37 保証と肩代わり
「そりゃ大丈夫とは言い切れんが、だからと言って行かないわけにもいないんだろう」
翌朝早く。
陛下の執務室に再度来訪したわたしは、陛下の主治医であるドクタードゥノワの診察を終えてから一言、そう言われていた。
ドクタードゥノワは40代後半くらいのあまり医者らしく見えない医者だった。羽織っただけで気崩された白衣に、あまり整えられていない無精ひげが目立つ。けれど清潔感がないわけではない、不思議な出で立ちをしていた。
格式や体裁を重んじる貴族からは嫌われそうだなという感想を抱いたけれど、トラッドソン家で育ったわたしは振る舞いや見た目に価値の比重を置いていないため、それほど気にはならなかった。
「わたくしはそう思っているのですが、陛下が反対されていて……」
ドクタードゥノワはわたしのその発言に、「陛下からも聞いた」と面白そうに笑っていた。
聞いたところ、ドクタードゥノワは勤務中、この王族の居住区画からは全く出ずに陛下専属の医者として控えている立場であるとのことだった。そして王城の敷地の片隅にドクター自身の部屋も与えられているという。24時間、陛下に何かが起きたときにはこの人が呼ばれるという立ち場らしかった。
見た目もだけれど、この振る舞いでは周りからはとやかく言われるだろうなとわたしは勝手に再度余計な心配をした。けれどどうやら陛下からの信頼は厚いようだ。ドクタードゥノワ本人は、全く気にしていないのだろう。
そして、その反対している陛下とはややぎこちない状態のままで昨夜は一度別れていた。
陛下には頷いて見せたけれど、あの場にそのままいたら更に自分が混乱しそうに思えて、「あまり遅くならないうちに……」とわたしから切り出して、執務室を出たのだった。
けれど別れ際、「朝にまた来てくれるかい、医者を呼んでおくから」と陛下に言われ、その通りに出勤前に執務室に来てみれば陛下とドクタードゥノワがいたという次第だった。
簡単な挨拶が済んだ直後、ドクタードゥノワはすぐに診察を始めようとした。そして陛下からそれなりに事情を聞いていたらしいドクタードゥノワはすぐに、「患者以外は出て行ってくださいねえ」と陛下を外へと追い出したため、部屋には今、ドクターとわたししかいなかった。
「君の体調を最優先にと陛下からは強く言われているが、まあ実質、今から行きませんなんて君の立場じゃ言えないわな。とりあえず陛下には、私がついていくことで手を打ってもらうことにするのはどうだ。まあ、そこまで役に立つわけじゃないだろうが。陛下が欲しいのは安心だろう」
明け透けな物言いだけれど、唐突なわたしの妊娠に対しても動揺は全く見せず、わたし自身に対する悪意も全く感じられなかった。なんとなく、陛下が好みそうな人だなと思った。
けれど今回に関しては、ドクタードゥノワはわたしに加勢してくれそうだ。
「お願いできれば有難いのですが、……ドクタードゥノワが不在にしても問題はないのでしょうか」
わたしは単純に、陛下のそばに医者がいなくなるのではないかとまず心配した。そしてドクタードゥノワはそれに「問題ない、専属ではないが他にも信頼できる医者はいる」と即答した。
そしてわたしの顔を窺ってから、それ以外にも何か言うことがあるというような顔をして、ドクタードゥノワは独り言のように言った。
「それと、私の顔を知っている者は王城内にもほとんどいないから、『陛下の医者がなぜトラッドソン家の令嬢と?』とも思われないはずだ。……君の侍従みたいな振る舞いをすれば一番良いか?」
言葉にはしなかったのに、わたしがドクタードゥノワといることで陛下とのつながりを疑われないかと心配していることが伝わっていて、やや驚いた。
頓着がなさそうに見えたけれど敏い人なのだなと思ってから、少しウームウェル補佐官に似ていることに気づいた。振る舞いは全く違うけれど、陛下にとって信頼を置けるのはそういう人達なのかもしれない。
とてもありがたい味方が増えたように感じて、わたしはどこかまた安心していた。
「ドクターの調整がつくのであれば……、大変ご迷惑おかけしますがお願いしたいと思います」
わたしがそう言うと、ドクターは人の悪そうな笑顔になる。何か楽しまれているような気もしたけれど、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
「わかった。陛下には私から話しておく。……陛下は曲がらないからなあ、君も大したもんだな」
何に対しての言葉なのか、それが誉め言葉なのかどうかさえも分からなかった。けれどそれを尋ねる前に「さ、陛下につかまるとやっかいだぞ、早めに仕事に行った方が身のためだ」とのドクタードゥノワからの忠告を受けて、わたしはすぐに陛下の執務室を後にした。
