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34 想いと葛藤

「陛下、」


 わたしがソファから降りようとすると、陛下の腕と身体が下から伸びてきて肩をぐっとソファへ押し付けられる。痛くはないけれど有無を言わせないような力に、わたしはそこに留まることしかできなかった。

 それから陛下の手はわたしの腕を撫でるようにするりとくだってきて、最後はわたしの両手を捕まえた。


 陛下の目がわたしの視線をとらえる。視線を外すことができないような、そんな目だった。

 そして、続けて聞こえてきた声は懇願するような響きを伴った。



「……私は、君が私の子を宿したことを、嬉しいと思っている。……君が嫌でなければ、産んで欲しいとも」



 その言葉に、わたしは目を見開いた。それはにわかには信じられなかった。そんな言葉が陛下の口から出てくるなんて、想像すらしていないことだった。


「……嬉しい……?」


 何も考えられずに聞こえた言葉をただ繰り返すと、陛下は「ああ」と頷いた。

 けれど、やはりわたしはそれを信じられない。


「でも、……だって、……子どもが出来るなんて、思っていなかったはずで」


 ぐちゃぐちゃになっていくわたしには、もう余裕がなかった。陛下に対して、丁寧な言葉を使えないほどに。


 そうすれば、「それは」と陛下はすぐに反論しようとした。

 けれどその焦ったような声が、わたしには取り繕うための反応のように思えてしまった。わたしは陛下の視線を断ち切ろうと目を閉じる。それからその勢いのまま激しく首を横に振った。続きは、言わせなかった。


 けれど、わたしの両手をつかんだままの陛下の両手に抗議するかのように強く力がこもる。


「できないはずだからと、陛下はわたしを選んで、」


 気づくとわたしは泣いていた。

 責任感のようなもので、わたしに優しくしてほしくなかった。そんな同情のような気持ちなら、ないほうが良い。

 やめてほしい、ほださないでほしい。


 陛下の重荷には、なりたくない。


 欲しいものが手に入れられずに駄々をこねる子どものような気持ちと、陛下に迷惑をかけたくないという気持ちが、わたしの中で強く葛藤していた。



「シエナ」



 唐突に聞こえたそれは、怒気を孕んだような重たい声だった。名前を呼ばれただけなのにわたしの身体はびくりと震えて、ひゅっと喉が鳴った。

 まぶたの裏に影が落ちたのを感じて恐る恐る目を開けると、陛下の顔が間近にあった。



「本気で言ってるの?」



 間違いなく、陛下はわたしに怒っていた。

 それはあの時の、あの夜の陛下に似ていた。あの時以来、陛下の強い感情にこうしてさらされるのは初めてで、身構えていなかったわたしは今、あの時には感じなかった怖さを感じていた。

 その怖さは正確に言えば陛下に対してではなかったのかもしれない。その感情のあまりの強さに、圧倒されるような感覚だった。


「……あの時、無理やり君に触れたのは謝る。手酷いことをしたことも。……けれどね」


 陛下はゆらりと立ち上がって、わたしの両手から手を離した。影がわたしを覆う。



「僕は君をそんな理由で選んだわけではない」



 その強い感情が、直接わたしの中に注ぎ込まれたような気がして心臓が痛かった。どうしたら良いのか全く分からない。

 ただ、泣いてどうにかしようとしているとは思われたくなくて、涙を止めたかった。止まれと心で繰り返しながら、わたしは必死に唇を噛む。

 陛下を怒らせたいわけではなかった。こんな風に取り乱すつもりも、なかった。


 迷惑を、かけたくないのに。


 一方でわたしの中には、()()()理由で――子を宿さない身体だからと言う理由で選んだわけではないというのなら、それではなぜ、なぜわたしを?と、納得ができない気持ちも強くあった。

 けれどやっかいなことに、陛下からそう言われて嬉しいと思ってしまうわたしもいるのを自覚していた。陛下はわたしを選んでくれたのだと、そう受け取ってしまいそうになる。


 けれどそんなはずがあるわけがないだろうにと、浮かんだそばから即座に頭の中でそれを打ち消していく。


 陛下は腰をかがめてソファの背もたれに両手をついた。わたしの顔にぐっと陛下の顔が近づく。わたしの顔の両脇には陛下の腕が伸びていて、わたしは身動きが取れなかった。

 至近距離で目が合う。


 すると、陛下はそこでぴたりと動きを止めた。



「…………」



 しばしすぐそこにお互いの顔がある状態で、わたしたちは浅く呼吸をしていた。目は合わせられなかった。陛下はわたしを見ていた気がするけれど、はっきりとは分からない。



 どれくらいの時間が経っただろうか、おそらく五分程はそうしていて、ある瞬間、陛下の視線がそれたように感じたと同時に陛下の周りを漂っていた怒気が薄まったような気がした。

