過ぎてから時間に余裕をもって別邸を出た。

 玄関ではニカが「いってらっしゃいませ」と普段と変わらない温度で見送ってくれた。


 スーツの内側に忍ばせたニカお手製のハンカチにそっと触れると、もう一つ硬いものが感じられた。それは、ドクタードゥノワから朝にもらったものだった。

 診察後、「襲われそうになったり、身の危険を感じたりしたらこれを」と小瓶を渡されていた。「なんですか?」と薬品のようなそれを恐る恐る受け取ると、「直接触れない方が良いな、相手の顔にかけるんですよ、特に目を狙うとなお良い」とドクターは飄々として言った。

 結局中身は教えてもらえなかったけれど、使う機会がありませんようにと祈りながら、それもハンカチと一緒にすぐに取り出せるところに忍ばせた。わたしを守るためのお守りとして、とても心強く感じられた。


 それと同時に戦略会議の人々の知恵や、情報収集室の人々の努力、そしてわたしの周りの人々の協力があってわたしはここにいるのだと気が引き締まった。


 

 時間の少し前に、わたしたちはべリス家の屋敷にたどり着いていた。最初に出てきた気持ちは「懐かしい」と「恐ろしい」だった。

九年もの間、わたしはこの中で閉じ込めらるように暮らしていたのだ。


 けれどその感慨のようなものはすぐに仕舞った。今日のわたしは『トラッドソン領調整役』である。


 時間になって、マーガー副室長が呼び鈴を鳴らした。わたしは事前にマーガー副室長に「べリス家当主に会うまではできる限り顔を見せないようにしたいので、マーガー副室長の後ろに控えさせてもらいたい」とお願いしていた。

 可能ならば使用人たちからべリス家当主に「前妻が来ている」と伝わらないようにしたかった。事前情報なしに、目の前でわたしがそこにいることを理解させた方がべリス家当主に余裕を持たせずに済むと思ったからだった。


 常識的に言えば人に会う時にはあり得ない無礼な格好ではあったけれど、わたしは帽子を目深(まぶか)にかぶったままいることにした。べリス家当主はその辺りはあまりうるさくないはずだと思いながら、マーガー副室長の後ろで何かをメモしているような素振りで立つ。

 服装も、いつもの仕事用のタイトなドレスではなく、パンツスタイルのスーツにした。それも、できる限り身体の線がでないようなものをニカに選んでもらっていた。女性らしさを隠したかったからだ。


 呼び鈴に応じて「はい」と出てきた人をちらりと見ると、そこにいたのはわたしの知らない侍女だった。顔が割れていない人で良かったと安堵する。もしかしたらマルタの連れてきた侍女なのかもしれない。


「中央からトラッドソン領に派遣されております、情報収集室の調査団の者です。本日13時よりご当主様とお約束があり伺いました」


 マーガー副室長が流れるようにそう言うと、「どうぞ」と侍女は躊躇なく中へと促した。案内されて、侍女の後ろを二人でついていく。


 家の中の雰囲気は、以前と少し変わっていた。調度品の類は前はもっと武骨な感じがしていたけれど、上品な感じのものに置き換わっている。移動途中に使用人も何人か見かけたけれど、その中にはわたしが顔を知っている者はいなかった。

 なにか違和感はあったけれど、今それを考えている余裕はない。とりあえずその事は頭の片隅に取り置いておくことにした。


 侍女に案内されたのは、屋敷の中で一番見栄えが良いようにと整えられていた応接室だった。ここに住んでいた頃のわたしにはほとんど入る機会のなかった場所だ。べリス家当主がこうして、外部の人と会うときに使っている部屋だった。


 中には廊下にあったものよりも尚更高価そうな調度品や絵が飾られていて、置かれている家具の類も質の良いものだと分かる。べリス家の力を誇示するようなその部屋にやや嫌気がさしたけれど、このひけらかすような部屋を見る限りべリス家当主はわたしの知っている頃からほとんど変わっていなさそうだなと踏む。


 部屋へ入ると、侍女はわたしたちにソファに座るようにと促した。

 室内にはたしかキッチンへと続く扉があって、侍女がお茶か何かを出すためにそちらへ向かうだろうと身構えたけれど、その動きはなかった。特に接待されるようなことはなく、侍女は「お待ちください」と言って出入口から廊下へと出た。

 もしかすると、客人だとは思われていないのかもしれない。歓迎しない人をもてなさないというのは、べリス家当主なら有り得そうなことだった。


 わたしにとってはこの上なく有難い状況に、運が良いのかもしれないと根拠のないことを思った。


 部屋にはマーガー副室長とわたししかいなかったけれど、中ではもう話すことはできない。しばらくの間お互いに口を開かず、ふたりで静かに座って当主が来るのを待った。おそらく緊張しているだろうけれど、マーガー副室長もその緊張感を表面に浮かべることはなかった。やはりさすがだなと、さらに尊敬の念を深めた。


