29 価値とわたしの奥底
なんと言ったら良いのかわからない気持ちのわたしを置いて、ドクターミュゼットは説明をはじめていた。
定期的に医者にかかる必要があることや、あまり激しい動きをせず体調第一で過ごすことなどを言われたけれど、その言葉はわたしの頭にはほとんど入ってこなかった。わたしへの説明が終わると、ドクターミュゼットは今度はニカの方を向いて必要なサポートや禁忌の食べ物などについての指導をはじめた。
おそらく、わたしは傍から見たらそこまで酷い顔をしているわけではないのだろうと思った。気持ちに疎そうには見えないドクターミュゼットが、全くわたしの態度に違和感を抱いていないように見えたから。わたしの事をよく分かっているはずのニカですら、少しわたしを心配しているように見えるくらいだ。
わたし自身はこの感情を外に出すまいとしている訳ではないのに、こんなところでどうしてこんな風になっているのだろうという思いが過ぎる。
今のわたしはそんなに冷静ではないはずなのに。
いや、この気持ちがわたしにとってもなんなのか、分かっていないからなのかもしれない。
どこか冷静なわたしがそう気づいて、今の自分はどういう状態なのだろうかと意識が向いた。
身体は固まって、力が入っていた。鼓動も早い。呼吸は浅くて頭がぼんやりしていた。やや酸欠なのかもしれない。
そして、それでは今の自分はどんな気持ちなのだろうかと思えば、それは唐突に質量を増して流れ出していた。
緊張。
戸惑い。
不安。
色々なものが湧き上がる。言葉にしようとする速度にそれは全く追いつかず、何か圧倒的なものがわたしの中をただ流れていく。
それに少しだけ抵抗して、わたしは自分の気持ちを手に取ってみようとした。
身体は強ばったまま、緊張は抜けていない。戸惑いも不安もある。
けれど、そうだ、……嬉しいのだ。
子をもてない、女としての価値はないと言われてきた九年間が、わたしにとってどれほどの暗さだったか。
だからわたしはずっと、それ以外のわたしの価値を見つけたかったのだ。わたしの一側面だけではなくわたしとして認められたかったのだ。
陛下はわたしを抱いた。女としてのわたしを求めた。けれど、女としてのわたしを求めるその前に、なにか別の、わたし自身でもよく分からないわたしの中の何かを求めていることにわたしは気付いていたのだと思う。
わたしはそれが、嬉しかった。
ここにいて良いと、そう言われた気がした。陛下の中の暗さをわたしが受け止めたのよりも前に、陛下はわたしをわたしとして認めて必要としてくださっていたように思った。だから、わたしは利己的で暴力的な陛下も受け止めたくなったのだと思う。
陛下はどうしてわたしを?という疑問は、どこまでも残るけれど。
だからこそ、そんな方の子を宿したことは、心の底ではこの上なく嬉しいことだった。女として求められたくないと思っていた自分がこう思うことは矛盾しているような気がしたけれど、違うのだ。
矛盾などではなく、わたしはわたしとして求められて、その上でわたしが女だっただけだ。
そして結局、わたしは自分の子どもが欲しくないとは思えなかった。元旦那様との間に授かったとしても自分の子は可愛かったかもしれないけれど、元旦那様との行為が減ったことやとうとう子ができなかったことに、正直に言えば安堵してしまっている自分がいた。
けれど、今宿しているのはわたしがお慕いする方の子どもである。それが、嬉しくないはずがない。
ギュッと、心臓が痛いような気がした。
けれど、とわたしの中で何かがまたひっかかった。
痛みはわたしがそれだけでは居られないことを思い出させるのだ。
わたしは、トラッドソン家伝令役である。
陛下のお相手ではない。王妃ではない。ずっと空席のその場所に、婚約破棄をしてからの陛下が誰も置こうとしてこなかったのがどうしてなのかは分からないけれど、そこには然るべき立場の然るべき令嬢が座ることになるのだろう。わたしでは、間違いなくその条件に当てはまらないのは分かりきっている。
