33 情動と制御
扉の閉まる音がしてすぐに、陛下がふう、と息を吐いたことが伝わってきた。
陛下がまとっていたやや整然とした、公の場であるという雰囲気はどこかへすっと消えたように思った。けれど、わたしの身体の緊張は抜けるはずがなかった。
これから、陛下に伝えなければならないのだから。
「シエナ、崩して良いよ」
陛下からそう声をかけられて、わたしは顔だけを陛下へ向けた。見れば陛下は数歩歩いて、既にわたしの目の前まで来る寸前だった。
こんなに近くにいるのは、やはりおかしいことなのだ。
けれど、そうしていられることを嬉しいと思ってしまうわたしも、誤魔化しようがなくここにいるのだ。
近くに来た陛下はわたしに手を差し出した。動かないわたしを見て立つことすら手助けしてくれようとしているようだった。わたしは自分に、それを掴んではいけないと言い聞かせる。けれど、おそらく陛下にはわたしが固まっているように見えたのだろう。
陛下は少し笑いながら「立てないなら私がシエナの前にしゃがむけど」と言った。
陛下を同じ目線に来させるなんてまずい、と自動的に回路がつながって、わたしは慌てて立たなければと思った。そして一人で立てば良いのに、焦ったわたしは思わず陛下の手に触れていた。触れてからそのことに気づいて、心の中で自分を叱る。
繋がれた手を陛下がぐっと引っ張って、けれどそれは加減のされた力だった。わたしは陛下の胸に収まることもなく、その場で立ち上がる。
「珍しいね、君からの申し出なんて」
陛下はわたしの目の前に立っていて、先ほどまでの硬さはどこへ行ったのかと思うほど自然にわたしに話しかけた。その言葉は別にわたしが人払いを頼んだことに何かを言いたいというようなものではなかった。むしろどこか、嬉しそうにも見えた。
反対に、わたしはこれから陛下に伝えなければいけないという気持ちで落ち着かなかった。陛下が本当にすぐそばにいることも、それを助長していたように思う。
「……少しお話したいことがございまして」
陛下に伝えなければならない、という気持ちだけではなかった。
伝えたくない、という気持ちがわたしの中にはこの期に及んでもあった。そして、伝える際のシミュレーションは昨日から何度か頭でしていたけれど、いざその人を目の前にするとどう切り出せば良いのか全く分からなくなっていた。
人払いをしてまでする話があるにも関わらず言い出せないわたしの姿を見て、陛下は違和感を持ったようだった。
「とりあえず座ろうか」とわたしの腰に手を添えて、わたしを二人掛けのソファへと誘導する。触れられた腰からじわりと陛下の体温が広がるような錯覚に、わたしはそんなことは考えるなと自分に言い聞かせた。そんなわたしの気持ちも知らず、陛下は当然のようにその隣に座った。
わたしの、すぐ隣に。
そして考えるなと言い聞かせる程、どうしてか自分の気持ちに焦点が当てられてしまった。
わたしはやはり陛下のことが好きなのだ、なんて、今思うべきことではないはずだった。
けれど。だから。怖かった。
陛下に失望されることが。陛下の期待外れになることが。だから、伝えたくない。
けれど、言わないわけにはいかない。
気持ちが永遠に葛藤し続けるような、気の遠さすら感じた。
陛下の顔をちらりと窺うと、陛下は特にわたしを急かす気もないようだった。こちらを見ていた陛下と視線が合って、陛下はやや気遣うような声で「話しにくいことかい」と言う。わたしは視線を合わせ続けることができずに、陛下の膝元に視線を落とした。
息を吸って、ゆっくり吐いた。
それから、わたしは覚悟を決めた。
「……今から言うことは、お気に召さなければ、なかったことにしていただいても構いませんので」
わたしは、強力に予防線を張った。
そうでもしないと、勢いをつけても怖くて陛下には伝えられないと思った。
「……陛下には、」
近くご結婚する予定の方はいらっしゃいますかと、最初にそれを確認しようと思った。それ次第で今後の陛下の都合もあるだろうし、どう話すかが変わるかもしれないと思ったからだった。
けれど口にしてから、それを聞いたところでわたしには何も変えられないのだということにも気づいた。いたとして、いなかったとして。
どっちにしろ今わたしが宿しているものが、どうなるかは陛下次第であるのだ。
勘違いしてはいけない、わたしが関与できることではないのだ。
だから、途中で「いえ」と仕切り直した。そして、もういっそ結論を言ってしまおうという気持ちになった。だからクッションも何もなく、わたしは伝えた。
「……子を、宿したようです」
