38 焦がれとしるし
翌朝は、思っていたよりも早く目が覚めた。
少し早めに眠ったせいもあったかもしれないけれど、なんとなく、緊張しているのかもしれないとも思った。ただ、まだそれほど自覚的ではなかった。
トラッドソン領への到着が遅い時間にならないようにと、今日の出立は早い時間に設定されていた。公式な任務のため、トラッドソン家のものではなく国で管理されている馬車を使っての移動が予定されている。それに乗るためには今日も一度、王城へと出向かなければいけない。
わたしはゆるりと起きてからいつもより少しだけ時間をかけて支度をして、ニカが用意してくれた柔らかいパンとサラダを食べながら、あたたかい白湯を飲んだ。
その温かさがじんわりと身体に広がったのを感じて、やっと目が覚めたような気がした。
「今朝は寒いようです」とニカがやや厚手のコートを出してくれて、身体を冷やすなとドクターミュゼットに言われたことを思い出しながらそれを着た。
今日はわたしが王城から馬車に乗り、その後でニカと荷物を拾ってトラッドソン領へ向かう計画になっていた。コートのポケットにハーブティの香りのハンカチを忍ばせてから、わたしはニカに見送られつつ部屋を後にした。
王城にたどり着いてまず、王族の居住区画へと続く扉へと向かった。陛下に会うためではなく、ドクタードゥノワを迎えに行くためだった。
ドクタードゥノワは今回一応わたしの侍従にカモフラージュすることになった。であるならば王城内でも目立たない場所で合流する方が良いだろうと、ウームウェル補佐官から指摘されていた。
陛下とのことが漏れていないのは、内側には本当に陛下が信頼している者しか控えていないためであることが今なら分かる。それにそもそも、そこは王城内でもかなり奥まった場所にある。居住区画の出入口の近くにすら、普段人はほとんどいなかった。陛下と約束をして、内側の執務室に入るために来た役職持ちくらいしかここまでは来ないのだろう。
王族の居住区画と言っても、ウームウェル補佐官から聞いた話によれば今内側にお住まいなのは陛下だけなのだそうだ。
その点、扉の内側で合流するのは都合が良かった。厳重に管理されていると知った今、そんなに簡単に内側に入って良いわけがないとわたしは躊躇したけれど、ウームウェル補佐官は容易く「問題ありませんよ」と言った。結局他に適当な場所が思いつかず、その言葉に甘える形でそれは決まった。
わたしは門番に声をかけて内側へと入れてもらってから、ドクタードゥノワが勤務中は常駐しているという部屋へ向かった。陛下の執務室と寝室の中間あたりにあるその部屋の扉は簡素で、わたしはあまり緊張せずにその扉を軽くノックした。
「おはようございます、トラッドソン家伝令役です」
言ってから『トラッドソン領調整役です』の方が妥当だったかなと考えたけれど、ドクタードゥノワは気にしなさそうだなと考えるのをやめた。ここから先は調整役としての任務になる。次からは気を付けようとだけ思った。
けれど聞こえてきた声に、わたしは一瞬で緊張が高まった。正確に言えばこの感覚が緊張と呼ぶものなのか、そうでないのかは分からなかったけれど、身体が強張って、一瞬で体温が上がるのを感じた。
「入って」
それは紛れもなく、会って話したいと思っていた陛下の声だったから。
一瞬フリーズしたけれど、ガチャと目の前の扉があちら側から開かれるのが分かって、これを表に出したままではいけないとわたしは顔を作った。できる限り、真面目な臣下に見えるような顔を。
開かれた扉の先に見えたのは、やはり間違いなく陛下だった。
ここに陛下がいるなんてことはまったく想定していなかった。会えないままの出立になるのだろうと、気持ちの整理をしていたのに。
何に対してかそんな恨みがましいような気持ちになって、けれどわたしは取り繕いながら陛下に恭しく礼をした。
「陛下、おはようございます」
「それは内側ではいらないって言ってるのに」
頭の上から陛下の苦笑が聞こえてきて、「シエナ様は真面目だねえ」と面白そうに言う別の声も聞こえてきた。どうやら中にはドクタードゥノワもいるようだった。『様』を付けられた呼び方に面食らいそうになったけれど、今日これからの侍従役としての予行演習かもしれない。
促されて中へと入ると、柔らかい雰囲気の陛下と面白そうな表情を浮かべたドクタードゥノワがいた。陛下にまずなんと声をかければ良いのかと逡巡しはじめてすぐに、陛下から声をかけていただいた。
「体調はどうだい」
顔を上げると近くに陛下がいらして、既に早くなっていた心臓は収まりそうになかった。
「問題ありません。昨日からわりと調子も良いようで……」
わたしが言いかけると、そこまで広くないごちゃごちゃした部屋の中央あたりにいたドクタードゥノワが会話に入ってくる。ドクターの部屋らしさがあるなと部屋をちらりと見て思った。
「陛下、それ、私が聞くことです。陛下には別にあるでしょうが」
それはいかにも私の仕事を取らないでくださいというような物言いだったけれど、声からはおもしろがっていることが丸分かりだった。
陛下はやや嫌そうな顔をして一度ドクタードゥノワを見やったけれど、特に何も言わずにまたわたしの方を向く。
「……おととい少し気まずいままだっただろう。昨日もきちんと話せなかったから、出立前にと思ったんだ」