陛下と少し話したいような気持ちはあったけれど、反対をまた一身に受け止めるのはきつい。これはドクタードゥノワにお任せしようと思っての撤退だった。
出立はもう明日だ。今日はウームウェル補佐官と詳細を詰めることになっていた。それから部屋に戻って明日の準備もしなくてはならない。
そう思って、わたしは頭を明日以降のことへと切り替えた。
一日を忙しく過ごしても、妊娠のことを陛下にどう思われるかという緊張から解放されたためなのか大きく体調が崩れることはなく、ここ数日の中では一番調子が良かった。
時々身構えない状態で何かの匂いを嗅いでしまって気持ち悪さが湧き出したことはあったけれど、自分の食事に気を付ければほとんどは普通に過ごせた。
そして元より、わたしが王城内できちんとコミュニケーションをとれる人はウームウェル補佐官とマーガー副室長くらいしかいない。そのこともあって、わたしの変化に気づくような人はいなかった。
案外体調は気持ちにも大きく左右されるのかもしれないと思いながら、出立前に陛下に妊娠の事実を伝えられて良かったのだという気持ちでわたしは一日を過ごした。
陛下とは少し気まずいままの状態だったためやはり話したいとも思ったけれど、そもそもそんな願いを叶えてもらえる立場でもない。必要なら陛下からの呼び出しがあるだろうと思って、それも割り切ろうとしていた。
結局その日陛下からの呼び出しはなく、バタバタとしていて気づけば夜で、わたしのかすかに割り切れていなかった気持ちは後ろ髪を引かれていたけれど、この件は自分ではどうしようもなかった。仕方ないと言い聞かせて、わたしはニカの待つ部屋へと仕事を終わらせて帰った。
わたしの身の回りの準備については、ニカがほとんどのことをしてくれていた。ここ最近わたしの都合で色々な迷惑をかけているという気持ちがあったこともあり、ニカには今回は留守を守ってもらうつもりでいた。しかし、その話をすればニカからわりと盛大に叱られて、昨日の段階ですでに今回の移動にもついてきてくれることになっていた。
「当たり前ですよ、しばらくご懐妊のことを他の誰にも明かせないなら尚更です」
ニカはやや憤りながらわたしにそう言っていた。ニカには当たり障りのない範囲で事情を伝えてあった。そして当初は今回の作戦を決行するための拠点を実家に据えるつもりだったため、ニカのその心配も当然のことだった。
けれど今日ウームウェル補佐官と検討し、実家であるトラッドソン家とは言ってもやはり今の段階で妊娠の事実が伝わってはまずいという結論に至った。
そのため、わたしはしばらくの間、領内にあるトラッドソン家の別邸を使うことにした。そちらの方がべリス家に近くて動きやすいからと適当な理由をつければ、特に不自然ではないはずだった。
帰宅後にニカにそのことを伝えても、「シエナ様ひとりで別邸の管理はできませんでしょう」とニカは付いてくる意思は崩さなかった。ただ全くもってその通りだし、有難い申し出であることは間違いなかったのでわたしはそれを受け入れた。
そして、ウームウェル補佐官は今日の朝に陛下からわたしの妊娠の件を聞いたらしかった。
顔を合わせるのが少し恥ずかしいと内心思っていたわたしに反して、打合せのためにと貸し切りにした会議室でウームウェル補佐官は全く動揺を見せずに「おめでとうございます」と祝いの言葉をくれたのだった。いつもの淡々とした様子だったけれど、ウームウェル補佐官もどこか緩んだ空気をまとっていた。
知っている人に祝ってもらえるのは気恥ずかしかったけれど、なんだかそれには嬉しさも伴った。
ニカの準備してくれた荷物を確認して、わたしはいつもよりも少し早めに寝台へともぐりこんだ。トラッドソン領までは馬車で一日弱かかる距離だ。明日のために備えておきたかった。
自分の身体だけれど、もう自分だけが良いように扱えるものではないのだという自覚は出てきていた。
何があっても、このお腹に宿るものは何よりも大切にしなければならない。べリス家へ行くことは仕方ないとして、それ以外のことならば可能な限り体調には気を付けようと強く思っていた。
外から見てもなんの変化もないわたしのお腹だったけれど、手を当てると不思議と落ち着くような気持ちになった。そしてそうすると自動的に、陛下の顔が思い浮かべられる。
背中をさする暖かさや、抱きしめられる腕の熱さ、穏やかにわたしの名を呼ぶ声が思い出されて、最後に今日はきちんと話せなかったなと外には漏らせない気持ちが浮かんだのを感じた。
けれどわたしはそれを深く考える前に、眠りの世界へと落ちていったのだった。