36 意地と大切なもの
「陛下、それは先程会議で決まって、」
「そうだけど、もう事情が違う。君の体調のことだってあるし、……万一のことだって考えられる」
「ですが……」
あの会議で決まったことは覆らない前提であるはずだった。陛下はバランスを重視する方だ。それぞれの部署との事前の打ち合わせは入念にするのに会議の場でほとんど発言しないのは、陛下自身の独断になることが嫌だからだろうと理解していた。そしておそらく、それは間違っていないはずだ。
「妊娠に関してはまだ公にはできないけれど、適当な理由をつければ君が辞退することはできる」
陛下のその言葉を、何故かわたしは聞き流せなかった。それはつまり、わたしから辞退しろということなのだろうかと気持ちがささくれ立つ。この任務を積極的にやりたいわけでもなければ自信があるわけでも全くなかったけれど、わたしの中の何かにひっかかった。
いや、けれどお腹に宿ったものに何かがあっては困るのは言うまでもないことだ。だから陛下はきっとそう言っているのだと、冷静に話し合うように自分に言い聞かせる。
「……ですが、辞退したらその後わたしは会議にも出られなくなるのではないですか。辞退するとして受け入れられる理由と言えば……体調不良や家の事情などになるでしょう。そうすればもう、わたしは――トラッドソン家は中枢に関われなくなります」
わたしが戦略会議から外れたとして、今すぐにトラッドソン領を指揮している父上を呼び寄せるのは不可能だろう。そうすれば、わたしが抜けた穴を埋められる人はトラッドソン家にはもう誰もいないのだ。
そして、今回のタタレドとの件にトラッドソン家が関わらないなど有り得ないことだった。
「……それも私の方でフォローする」
少し間をとってからそう言った陛下は、わたしから少し目を逸らした。
その態度に、わたしの中の感情は大きく揺さぶられた。話したいと思っているのは、まるでわたしだけのように感じてしまう。
「……まるで、荷物のようですね、わたしは」
わたしが静かにそう言うと、陛下は真顔の中に少し憤りのようなものを浮かべた。けれど、わたしは陛下の反論を聞かないうちにまた口火を切った。
「陛下のフォローが入れば、陛下とわたしとの間に何かがあると疑われます。妊娠を公にできない今、それは現実的ではないのではありませんか」
淡々とそう言えば、陛下の周りに浮かぶものはさらに感情的になったように感じた。けれど、陛下はぐっと何かを堪えるように押し黙った。
おそらく、わたしが言っていることは正しかった。あの重鎮たちが参加する会議で決まったことを、撤回することなどできない。陛下の子が宿っていることが公にできるならば別だっただろうけれど、今はその時期ではないのは明らかだった。
ただ、陛下の言うようにわたしがべリス家へ向かうことに懸念事項があるのも事実だった。そこまでの長旅ではないけれど一日がかりの移動をすることになるし、大切な唯一の世継ぎとなり得る、このお腹に宿ったものを抱えて敵陣に乗り込もうとしているのだ。
ようやく授かった世継ぎを危険にさらすわけにはいかないと、陛下が考えるのは当然だろうと思えた。
わたしももう少し冷静になろうと、一度深呼吸をした。
少し時間をかけて自分の気持ちをなぞってみれば、陛下のお荷物だと思われたくないという感情や、君には出来ないだろうと決めつけられたように感じたことから不快感が浮かびがったようだった。
けれど、陛下が本当にそう思っていて言ったことなのかはわたしには分からない。わたしのその捉え方が全てではないはずだ、決めつけてはいけないと思い直す。
わたしはもう一度、息をゆっくり吸って吐いた。
「……陛下のお気持ちも分かります。万一わたしに何かあれば、お腹の子が危ないのは事実です。……なので、そちらの対策に万全を期すのはいかがでしょうか」
陛下は変わらず押し黙っていた。知らない人が傍から見れば何かを考えているように見える姿だろう。けれど、この能面のような表情が陛下の内側で渦巻く感情を見せないためのものだと知っているわたしからすれば、陛下は今、自分の中の何かしらの強い感情をどうにか外に出さないようにしているのだということが分かる。