わたしとぎくしゃくしたままだったために、わざわざ陛下が時間を割いてここにいらしてくださったのかと少し驚いた。わたしは話したかったけれど、陛下もそう思ってくれていたのだろうかなんて都合の良い考えが浮かぶ。けれど、それは一臣下として、そして世継ぎを生む身としてだとすぐに自分を牽制する。思いあがってはいけない。
「……わざわざ、申し訳ございません。わたくしは大丈夫ですので」
そう言ってわたしが陛下に頭を下げようとすると、陛下はわたしに触れてその行動を止めた。いきなり触れられて、わたしは今度は驚いた表情を取り繕えなかった。
「謝らないで」
その一言は、いつもよりも鋭かった。陛下がどんな気持ちなのかは分からなかったけれど、その真剣さにわたしは動きを止めた。その顔を見ると反射的に「……分かりました」という言葉がわたしの口から出る。
そうすれば陛下の雰囲気が少し緩んで、それからまた柔和な表情に戻った。
「君はきっと、問題なくやってきてくれると思っているよ」
言葉は国王陛下としてのそれのように思えたけれど、それにしては態度や声はゆるやかだった。
「……けれどね、心配もしてしまうのは許してほしい」
陛下の腕がわたしの頬に優しく伸びてきて、わたしは思わず身じろいだ。
許してほしいだなんて、国王陛下が言う言葉ではないと、わたしは触れられたまま首を小さく横に振った。
陛下はわたしを見てふと笑ってから、一歩踏み出して少しわたしとの距離を縮める。わたしの心臓は、もう完全に落ち着くタイミングを逃していた。
すると陛下の背後から「どうしてそういうことを他人がいる前でできるんですかねえ」という声と大きなため息が聞こえて、ドクタードゥノワはカツカツと、おそらくわざと足音を立てながら陛下とわたしの横を通り過ぎた。
「良いですか陛下。すぐ、すぐに出立ですからね」
忠告のような言葉を残して、ドクタードゥノワは部屋の外へと出て行った。陛下とのこの距離を見られたことが恥ずかしくて、わたしは陛下から目を逸らす。陛下は何ともないような顔をして、同時にどこか面白くなさそうな顔にもなって、わたしの頬に添えた手をその表面をかすめるように動かした。
するりと、わたしの頬に陛下の柔らかさが触れた。
びくりと、わたしの身体は震えた。驚きから目をギュッと一度つぶったけれど、直後に思わずわたしは目を開いて陛下の顔を窺っていた。陛下は真面目なような、けれどどこか懇願するような、そんな表情をしていた。
わたしはその顔から今度は視線を外せなかった。
「無理難題を吹っ掛けられても、君はそれに応えなくていい。交渉ができそうならして、無理なら持ち帰ってきて。……こちらに攻め入る計画があるという言質が取れたら、後で犯罪者として捕らえることもできなくはない。……だから、無理はしないでほしい」
国内での謀反は重犯罪だ。実行されれば間違いなく犯罪者として捕らえることができる。けれど、その計画段階でその計画を立証して身柄を捕らえることは普通は難しい。
だからこそこうして煙が立っているにも関わらず、国としては何重にも計画を重ねて動いているのだ。計画が明るみになったとしても、すぐにべリス家当主をとらえることはできない。
べリス家当主を捕らえた場合のタタレドやトラッドソン領への影響の大きさを考えれば、実際にはそれ自体、できる限りはとりたくない方法ではある。そのために積極的にそれを行っていないという側面もある。
にも関わらず、わたしがその計画についての言質をとって報告すれば、陛下はそれを証拠として国を動かす用意があるのだということだ。
それは陛下には似つかわしくないような、強引にも思える発言だった。けれど、わたしを軽んじている言葉には聞こえなかった。信用はされているのだ。心許ないと思われての心配ではないのかもしれないと思った。
「……承知しました」
わたしは少し間をおいてから、陛下にそう返答した。陛下はわたしのことを信頼してくださっているのだと、その言葉から強く感じた。そうでなければ、陛下はこんなことは言わないだろう。胸が熱くなるような感覚があった。
ふう、と陛下はわたしから視線を一度逸らして、ため息をついた。
その様子に、わたしの態度にどこか問題があっただろうかと不安が過りそうになって、けれど考える間もなくすぐに陛下はまたわたしの視線をとらえた。先ほどよりも、強い視線だった。
そして、一度外されていた手がまたわたしの頬に触れる。先ほどはそう感じなかったのに、陛下のその手は熱かった。
ああ、わたしはたぶん、陛下には一生かなわないのだろうなと、陛下を見つめながら当たり前で途方もないことを思った。
「シエナ」
名前を呼ばれて、わたしの上にかかる陛下の影が濃くなった。ある距離でぴたりと止まった陛下の顔は、とても綺麗だった。
「目を閉じてくれるかい」
柔らかなその声に、わたしのまぶたは何の躊躇もなく従った。緊張して動きの鈍い身体とは真逆に、わたしの目は抵抗なく閉じられる。
両頬に陛下の熱い手が添えられたのを感じてすぐに、唇にも熱いものが柔らかく触れた。
すぐに一度離れたのを感じて目を薄く開けると、目が合って陛下が片頬で笑うのが見えた。また近づいてきたのが分かって、わたしはのまぶたは無意識にゆっくりと再び閉じられる。
そうすれば、今度は先ほどよりも強く甘い、けれど触れるだけのそれが降ってきた。
その熱さを感じながら、この人のためにわたしは生きたいという想いが強く胸を占めた。
それから、その想いはその熱さとともに、じわりとわたしに焼き付いてしまったことに気づいた。
それが、一生消えない跡になれば良いのに。
そう思った。