 そして五分ほどした時だった。

 「失礼」と扉の向こうから声がかかって、勢いよく扉が開かれた。そのタイミングでマーガー副室長とわたしはソファから立ち上がる。わたしは帽子をかぶったままで、その声の主を迎え入れた。



「待たせたな。べリス家当主、ビクトリノ・べリスだ」



 それは聞き慣れた、そしてもう聞きたくもなかった、全く変わっていない元旦那様の声だった。


「失礼しております、中央の情報収集室副室長のマーガーです。こちらは助手です」


 わたしはできる限り目を合わせないようにと深くお辞儀をする。べリス家当主の不躾な視線は感じたけれど、わたしへの興味はすぐに失ったらしい当主はマーガー副室長に話しかける。


「中央ではこんな綺麗な女性が役人なんてしているのか、もったいないな」


 べリス家当主はマーガー副室長の容姿に気を取られたようだった。マーガー副室長には申し訳ないけれど、こちらに注目されなかったことにわたしは安堵する。副室長はその言葉には「もったいないお言葉です」と微笑みを浮かべ、すぐに言葉を続けた。


「今日は調査で参りました。ここ最近はタタレドとの緊張状態がありましたし、トラッドソン領民の方々の生活向上のための調査です、ご協力いただき感謝いたします」


「ああ、我が家は特に必要としていることはないな。()()()()()()タタレドからの輸入も滞りなく、問題は起きていない」


 そのべリス家当主の言葉は、「べリス家には調査など必要ない」と言っていた。けれどマーガー副室長はそれに飲まれることなく、「全ての家に聞いていることがいくつかありますのでお答えいただけますか」と丁寧な対応は変わらない。


 べリス家当主は面倒くさそうに肩をすくめながら、けれどそれ自体は拒否しなかった。

 元タタレド国民であるべリス家当主に対しても他の移民と同じような質問を投げかけ、べリス家当主が「問題ない」と何度か答えるのを、わたしはあまり目線を上げないようにと注意しながら観察していた。


 どこでわたしが話を切り出すべきか、わたしはじりじりと考え続けていた。


「この家にいる、タタレドからの移民の方はご当主だけでしょうか」


 マーガー副室長はそう聞いた。これも、既定の質問だった。他のほとんどの家は妻がトラッドソン領民、夫がタタレド婿としての移民だったけれど、稀に夫の家族もトラッドソン領へと移民として入っている家があったために作られた質問だった。


「ああ、……いや、妻も移民になるが」


 そのべリス家当主の反応は、今までとは少しだけ違うように感じられた。一度頷きかけてから否定する、煮え切らないような態度だった。おそらく、どう答えるのが良いかと一瞬の迷いがあったのだと思う。ただ、否定したところで戸籍を調べれば妻もタタレド移民であることは明らかになるので、隠さないでおこうという判断をしたのではないかと思った。


「そうですか、では、奥様はご在宅でしょうか。可能なら聞き取りをさせていただきたいと思うのですが」


 マーガー副室長がそう踏み込むと、べリス家当主はすぐに「いや」と首を横に振った。


「妻は不在だ。どうしても必要であれば、また日を改めてきていただくしかない」


 幾分か丁寧になったその口調と言葉に、緊張が見えた。たぶん、べリス家当主を知らない人から見たら気づかないような些細なものだったけれど。

 それに気づいて、こうして陛下の――国の役に立てる機会があったのだから、暗かった九年間の積み重ねがあって良かったのかもしれないと思った。


 その返答に、「そうですか、どうしてもというわけではございませんので」とマーガー副室長は一度引く。

 するとべリス家当主は「妻が連れてきた使用人達も移民だが……」と違う方向へと話を進めようとした。


 勝負をするならここだろうと思った。べリス家当主が妻の話題にやや動揺している今だろう、と。



「……少しよろしいでしょうか」



 わたしはメモから顔を上げて、べリス家当主を見た。

 突然の助手からの投げかけに、べリス家当主は不審そうな顔をした。それから初めてきちんとわたしへとその視線が向けられたけれど、当主はまだわたしに気づいていない様子だった。

 わたしは、静かに帽子をとる。


 すると急速に、べリス家当主の顔に驚きの色が浮かんだ。

 おそらく、その驚きもべリス家当主はある程度制御しようとしていたのだろう。表面上はそこまでの変化はなかったかもしれない。けれど、その目に浮かぶものが「驚愕」であることを、わたしは間違いなく見たのだった。

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