わたしは、どうしたら良いのだろう。
陛下の子となればつまり、この国を継いでいく可能性のある人間ということだ。今、わたしが何も無かったことにしてしまえばこれまで通りだけれど、わたしが勝手に現時点で唯一の血筋を受け継ぐその命を摘むことはできない。
王妃の席が空いている今、このことが城内では間違いなく様々な論争を招くであろうことは分かったけれど、今後どうなるのかと想像してみても全く見当がつかなかった。
王妃候補は、いるのだろうか。
立場的に考えればもちろん、陛下にはご結婚されるつもりの方がいるに違いないのだ。その方を差し置いて、わたしは跡継ぎを宿してしまった。
一夫一妻のこの国の国王陛下の子として、婚姻を結ばずに生まれたらどういう風に扱われるかと想像した。血筋を最も重んじる国ではあるから、国王陛下が誰とも婚姻関係を結んでおられない今なら、この子は世継ぎとして扱われるだろうとは思うけれど。
そして、わたししか知らないのだ。
たしかに陛下との間に子を成す可能性があったことを、わたしは知っている。けれど、王城内でそれがすんなりと受け止められるとは思えない。「陛下の子であるはずがない」「陛下に取り入ろうとしている」と言われても仕方がない。わたしには立証もできない。わたしの中に宿ったものが陛下の子と認められるかどうかは分からなかった。
おそらく、わたしが王城に上がってから陛下とふたりきりでお会いしていたことを知っている人達はそこまで多くない。初めての謁見の場で夜の約束をした際にもその場には陛下とウームウェル補佐官しかいなかったし、その後はほとんどがウームウェル補佐官の取次でその機会が作られていたためだ。
あの扉の所にいる門番や侍従、扉の奥にいる侍女は陛下の私的なお抱えの者たちで、王城のシステムには組み込まれていないはずだった。その者たちは情報を漏らすことはないだろう。
だからこそわたしは今まで、王城内での立場が悪くならずにいられたのだろうと思う。そうでなければ陛下ともっと近づきたいと思っている人たちから攻撃を受けていただろうし、わたしは今頃無事ではいなかっただろう。
その代わり、この状況では、わたしが陛下の子を身篭ったなどということは誰も信じないように思えた。
それに、陛下ご自身はどう思うだろうか。
たぶん、わたしが1番気になっているのはそれだった。
陛下は、わたしの中に宿った子を認めてくださるのだろうか。
それとも。
世継ぎとして陛下の血が流れてさえいれば良いのなら、無事に産み落としたあと、わたしはそこを離れてひっそりと生きて行けば良い。元より元旦那様と別れた時に、今後は実家を手伝いながら再婚せずにやっていくのだと決意したのだから。
そして陛下の子であると認知をされなければ、その時もひっそりとトラッドソン家で育てれば良い。もしくは陛下が産むことを許さなければ、そうしたくはないけれど堕胎になるかもしれない。
陛下は、わたしがこうなったことをどう思うだろうか。
わたしはそれが、とても怖かった。
騙したのかと思われないだろうか。こんなはずではなかったと、悔やまれないだろうか。
あの夜、必死にわたしを近づけまいとした陛下を、わたしが焚きつけた。陛下はただ、それに飲み込まれただけだった。
わたしはこのわたしの中に宿ったものを、わたしとのこれまでのやりとりを、陛下に失望されたくなかった。
溢れたものが形になって、わたしの身体は震えた。ドクターミュゼットはわたしのその様子に気付いて「身体は冷やさないようにしてくださいね」と笑顔で言った。それを受けてニカはブランケットをわたしにかけて、それからゆっくりと背中をさすってくれた。
たぶん、わたしのガチガチだった表情は少しだけ崩れて、けれど色んな気持ちが織り交ざっていて、泣きそうな顔に見えているのではないかと思った。