わたしの声は、震えていたかもしれない。けれど既に自分では冷静になり切れずに、自分のことすら把握できていなかった。
言ってしまった。
後悔のような怖さがわたしを取り巻いた。どんな反応を返されるのだろうかと身体はガチガチに緊張していた。
けれど、待っても陛下からは言葉が返ってこなかった。
数秒しても動く気配すらない陛下に、不安になってちらりとそちらを見る。すると、陛下は驚いたような、やや険しいような、そんな顔をしてわたしを見ていた。けれど、目は合わなかった。
その視線は鋭いような気がして、ふと発作が起きているときの陛下を思い出した。そうだ、これは強い感情を抑えようとしている時の顔ではないか。
ああ。それならばこれは。
当然だったけれど、陛下にとっては想定外で、こんなことになるとは思っていなかったということだろう。
ぐっと、胸の奥が痛いような気がした。鼻の奥がつんとしてきて、泣きだしそうなことを感じた。けれど、泣いてはいけない。
泣かないようにしようという意図も、何も言わない陛下を前にこのままではわたしが耐えられないという気持ちもあって、わたしは口を開いた。思わず、笑顔を貼り付けたまままくし立てるような口調になった。
「……と、突然、申し訳ありません。ただ、わたし一人でどうするかを決めてはいけないと思っただけですので、陛下がそうしろとおっしゃるなら、なかったことにも、」
そう言いかけると唐突に目の前が真っ暗になって、息が苦しくなった。
ぎゅっとわたしの頭が締め付けられる。
目の前は暗いのに、ドクドクという音が聞こえた。わたしのものではない。それはおそらく、陛下の鼓動だった。
「なかったことに……、」
頭の上から、陛下の無機質な声が聞こえた。その声と、その言葉に、わたしの身体は硬直する。
なかったことにと、そう言われる可能性だって、あると思っていたではないか。それが陛下の結論ということだ。そう頭の中で言い聞かせようとした。わたしの心臓は痛いくらいに強く早く鼓動を打っていた。自分の鼓動がうるさすぎて、陛下のそれを感じている余裕はなかった。
陛下は少ししてから、また口を開いた。
「……なかったことに、君は、……できるのかい」
それはおそらく、なかったことにしろというニュアンスではなかった。ただただ、陛下はわたしに問いかけているという雰囲気だった。けれどその声にはやはり感情が浮かんでいなくて、陛下が強く自分を制しているのだということは伝わった。
泣きそうになりながら、わたしは陛下を見上げようと首を上へと向ける。陛下はそれに応じて腕の力を緩めた。
見れば、陛下の顔は先ほどよりも険しくて鋭い顔になっていた。もう驚きの色は見えない。
どう答えたら良いのか分からずに、わたしはしばらくの間ただただ陛下を見上げていた。
しばらくすると、陛下はゆっくりと天井を仰いでから大きく息を吐いた。そして、またわたしの方へ顔の向きを変えてわたしの視線をとらえる。
目が合って、わたしの心拍数はもっと上がってしまった。
「……なかったことにしたい?」
陛下はそう言って、顔を少し崩した。眉が下がって、どこか泣きそうな表情に見えた。隠そうと制御されていた先ほどまでとは違うその顔に、わたしはまた胸が痛くなる。どうしてかは、わからなかった。
陛下はわたしに「なかったことにしたい」と言わせようとしているわけではなさそうだった。先程と同じように、わたしがどう思っているか、それを尋ねているのだと分かる。
けれど、わたしの気持ちを聞いてどうするというのだろうと、どこか途方に暮れたような気持ちでわたしは返事をできずにいた。
「シエナ」
名前を呼ばれて、わたしは顔を逸らした。そのまま目を合わせていることに耐えられなかった。どうしたら良いのか、陛下はどうしたいのか、もうすべて決めて欲しかった。
わたしの中で、苦しさがどんどん積みあがっていく。
「陛下は……」
うつむいたまま、小さな声でしか言えなかった。本当は聞くのが怖いから。けれど、聞かないでいるのももう怖いのだ。
わたしのその短い言葉にも、陛下は真摯に向き合おうとしていた。それがまたどうしてか、わたしに痛みを与えた。
「……また君に負担をかけてしまった。その申し訳なさと、」
どこか弱弱しい声で陛下がそう言った直後、陛下がふと動いた気配がした。それを確認しようと頭で思った時にはもう既に、わたしの視線の先では陛下がわたしの足元で両膝をついているのが見えた。
陛下を自分と同じ目線に下ろすわけにはいかないと、先ほどはわたしが立ち上がったのに。
あろうことか、陛下は自ら床に膝をついてわたしを見上げたのだ。