わたしは陛下の返答を、身動きひとつしないようにと思いながら視線を落としてしばらくじっと待った。
「……主治医の判断を仰ぎたい。私には、行かせて大丈夫だと思える知識がないんだ」
少ししてから呟くようにそう言われて、わたしが顔を上げると陛下はやや悔しそうな、怒っているような顔でわたしを見た。
激しい感情の制御にはどうやら成功したらしい。けれどその薄まったものが、陛下の表情に浮かんでいた。
おそらくこれが陛下の妥協点なのだろうと理解して、わたしは頷いた。
「わかりました、主治医の方の判断に従います」
意地の張り合いをしても仕方がないというのは、たぶんお互いに分かっている。お腹に宿ったものが何より大切なのも同じ気持ちだろうと思った。けれど体面上、唯一それを守ることだけを選べないこともある。それは国王陛下と言えども同じだ。
陛下が独裁政権を敷いていたら話は早かっただろうけれど、この人はそんなことをするような人ではなかったのだから。だからこそ、わたしは今こうしているのだろう。
おそらくこのもどかしさも、お互いに同じだろうと思った。
お荷物と言われたように感じたことも、陛下はそういう意図で言ったわけではないだろうということは少し距離が開いて冷静になればすぐに分かることだった。
それがわたしのコンプレックスだから、勝手にわたしがそう思っただけだ。
そう思うと陛下に申し訳ない気持ちが出てきて、急に心拍数が上がった。
わたしと同じような気持ちを持っていてほしいなどと大それたことはもちろん思わないけれど、せめて、陛下に嫌われたくはなかった。
うんざりされてはいないだろうかと、陛下を窺い見る。
陛下はまだ弱い憤りのような感情を浮かべながらそこにいた。どうしたら良いのだろうかと考えたけれど、わたしには分からなくて、つい陛下を呼んでしまう。
「あの、陛下」
陛下はこちらに視線を向けて、何も言わずにじっとわたしを見ていた。
「その、……申し訳ございません」
わたしがそういうと、陛下は一瞬何かに怯んだような顔になって、――それから、ため息をついた。
「いや、……私の方こそすまない。……私情に、とらわれた」
バツの悪そうなその表情がわたしにとっては不思議だったけれど、陛下も歩み寄ってくれそうなその雰囲気に、そこは追及しないでおこうと流すことにした。
何か言うべきかと迷っているような陛下を待つと、少ししてから陛下は渋々といったように口を開いた。
「……グランデ将軍に内々で提案された時から、嫌だったんだ。……君を、べリス家に行かせたくなかった」
急に子どもっぽくなったように感じられたその言い方に、内容をきちんと把握するのがやや遅れた。けれどその言葉を理解してから、それは陛下がわたしの妊娠を知る前のタイミングの話なのではないだろうかと混乱した。
わたしが目を瞬いている間に、陛下はわたしから視線をそらして訥々と言った。
「元旦那様に会わせることなんて、したくない」
どういうことだろうかと、わたしにはやはり分からなかった。
陛下とわたしの間には沈黙が落ちる。
けれどこれ以上陛下に聞ける雰囲気でもなくて、わたしは必死に陛下の言ったことを噛み砕こうとしていた。
そして、思い当たった。
そうだ、わたしは陛下の前で何度か元旦那様に手酷いことをされていたと言ったはずだ。きっと、陛下はそれを心配してくださっていたのだろう。
いや、……正直に言えば、それが答えだとしっくりきたわけではなかった。けれどすぐにはそれ以外の答えが導き出せず、何でも良いから答えを出してわたしは自分を安心させたかった。
「だ、大丈夫です。問題ありません」
気持ちが落ち着かないままのわたしがそう返答すると、陛下は視線をこちらに向けたけれど、その様子からはわたしの言葉は全く響いていないことは伝わった。
ただいつまでもそうしていられないと思ったのか、陛下はまた溜息をついてから観念したように口を開いた。
「私は大丈夫じゃない。……けれど、私個人の我儘を通せる状況ではないことも分かっている。……すまなかった」
わたしに対して謝罪など不要だし、何に対しての謝罪なのか、もうわたしには全然分からなかった。
けれど、とりあえずそれを受け止めない限りはこの流れを治められないような気がして、わたしは陛下のその言葉に頷いて見せたのだった。