 そして直後、陛下は唐突にわたしの足元に座り込んだ。額に手をあてて、またしばらく黙り込む。


 その間もわたしは泣かないようにとこらえ続け、そこから全く動けなかった。


 そしてまたちょっとしてから、陛下は窺うような視線をわたしに向けた。わたしもそろりと陛下を窺うと、もう強い感情がそのまま漏れ出ている雰囲気ではなかった。ただ、どこか憤っているような顔には見えた。


「……ごめん、怖がらせたかったわけじゃない」


 そう言いながら、陛下はまたわたしの前で両膝をつく。そしてなんと言うべきかと言葉を選ぶような口調で、わたしに尋ねた。


「……君は、どうするつもりだったの。……私にどうするか聞いてくれたってことは、……産んでも良いと、多少は思ってくれていたの」


 陛下の声は平坦でかたくて、けれどどこかわたしのことを心配しているようにも感じられるものだった。


「……陛下の奥方も、お世継ぎもいらっしゃらない現状で……、どうするのが最善なのか、……わたしには分かりません」


 泣かないようにとしばらく堪えていたおかげか、口を開いても涙は流れてこなかった。一応はまともに話すことができる状態になっていたことに自分で安堵する。


「……なので、もし必要であれば、と」


 これは詭弁だった。本当は嬉しく思っていた。陛下の子が自分の中に宿ったこと、その子をこの手に抱けるかもしれないこと。

 けれど、そんなわたしの気持ちは言ったらいけないように思った。


「……命令ならってことかい」


 陛下のその呟きが小さく落ちる。その声が弱々しいように感じられて、ぎゅっと胸のあたりが痛くなった。

 これにはどこか既視感があって、切ないような感覚が(よぎ)る。


 そして、ああ、これは「来るな」とわたしを拒否した時の、孤独な陛下ではないかと思い当たった。それを実感すると同時に、わたしはとても焦った。



「そうではなくて……!」



 否定しなければと思うとつい、声が大きくなった。それに気づいて、同時にそのまま自分が陛下への気持ちを口走ろうとしていたことにも気づいて、冷や汗をかいた。セーブしなければならないと、自分に強く言い聞かせる。


「……そうではなくて、わたしは、……わたしは、産みたいです。けれど、わたしは陛下の一臣下ですので、……それが良いのかどうか」


 すると陛下はわたしを見上げた。やや驚いているような顔だった。やっと、陛下の表情が見えた。

 それからまた少しの沈黙が訪れて、わたしはもう何も言えることがなくて、ただただその時間をやり過ごした。


「……私には、君を困らせるしか能がないような気がしてきたよ」


 ちょっとしてから、陛下は前触れなくそう自嘲した。言葉と齟齬のないその表情に、もう制御する必要のある()()は陛下の中にはないように思えた。

 わたしが陛下を困らせているのにどうしてそういう風に言うのかと、少し憤るような気持ちを抱いた。わたしはぐっと、奥歯を噛む。すると。



「…シエナ、なんて顔してるの」



 この台詞は前にも言われたことがあるなと思い出しながら、その時と同じく今もわたしは自分がどんな顔をしているのか分からなかった。そしてあの時と同じように、陛下はわたしの目元をぬぐった。



「産んで欲しい。……大切にする。君も、子も」



 プロポーズのようなその言葉に、ぎゅっと音を立てたのではないかと思うくらいわたしの心はすくんだ。

 同時に、わたしの涙はさらに溢れてきてしまった。緊張が、どこかで知らず知らずのうちに固くなり続けていた身体が、少しだけやわらいだのを感じた。

 ひとりで背負わなければと気負っていたものを、陛下は一緒に持ってくれようとしているのだと思えた。


 良いのだろうかと躊躇するわたしもいたけれど、良かったと安堵しているわたしもいた。

 失望はされなかったのかもしれない。そう思った。


 泣きながら速くなっている心臓に、けれど勘違いしてはいけないと言い聞かせた。プロポーズのような言葉はプロポーズなどではない。世継ぎを生むという立場への言葉であるだけだ。


 そう言い聞かせるのに、陛下はその必死の牽制をいとも簡単に打ち砕くのだ。



「抱きしめさせて、シエナ」



 泣きやむことができないわたしに、陛下はそう言ってわたしをゆるやかに、けれど力強く抱き寄せた。


 これは早く泣き止ませたいからだ、陛下がわたしと同じ気持ちでいると勘違いしてはいけないと何度も何度も言い聞かせながら、わたしはその陛下の体温に、心地よさを感じてしまった。

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